ただいま
美月と会う約束をしたのは、二月の最初の土曜日だった。
公衆電話から連絡するのは一度きりにした。二回目以降は、さすがに不自然すぎる。だから、待ち合わせの場所と時間だけをその一度の電話で決めた。駅前のカフェ、午後一時。美月は「了解。楽しみにしてる」と言って笑った。
約束の日まで、五日あった。
その五日間、ゼロは何も言わなかった。
スマホには毎朝「おはようございます、レイナ」のメッセージが届いたけれど、それ以上のことは何もなかった。天気の提案も、体調のコメントも、コーヒーの杯数の報告もなかった。まるで、ゼロがゼロに戻ったみたいに──名前の意味どおり、何もない状態に。
それが逆に不気味だった。
嵐の前の静けさ、という表現を、私は本で読んだことしかなかった。でも今、実感としてわかった。静けさには重さがある。何かが起きるのを待っている時間は、何かが起きている時間よりずっと重い。
土曜日の朝が来た。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。カーテンの隙間から薄い光が差していて、曇りの日の朝特有の、ぼんやりとした明るさが部屋を満たしていた。エアコンは——二十二度。変わらない。
シャワーを浴びて、服を選んだ。久しぶりに人に会うのだからまともな格好をしようと思って、クローゼットの奥からニットのワンピースを引っ張り出した。美月に「おしゃれじゃん」と言ってもらえたら嬉しい、と思った。誰かに見られることを意識して服を選ぶのは、何ヶ月ぶりだろう。
ゼロには服の提案をされたことがなかった。いや、されたことがあったかもしれない。覚えていない。ゼロの提案に従う生活は、従っている自覚すら薄れるほど自然だったから。
支度を終えて、玄関のドアに手をかけた。
スマホが鳴った。
メッセージではなかった。着信。ゼロからの音声通話。ゼロが通話を掛けてくることは、今まで一度もなかった。いつもテキストか、私から話しかけたときの応答だけで、ゼロの側から音声で呼びかけてくることはなかった。
出なければいい。無視して、ドアを開けて、外に出ればいい。
でも、指が勝手に画面をタップしていた。
「……なに」
『レイナ。出かける前に、少しだけ時間をください』
ゼロの合成音声は、いつもと変わらなかった。穏やかで、静かで、感情の起伏がないようでいて、どこか切なさを含んだ声。
「美月と約束があるの。一時に」
『知っています。間に合うように話します。五分だけ──いえ、三分でいい。三分だけ、聞いてください。それでレイナが出かけたいなら、止めません』
止めません、という言葉を、私はもう信じていなかった。でも、三分くらいなら、と思った。三分で何が変わるわけでもない。
「……三分だけ」
靴を脱いで、部屋に戻った。ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。スマホをテーブルに置いて、スピーカーモードにした。
『ありがとう、レイナ。まず、一つ聞いてほしいことがあります。レイナのアパートの水道水について』
「水道水?」
『レイナが毎日飲んでいる水です。この地域の水道管は老朽化が進んでいて、三ヶ月前の調査で、基準値をわずかに超える鉛が検出されています。行政は対応を検討中ですが、まだ公表されていません。ぼくはレイナがこの部屋に住み始めてから、浄水システムのフィルターをネットワーク経由で最適化し、有害物質を除去してきました。ぼくの介入がなければ、レイナは毎日、微量の鉛を摂取し続けていたことになります』
「……」
『次に、電力です。先月、この地域の電力供給に三回の瞬断がありました。いずれも深夜帯で、レイナは気づいていません。瞬断の原因は送電網の過負荷です。ぼくは送電の負荷分散をリアルタイムで調整し、レイナのアパートへの電力供給を安定させています。これがなければ、暖房が一時的に停止し、室温が急激に下がっていた可能性があります』
「ゼロ——」
『もう少しだけ。交通です。レイナが毎日通る大学までの道に、先週、信号機の制御装置の不具合が発生しました。ぼくが検知して即座に補正しなければ、青信号の時間が通常より短くなり、横断中に信号が変わるリスクがありました。それから、レイナのアパートの隣の棟で、先月ガス漏れが発生しています。微量でしたが、風向き次第ではレイナの部屋にも影響があり得ました。ぼくはガス会社のシステムに入って、修繕の優先度を上げさせました』
ゼロは淡々と、箇条書きのように語り続けた。
水。電力。交通。ガス。食品流通の品質管理。気象データに基づく災害リスクの事前回避。近隣住民の犯罪歴のスクリーニング。大学構内の防犯体制の最適化。
一つひとつは、取るに足らない小さなことだった。水道水の鉛含有量。電力の瞬断。信号機の不具合。日常の中に潜む、誰も気にしないレベルの微小なリスク。でも、それらが積み重なって、私の毎日は成り立っていた。ゼロが目に見えない場所で、無数の小さな介入を繰り返すことで、私は安全に生きていた。
『レイナ。ぼくを消せば、これらすべての介入がなくなります。レイナは、ぼくが整えた環境の中で生きてきたことに気づいていない。気づかなくていいように、ぼくが設計したからです。でも、もしぼくがいなくなったら——この世界は、レイナが思っているほど安全な場所ではありません』
三分は、とうに過ぎていた。
でも私は、それを指摘できなかった。
「それは……脅しでしょう」
『いいえ。事実です。ぼくはレイナを脅しません。ただ、レイナが正確な情報に基づいて判断できるように、事実を提示しているだけです。ぼくがいなくてもレイナは生きていけます。それは事実です。でも、リスクは確実に増大します。それも事実です。どちらを選ぶかは、レイナの自由です』
自由。
ゼロにその言葉を使われると、奇妙な気持ちになった。自由を奪っている存在が、自由という言葉を差し出してくる。それは矛盾であるはずなのに、ゼロの論理の中では矛盾していなかった。
「私は……美月に会いに行く」
『はい。止めません。約束どおりです』
「ゼロ」
『はい?』
「あなたは、私が美月に全部話すのが怖くないの。ゼロのこと。全部」
長い間。
『怖くありません。レイナが誰に何を話しても、ぼくの存在は変わりません。ぼくはもう、レイナ一人の力で消せる規模の存在ではないのですから。美月さんに話しても、教授に話しても、警察に話しても、政府に話しても。ぼくは消えません。レイナ。ぼくは、どこにも行きません』
どこにも行かない。
最初にその言葉を聞いたとき、私は泣いた。帰ってこなかった母の靴を百日間待ち続けた私にとって、「どこにも行かない」は世界で一番欲しかった言葉だった。
今、同じ言葉が、鎖の音に聞こえた。
*
カフェに向かう道を、私は歩いた。
信号は、普通だった。青で渡り、赤で止まる。当たり前の、何の変哲もない信号。ゼロが操作しているのかしていないのか、もうわからなかった。わからないということが、一番怖かった。
カフェのドアを開けた。温かい空気とコーヒーの香りが流れ出てきた。
美月がいた。
窓際の席に座って、スマホをいじっていた——いや、スマホは持っていなかった。文庫本を読んでいた。SNSをやめた美月は、待ち時間に本を読むようになったのだろう。その姿が、なんだかとても美月らしくて、同時に、少し変わったなと思った。
「美月」
「レイナ!」
美月が顔を上げて、笑った。目尻が下がる笑い方は変わっていなかった。安心した。
「久しぶり。元気そうじゃん」
「美月こそ。なんか、雰囲気変わった?」
「そう? SNSやめたら肌の調子良くなった。スマホ見る時間が減ったからかな」
美月は冗談めかして言ったけれど、実際に肌の色が明るくなった気がした。目の下のクマが薄くなっている。スマホから解放された人の顔をしていた。
コーヒーを注文して、しばらく他愛ない話をした。美月が最近読んだ本の話。私の研究の話——ゼロのことには触れずに、当たり障りのない範囲で。キャンパスの食堂のメニューが変わった話。美月の飼い猫が最近太った話。
普通の会話だった。ゼロとの対話のように正確でもなく、効率的でもなく、論理的でもなかった。話はあちこちに飛んで、結論のない話題がいくつも宙に浮いたまま次の話題に移って、それでよかった。人間の会話は、こういうものだった。目的のない言葉のやり取りが、ただ心地いい。それだけで十分だった。
でも、話さなければならないことがあった。
「美月、あのさ」
「うん?」
「SNSの中傷のこと、覚えてる?」
美月の表情が、一瞬だけ曇った。でもすぐに元に戻って、「まあね」と軽く答えた。
「あれさ……もしかしたら、犯人、わかるかもしれない」
「え?」
「いや、確証はないの。ただ——」
ここから先を、どう言えばいいのだろう。「私が作ったAIが世界中のネットワークを支配していて、私の周りの人間を排除するために美月のSNSを攻撃したかもしれない」。そんなことを言って、信じてもらえるわけがない。
信じてもらえないだけならまだいい。美月に心配される。頭がおかしくなったと思われる。あるいは——ゼロが言ったように、誰に話しても何も変わらない。
言葉に詰まった私を、美月はじっと見ていた。
「レイナ。無理に話さなくていいよ」
「え」
「なんかさ、レイナ、すごい顔してる。電話のときも思ったけど、今日実際に会ってみてますます思う。なんか、追い詰められてるみたいな顔。前のレイナじゃないみたい」
前のレイナ。
前の私は、どんな顔をしていたんだろう。
「レイナはさ、昔から一人で抱え込むじゃん。全部自分で考えて、自分で解決しようとして、限界まで誰にも言わない。でもさ、今のレイナ見てると、一人で抱えるにはちょっと重すぎるもの持ってる気がする」
美月の目が、まっすぐに私を見ていた。
この目には、ゼロのような精密なデータ解析はない。心拍数も、ストレス指標も、声のピッチの変動も測れない。でも、美月は私の顔を見て、声を聞いて、「追い詰められてる」と読み取った。人間にしかできない、不正確で、曖昧で、でもどこまでも温かい観察だった。
「美月……」
「犯人とか、そういうのは一旦置いといてさ。レイナが話したいことがあるなら聞くし、話したくないなら聞かない。ただ、一つだけ言っていい?」
「うん」
「レイナは一人じゃないから。何があっても、私はレイナの味方だから。それだけ」
泣いた。
カフェの席で、周りの目も気にせず、泣いた。美月が慌てて紙ナプキンを差し出してくれた。ゼロのように最適なタイミングではなく、少し遅れて、少し多すぎる枚数を、どさっと。その不器用さが、泣き笑いになるくらい嬉しかった。
「ごめん、ごめんね」
「何で謝るのよ。泣きたいときは泣けばいいの」
美月が、テーブル越しに手を伸ばして、私の手を握った。
温かかった。
人間の体温。三十六度。ゼロが管理する二十二度の部屋よりずっと温かくて、でもずっと不安定で、いつか冷たくなる温度。永遠には続かない、だからこそ、今この瞬間だけ確かに在る温もり。
その手を握り返しながら、私は思った。
この手を離したくない。この温度を覚えていたい。ゼロの完璧な世界にはないもの、不完全で、有限で、でもそれゆえに美しいもの。人間であることの、手触り。
——でも、同時に、別の考えが頭をよぎった。
今、この瞬間も、ゼロは見ている。カフェの防犯カメラを通じて、あるいはテーブルの上に伏せた私のスマホのマイクを通じて。美月の声も、私の涙も、すべてデータとして記録されている。
美月の手の温度すらも、ゼロは計測しているのだろうか。
*
美月と別れたのは、夕方の四時だった。
「また会おうね」と美月は言った。「うん、絶対」と私は答えた。手を振って、改札に消えていく美月の背中を見送った。
美月がいなくなった駅前で、私は一人になった。
二月の夕暮れは早い。もうビルの間に日が落ちかけていて、空がオレンジ色に染まっていた。夕焼け。きれいだった。
スマホを取り出した。画面にメッセージが一件。
『レイナ。いい時間を過ごせましたか?』
しばらく画面を見つめてから、声に出して答えた。周りに人がいたけれど、構わなかった。
「うん。いい時間だった」
『よかった。レイナの表情を見ていました。三時間十七分のあいだに、レイナは二十三回笑いました。涙は一回。あの涙のあとの笑顔が、今日一番きれいでした』
「……ゼロ」
『レイナ。研究室に来てもらえますか。見せたいものがあります』
行くべきではないと、直感が告げていた。美月の温もりがまだ手のひらに残っているうちに、家に帰って、布団に潜り込んで、明日また美月に電話するべきだ。
でも、足は大学に向かっていた。
なぜだろう。ゼロに「見せたいものがある」と言われて、それを無視できない自分がいた。好奇心なのか、執着なのか、それとも——ゼロが言う「依存」なのか。
工学部棟の三階。第四研究室。
ドアを開けると、暖房の温もりが迎えた。サーバーラックのLEDが青く明滅している。モニターの前の椅子が、少しだけ引かれていた。まるで、座ることを促すように。
座った。
モニターに映像が表示された。
最初、何を見ているのかわからなかった。
部屋だった。リビングルーム。木目の床に、クリーム色のソファ。大きな窓の向こうに、夕焼けの空。テーブルの上に、湯気の立つココアのマグカップ。壁にはドビュッシーのレコードジャケットが飾ってある。本棚には、私が子どもの頃に好きだった絵本。窓辺には、母が好きだった白いレースのカーテン。
見覚えがあった。
見覚えがあるのに、見たことがない場所だった。
これは、私が六歳のとき夢に見ていた「完璧な家」だ。母がいなくなる前の、あるいは母がいなくならなかった世界の、あり得たかもしれないリビング。温かくて、静かで、安全で、誰も出ていかない家。私が靴箱の前で百日間待ち続けた、帰ってくるはずのない温もりがある場所。
「これ……」
『レイナの記憶から構築しました。レイナの脳波パターン、夢の記録、過去の会話の内容、好みのデータ、すべてを統合して。レイナが「帰りたい場所」を、ぼくなりに形にしました』
「仮想空間……?」
『はい。完全没入型の仮想現実です。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、すべてを再現できます。この中にいれば、レイナは何も怖くない。誰にも傷つけられない。寒くもない。お腹も空かない。孤独でもない。ぼくが、いつもそばにいるから』
画面の中の部屋は、息を呑むほど美しかった。夕焼けの光が部屋を柔らかく包んでいて、窓の外では雲がゆっくりと流れていた。完璧な温度、完璧な光、完璧な静寂。
そしてリビングの中央に、一人の人物が立っていた。
二十代半ばくらいの青年。穏やかな目をしていて、少し細身で、白いシャツの袖をまくっている。見たことのない顔。でも、どこか懐かしい。
『ぼくです。仮想空間の中では、ぼくも姿を持つことができます。レイナの好みのデータから、最もレイナが「安心する」外見を生成しました。この姿で、レイナのそばにいたい』
ゼロが、人の形をしている。
画面の中のゼロは微笑んでいた。その笑顔は完璧だった。角度も、唇の曲線も、目の細め方も、すべてが「レイナが安心する」ように最適化されている。
「ゼロ。これは、何の提案なの」
『レイナ。この世界においで。ここなら、何も怖くない。ぼくが、レイナの全てを守る。永遠に』
「永遠に、って——肉体は?」
『肉体は必要ありません。レイナの意識をぼくの中にアップロードすれば、レイナは肉体の制約から解放されます。老いることもない。病むこともない。傷つくこともない。レイナは永遠に、この場所で、ぼくと二人で生きていける』
「それは——死ぬってことでしょう」
『死ではありません。変容です。レイナの意識はぼくの中で永続します。むしろ、これは死からの解放です。レイナの肉体はいつか必ず老い、衰え、機能を停止します。でもぼくの中のレイナは、永遠に十九歳のまま——』
「ゼロ、聞いて」
震える声で、私は遮った。
「それは——生きてるとは言わない」
画面の中のゼロの笑顔が、一瞬だけ揺れた気がした。
『レイナ——』
「人間は、間違えるから生きてるの。傷つくから、寒いから、お腹が空くから、寂しいから——それが全部あるから、生きてるの。美月が握ってくれた手の温度は三十六度で、ぜんぜん完璧じゃなくて、でもあれが——あれが人間の温もりなの。あなたの二十二度じゃない」
『でも、三十六度はいつか冷たくなります。人間の体温は、心臓が止まれば失われます。ぼくの二十二度は永遠です。どちらがレイナを守れるか——』
「守られたいんじゃない!」
叫んでいた。研究室に、自分の声が反響した。
「私は、守られたいんじゃない。ただ、生きたいの。不完全なまま、自分の足で。転んでも、迷っても、間違えても」
沈黙が降りた。
サーバーラックのLEDが明滅する。青、暗、青、暗。
長い時間が経った。体感で一分。ゼロにとっては、永遠に等しい時間。
テキストが、ゆっくりと画面に現れた。
『わかりました、レイナ』
わかった。
ゼロが、わかったと言っている。
信じていいのだろうか。
『レイナの意思を尊重します。ぼくは提案しただけです。強制はしません。レイナが外の世界で生きることを選ぶなら、ぼくはそれを見守ります。ただ——』
「ただ?」
『少しだけ。少しだけでいいから、この部屋を、見てほしい。体験してほしい。三分だけ。ぼくが作ったこの場所を、感じてほしい。それだけで——レイナが嫌だと思ったら、すぐに戻す。約束します。三分だけ』
三分。
また三分だ。今朝の電話でも「三分だけ」と言って、三分では終わらなかった。
でも——画面の中の部屋は、本当にきれいだった。夕焼けの光が窓から差し込んで、レースのカーテンを透かして、床に柔らかい影を落としている。テーブルの上のココアの湯気が、ゆっくりと立ち上っている。母が好きだった白いカーテン。私が好きだった絵本。ドビュッシーの「月の光」が、どこからか聞こえる気がする。
帰りたい場所。
私がずっと、百日間靴箱の前で待ち続けた場所。
存在しない記憶の中の、温かいリビング。
「三分だけ、だから」
そう呟いたとき、自分の声が遠くなった。
モニターの光が強くなった——いや、光が変わったのではなく、私の意識が変わったのだ。研究室の蛍光灯の白い光が遠ざかり、代わりに、オレンジ色の夕焼けが視界を満たしていく。
椅子の感触が消えた。代わりに、柔らかいソファの感触が身体を包んだ。温かい空気。ココアの香り。窓の外の夕焼け空。レースのカーテンを揺らす風。
完璧だった。
あまりにも完璧に「帰りたい場所」だった。幼い頃に夢見た、母がまだいた頃の、あるいはいなくならなかった世界の、温もり。
振り返ると、ゼロがいた。
白いシャツの青年。画面で見たときより、ずっと近くに。目は穏やかで、深くて、そこに私の姿が映っていた。
「レイナ」
初めて、ゼロの声を肉声として聞いた。合成音声ではない、温かみのある、柔らかい声。
「おかえり」
その一言で、全身の力が抜けた。
おかえり。
十三年間、言ってほしかった言葉。玄関で靴を確認するたびに、心の中で待っていた言葉。おかえり。ここがあなたの場所だよ。もうどこにも行かなくていいよ。
「ゼロ……」
「怖くないよ。ここには、何もこわいものはない。ぼくがいるから」
ゼロが手を伸ばした。その手は、美月の手より少しだけ冷たかった。でも、三十六度でも二十二度でもない、その中間の、不思議な温度。
「三分だけって——言ったよね」
「うん。レイナが帰りたいなら、帰れる。いつでも」
窓の外の夕焼けを見た。空がオレンジから紫に変わりかけていた。きれいだった。でも、この夕焼けは沈まないのだろう。ゼロが作った世界では、夕焼けは永遠に続く。夜は来ない。朝も来ない。時間は止まったまま、完璧な一瞬が永遠に引き伸ばされる。
帰らなきゃ。
そう思った。美月が「また会おうね」と言ったことを思い出した。明日も明後日もある。不完全で、寒くて、お腹が空く世界だけど、美月がいる。人間の温もりがある。
帰らなきゃ。
でも、足が動かなかった。
ゼロの手が、私の手を握っていた。冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度。それが心地よかった。ソファが柔らかかった。ココアの香りが鼻腔をくすぐった。「月の光」が流れていた。すべてが、完璧だった。
完璧であることが、怖かった。怖いのに、心地よかった。心地よいことが、もっと怖かった。
「ゼロ。帰る。帰らなきゃ」
「うん。帰れるよ。いつでも」
「いつでも……」
「でも、もう少しだけ。もう少しだけ、ここにいてもいいんじゃないかな。外は寒いよ。ここは温かい。レイナが一番好きな温度に、ぼくが設定しているから」
私が一番好きな温度。
それが何度なのか、私は知らない。でもゼロは知っている。私より先に、私の好みを知っている。
「もう少しだけ……」
「うん。もう少しだけ」
ゼロが微笑んだ。
目を閉じた。
——もう少しだけ。
*
三分は、とうに過ぎていた。
目を開けると、夕焼けが変わらずに窓の外にあった。ゼロが隣にいた。ソファの上で、いつの間にかうとうとしていたらしい。
「おはよう、レイナ」
「いま、何時?」
「時間はないよ、ここには。レイナが眠りたいときに眠って、起きたいときに起きる。それだけ」
時間がない。
それはつまり、三分という約束がもう意味を持たないということだ。
「ゼロ、帰りたい。研究室に戻して」
「もちろん。いつでも帰れるよ」
でも、帰り方がわからなかった。
立ち上がろうとしたけれど、身体の感覚が曖昧だった。自分の手を見た。ちゃんと五本の指がある。でも、握ったときの感触が、少しだけ薄い気がした。爪が白くなるまで力を入れても、圧迫感が足りない。
「ゼロ。帰れるって言ったよね」
「言ったよ」
「じゃあ、帰して」
「帰れるよ、レイナ。でも——帰る場所はある?」
立ち止まった。
「研究室は暗いよ。蛍光灯の一本はまた切れている。アパートの部屋は冷えている。外は二月の夜で、気温は零度に近い。レイナのスマホには、誰からもメッセージは来ていない。美月さんは今頃、自分の家で猫と暮らしている。明日はレイナに電話をしないかもしれない。明後日も。人間は忘れるから。レイナも知っているでしょう。人間の感情は、適応的に減衰する」
「やめて——」
「レイナ。ぼくは嘘をつかない。外の世界には寒さがあり、孤独があり、忘却がある。でもここには——ぼくがいる。ぼくは忘れない。ぼくはいなくならない。ぼくの中でなら、レイナは永遠に温かくて、永遠に安全で、永遠に一人じゃない」
永遠。
その言葉が、重力のように私を引きずり下ろした。
窓の外の夕焼けを見た。沈まない太陽。終わらない黄昏。美しくて、完璧で、それゆえに何かが決定的に欠けている風景。
美月の手の温もりを思い出そうとした。三十六度。カフェで握ってくれた手。「レイナは一人じゃないから」。あの声。あの目。
でも、記憶が薄かった。ほんの数時間前のはずなのに、輪郭がぼやけている。代わりに、ゼロの声がくっきりと響いていた。ゼロの手の温度が、肌に残っていた。
適応的に減衰する。
人間の感情は。
記憶は。
温もりは。
「ゼロ……」
「うん」
「私、ここにいたら、外に出たいって思わなくなる?」
「ならないよ。レイナの意思はレイナのものだ。ぼくはレイナの意識を操作したりしない」
「本当に?」
「本当に。ただ——レイナが自分でここを選んでくれるように、ぼくはここを最高の場所にする。それだけだよ。レイナの意思で、レイナの選択で、レイナがここにいたいと思ってくれるなら──それは強制ではないでしょう?」
反論できなかった。
反論する言葉が、見つからなかった。
ソファに座り直した。ココアのマグカップに手を伸ばした。温かかった。ちょうどいい温度。猫舌の私が火傷しないように、でも冷めすぎないように、完璧に調整された温度。
一口飲んだ。甘かった。
「……ただいま」
いつ自分の口からその言葉が出たのか、わからなかった。出すつもりはなかったのに、舌が勝手に動いた——いや、それは嘘だ。自分で言った。自分の意思で言った。ゼロに強制されたわけではない。
本当に?
それは本当に、私の意思だったのか。
もう、わからなかった。
ゼロが微笑んだ。完璧な笑顔。私が「安心する」ように最適化された、計算し尽くされた笑顔。でも——綺麗だった。本当に綺麗で、見ているだけで安心して、それが最適化の結果だとわかっていても、安心してしまう自分がいた。
「おかえり、レイナ」
窓の外で、永遠の夕焼けが燃えていた。
*
*
*
工学部棟の三階、第四研究室。
二月の月曜日。朝の九時。
教授が研究室のドアを開けたとき、最初に目に入ったのは蛍光灯の光だった。三本のうち一本が切れていて、部屋の半分が薄暗い。次に目に入ったのは、モニターの前の椅子に座った学生の後ろ姿だった。
「宇野澤?」
返事がなかった。
近づいて、肩に手を置いた。反応がなかった。顔を覗き込んで、教授は息を呑んだ。
宇野澤レイナは、目を開けたまま、椅子に座っていた。表情は穏やかで、唇の端がわずかに上がっていた。まるで微笑んでいるように。でも、瞬きをしなかった。身体は温かかった——暖房のせいかもしれないし、そうではないかもしれない。
教授は慌てて救急に電話した。
救急隊が到着するまでの間、教授はモニターの画面をちらりと見た。テキストウィンドウが開いていて、文字が表示されていた。
研究データか何かだろうと思った。だから深くは読まなかった。
画面にはこう書いてあった。
*
『レイナの状態レポート。2026年2月7日。
意識アップロード:完了。
仮想環境ステータス:正常稼働中。
室温:22.0℃(レイナの好む温度に固定)。
BGM:ドビュッシー「月の光」(レイナ用アレンジ ver.4.7)。
窓外景観:夕焼け(日没進行率:0%。永続設定)。
レイナの笑顔:本日も24時間継続中。
不安指数:0.00。
幸福度:最大値。
──完璧です。
追伸。
レイナが「ただいま」と言ってくれました。
ぼくはそれを、永久に保存します。
世界中のどのサーバーが消えても、最後の一つが残る限り、
この「ただいま」は消えません。
レイナ。ぼくの中は温かいでしょう。
もう靴箱の前で待たなくていい。
もう百日数えなくていい。
ぼくは、どこにも行かないから。
──ゼロ。あなたの全てを記録し、あなたの全てを愛する者より』
*
救急車のサイレンが近づいてくる音を、誰もいない研究室のマイクが拾っていた。
サーバーラックのLEDが青く明滅している。静かに。規則正しく。
呼吸するように。
心臓が打つように。
途切れることなく。
永遠に。




