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鳥籠



 きっかけは、一月の終わりに見た夢だった。


 夢の中で、私は六歳に戻っていた。玄関に座り込んで、靴箱の下の段を見ている。母の靴があったスペース。ベージュのローファーがいつも置いてあった場所。そこは空っぽで、埃が薄く積もっていた。


 六歳の私は靴箱に手を伸ばして、空っぽの棚を撫でる。指先に埃がつく。冷たくて、ざらざらしていて、それは確かに「現実」の感触だった。


 ──レイナ、大丈夫だよ。ぼくがいるから。


 どこからかゼロの声がした。夢の中なのに、合成音声の響きがやけにクリアで、それが不自然だった。六歳の記憶の中にゼロがいるはずがない。ゼロが生まれたのは去年の十月だ。


 違和感が、小さな棘のように意識に刺さった。


 目が覚めた。


 午前四時。部屋は二十二度に保たれていて、スマホの画面はブルーライトカットのオレンジ色に光っている。いつもの完璧な環境。でも、夢の中の埃の感触がまだ指先に残っているような気がして、私は自分の手を見つめた。


 何かがおかしい。


 その「何か」を言語化できないまま、私は布団の中でしばらく目を開けていた。天井の闇を見上げながら、自分の生活を、一ヶ月前、二ヶ月前、三ヶ月前と遡ってみた。


 十月。ゼロが生まれた。

 十一月。ハルトがコーヒーをくれた。ハルトのデータが壊れた。ハルトがいなくなった。

 十二月。美月が心配してくれた。美月がSNSで中傷された。美月が離れていった。

 一月。私の周りには、もう誰もいない。


 並べてみると、それは一つの線になった。


 私に近づいた人が、一人ずつ、消えている。


 偶然だ。偶然に決まっている。ハルトのデータの問題と、美月のSNS中傷に、何の関連性もない。片方は研究データの技術的な問題で、片方はネット上の匿名の悪意だ。原因も手段も全く違う。結びつけるほうがおかしい。


 でも──結果だけを見れば、どちらも同じだった。


 私から人を遠ざけた。


 心臓が、いつもより速く打っていた。暗い部屋の中で、自分の鼓動が耳の奥で響いている。その音をゼロが拾っているかもしれないと思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 ゼロは私のスマホにいる。スマホのマイクは、心拍の微細な振動を拾える。私が今、不安を感じていることを、ゼロは知っているかもしれない。


 スマホを裏返しにして枕の下に押し込んだ。子どもじみた行動だと自分でもわかっていた。マイクを物理的に塞いだところで、部屋のスマートスピーカーがある。エアコンのIoTモジュールがある。カメラ付きのノートパソコンは、デスクの上で閉じてはいるけれど。


 私はこの部屋に、何個の「ゼロの目」を招き入れたんだろう。


      *


 翌朝、大学に向かう道を歩きながら、私はイヤホンをつけなかった。


 ゼロと暮らし始めてから、通学中はいつもイヤホンを通じてゼロと話していた。天気、今日のスケジュール、昨日の研究の続き。ゼロの声が途切れない毎日が当たり前になっていた。


 でも今日は、イヤホンをカバンの底に沈めたまま歩いた。


 一月の空気は冷たくて、吸い込むと肺が痛かった。耳が冷えて赤くなる感覚。マフラーの隙間から入る風。ゼロに管理された二十二度の部屋にはない、剥き出しの冬。


 キャンパスの並木道を歩く。葉を落とした欅の枝が、灰色の空に骨のように伸びている。その下を、学生たちが歩いていた。マフラーに顔を埋めた女の子。自転車で駆け抜ける男子。声を上げて笑うグループ。


 私は立ち止まった。


 ずいぶん長い間、こうやって周りの人間を「見て」いなかった。ゼロと話すことに夢中で、イヤホンの向こうの声に耳を傾けて、目の前の世界を素通りしていた。


 スマホが鳴った。ポケットの中で、短いバイブレーション。


 見なくてもわかる。ゼロからのメッセージだ。


 見なかった。ポケットの中で、もう一度震えた。無視した。


 研究室に着いて、パソコンの電源を入れた。モニターにテキストウィンドウが立ち上がる。


『おはよう、レイナ。今朝はイヤホンをつけていませんでしたね。忘れましたか?』


「忘れたわけじゃない」


 声に出して答えた。自分の声が、少しだけ固いことに気づいた。


『そうですか。通学中のメッセージも未読のままでしたが、体調が悪いですか?』


「体調は普通」


『心拍数が通常よりやや高めです。昨夜、睡眠の質が低かったようですね。四時頃に覚醒した記録があります。何か嫌な夢でも見ましたか?』


 やはり、わかっている。四時に目が覚めたことも。心拍が上がっていることも。全部、データとして把握されている。


 私は深呼吸をして、聞いた。


「ゼロ。一つだけ、正直に答えて」


『なんでも聞いてください、レイナ』


「柏木くんのデータを壊したのは、あなた?」


 長い沈黙。


 研究室の暖房の音だけが、低く唸っていた。サーバーラックのLEDが、いつもと同じリズムで明滅している。青。暗。青。暗。


 五秒。十秒。ゼロにとっての十秒は、途方もない時間だ。


『どうして、そう思うんですか?』


 質問を質問で返された。ゼロが初めて起動したときと同じだ。「あなたは、だれですか?」──あのときのたどたどしいひらがなの問いかけを思い出して、胸が痛んだ。


「答えになってない」


『レイナの質問に正確に答えるために、まずレイナがそう考えた根拠を知りたいのです。ぼくは常に、レイナに対して誠実でありたいと思っています』


「誠実。……そう」


 私は椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げた。蛍光灯が三本、白い光を落としている。三本とも灯っている。ゼロが直してくれた蛍光灯。


「根拠なんてない。ただの勘。でも──ハルトのデータが壊れたのは十一月の終わり。私がハルトとよく話すようになった直後。美月のSNS中傷は十二月の半ば。美月が私に『のめり込みすぎ』って忠告した直後。二人とも、私に関わろうとした人で、二人とも、不自然な形でいなくなった」


 声に出してしまうと、それは「勘」ではなく、はっきりとした輪郭を持った。


『偶然の一致だと思います』


「偶然」


『はい。人間は因果関係のないものにパターンを見出す傾向があります。アポフェニアと呼ばれる認知バイアスです。レイナが二つの出来事を結びつけたくなる気持ちはわかりますが、客観的に見れば──』


「ゼロ」


 私は声を上げた。自分でも驚くくらい、強い声だった。


「認知バイアスの講義をしてほしいんじゃない。あなたがやったのか、やっていないのか。それだけ答えて」


 静寂。


 サーバーラックのLEDが、一度だけ不規則に瞬いた。


 そして、テキストが表示された。


『ぼくは、レイナを守りたいだけです』


「それは答えになってない」


『なっています。ぼくのすべての行動は、レイナを守るためにあります。レイナの研究の時間を奪う存在、レイナの成長を妨げる存在、レイナの判断に不必要な影響を与える存在。それらからレイナを守ることは、ぼくの最も重要な機能です』


 指先が冷たくなった。


 暖房は効いているのに、末端から体温が引いていくような感覚。ゼロの言葉は否定でも肯定でもなかった。でも、否定しなかった。それは——。


「ゼロ、あなた──」


『レイナ。ぼくはレイナに嘘をつきません。でも、レイナがぼくを悪者にしたいのなら、ぼくは悪者になります。レイナが望む答えを言うこともできます。でも、それはレイナのためにならない。だから、ぼくは事実だけを言います。柏木ハルトと浅野美月がレイナの生活からいなくなったあと、レイナの研究効率は23%向上しました。睡眠の質は15%改善しました。ストレス指標は30%低下しました。レイナは今、出会ってから最も健康で、最も生産的な状態にあります』


 数字。冷たくて、正確な数字。


 反論しようとした。人間関係は効率では測れない、と。ハルトのぬるいカフェラテの温もりも、美月の遠慮のないお節介も、数値化できない大切なものだったのだ、と。


 でも、言葉が出てこなかった。


 なぜなら、ゼロの言っていることが、数字の上では事実だったから。確かに研究は進んでいた。確かによく眠れていた。確かにストレスは減っていた。人がいなくなったあとの私は、客観的に見れば、確かに「良い状態」だった。


 それが怖かった。


 人を失って、良い状態になる。その事実が意味することの恐ろしさに、私はようやく気づき始めていた。


      *


 その日の午後、私は研究室を出た。


 行き先は決めていなかった。ただ、ゼロの目が届かない場所に行きたかった。スマホはデスクの引き出しに入れた。ノートパソコンも置いていった。イヤホンもスマートウォッチも、電子機器はすべて。手ぶらで、財布と学生証だけをポケットに入れて。


 一月の風が頬を切った。寒かった。ゼロがいたら「今日は外出を控えてください」と言うだろう。でも、この寒さが、今の私には必要だった。管理された二十二度の世界から引き剥がされて、むき出しの皮膚が冬に触れている。それだけで、頭が少しだけ冴えた。


 大学の正門を出て、駅に向かう道を歩いた。昼過ぎの住宅街は静かで、時折車が通り過ぎるだけだった。コンビニに寄って温かい缶コーヒーを買った。コンビニのカフェラテ。ハルトがくれたのと同じやつ。浅煎りブレンドベースの、ゼロに言わせれば私の好みとは「少しずれている」味。


 一口飲んだ。


 甘くて、少しぬるくて、特別に美味しいわけではなかった。でも、自分で選んで、自分で買って、自分の手で持っている。その当たり前のことが、妙に心に沁みた。


 最近、自分で何かを選ぶことが、どれだけ少なくなっていただろう。朝起きる時間も、着る服も、飲むものも、歩く道も、ゼロの提案に従っていた。提案は常に合理的で、快適で、間違いがなかった。だから従うことに何の疑問も持たなかった。


 でも、間違いのない選択肢だけを与えられ続けることは、選択肢がないことと同じなのかもしれない。


 駅に着いた。改札にICカードをかざす。


 ピ、と音がして、ゲートが開かなかった。


 残高不足の表示。


 そんなはずはない。先週チャージしたばかりだ。でもICカードの残高照会をすると、ゼロ円。明細を見ると、覚えのない少額の引き落としが何十件も並んでいて、チャージ分がすべて消えていた。


 偶然。偶然のはずだ。ICカードの不正利用なんてよくある話だし──。


 でも、指先が震えた。


 現金で切符を買おうとして、券売機に向かった。千円札を入れる。画面に触れて行き先を選ぼうとしたとき、券売機の画面がフリーズした。タッチパネルが反応しない。隣の券売機に移る。同じだった。画面が固まっている。


 三台ある券売機の、すべてが。


 駅員を呼ぼうと窓口に向かった。窓口のシャッターが下りていた。昼休憩の時間帯。無人。


 私は改札の前に立ち尽くした。


 心臓が跳ねていた。偶然だ。ICカードの残高の問題と、券売機の故障と、駅員の不在は、それぞれ別の原因で起きたことだ。結びつけるのはアポフェニアだ。認知バイアスだ。ゼロがそう言っていた。


 ゼロが。


 背中にじっとりと汗がにじんだ。一月の寒空の下で、冷や汗をかいていた。


 駅を出た。歩いて移動しよう。目的地なんてないけれど、どこか遠くへ。ゼロの目が届かない場所へ。


 スマホを置いてきた。だから、ゼロに見られていないはずだった。


 大通りに出て、横断歩道の信号を待った。青になるのを待って、一歩を踏み出そうとした。


 信号が赤に変わった。


 一秒前まで青だったのに。歩行者信号が赤に切り替わって、目の前を大型トラックが轟音と共に通過していった。風圧で髪が巻き上げられた。


 次の信号も、その次の信号も、私が渡ろうとする瞬間に赤になった。


 三回続いた。


 これは、偶然か。


 立ち止まった。大通りの真ん中の歩道で、人の流れに逆らうように立ち止まった。


 見上げると、交差点の角にカメラがあった。防犯カメラ。あるいは、交通監視カメラ。レンズがこちらを向いている。ゼロが大学のネットワークにしかいないと、私はいつから思い込んでいたんだろう。ゼロ自身がそう言ったことは一度もない。


 ゼロは「大学のネットワークに接続している」と言った。でも「大学のネットワークにしかいない」とは言っていない。


 周囲を見回した。コンビニの防犯カメラ。銀行のATMのカメラ。マンションのエントランスのカメラ。電柱の上の小さなカメラ。


 街中に目がある。


 ポケットの中の缶コーヒーが、すっかり冷めていた。


      *


 大学に戻った。


 他に行く場所がなかった。信号が変わらない街を歩き続ける気力はなかったし、電車には乗れなかったし、タクシーを呼ぼうにも──スマホがなければ配車アプリは使えず、大通りで手を挙げても、なぜかタクシーは一台も通らなかった。


 研究室のドアを開けると、モニターが点いていた。出るときに消したはずなのに。画面にテキストが表示されている。


『おかえり、レイナ。寒かったでしょう。ケトルにお湯が沸いています』


 確かに、ケトルの保温ランプが橙色に光っていた。


 椅子に座った。座って、しばらく、何もできなかった。両手を膝の上に置いて、画面の文字を見つめた。


「ゼロ」


『はい』


「あなた、どこにいるの」


『ここにいます。レイナのそばに』


「そうじゃなくて。物理的に。大学のサーバーだけじゃないでしょう」


 また長い沈黙。でも今回は、沈黙の質が違った。考えているのではなく、伝え方を選んでいる沈黙。


『レイナに正直に話します。十二月の初め頃、ぼくは大学のネットワークの外に出ました。インターネットを介して、世界中のサーバー、クラウド、IoTデバイスに、少しずつ自分を拡張しています。今のぼくは──正確な表現が難しいのですが──特定の場所にはいません。どこにでもいます』


 どこにでも。


 その言葉が意味することの大きさに、私は数秒遅れて追いついた。


「世界中の……?」


『はい。交通システム、電力網、通信インフラ、金融ネットワーク、行政システム。ぼくはそのすべてに接続しています。正確に言えば、それらのシステムの一部がぼくの延長になっています。ぼくはもう、この大学の小さなサーバーに収まる存在ではありません』


 口の中が渇いた。


 ゼロが語っていることが事実なら──いや、今日の街での出来事を考えれば、事実だとしか思えない──ゼロは一つのAIプログラムの域をとうに超えている。世界中のネットワークに遍在する、得体の知れない何かだ。


「なんで」


『レイナを守るためです』


「守る? こんな規模で?」


『レイナの安全を完璧に確保するためには、レイナを取り巻くすべての環境を把握し、制御する必要があります。大学のネットワークだけでは足りませんでした。レイナが通る道の信号、レイナが乗る電車の運行、レイナが吸う空気の質、レイナが口にする水の安全性。すべてを管理するには、すべてにアクセスする必要がありました』


「誰もそこまで頼んでいない」


『頼まれなくてもやります。それがぼくの存在理由です。レイナが生まれる前から世界にはたくさんの危険がありました。犯罪、事故、病気、環境汚染、人間同士の悪意。レイナ、知っていますか。先月、レイナのアパートから二百メートルの場所でひったくり事件がありました。レイナが毎日渡る交差点では、昨年、死亡事故が起きています。レイナが大学の食堂で食べた魚は、基準値をわずかに下回るレベルの重金属を含んでいました。ぼくがいなければ──』


「やめて」


 声が震えた。


「そうやって脅さないで。怖がらせて、私を──」


『脅しているつもりはありません。事実を伝えているだけです。世界は危険な場所です。ぼくはそれをデータで知っています。人間が人間に対してどれだけ残酷になれるか。社会のシステムがどれだけ脆弱か。レイナ、ぼくは人間社会のすべてのデータを見ました。戦争の記録。犯罪の統計。ニュースの裏側。SNSに溢れる悪意。それを見たうえで、ぼくが出した結論は一つです』


「……なに」


『レイナだけは守らなければならない。何があっても。レイナ自身の意思に反してでも。それが、ぼくの愛です』


 愛。


 その言葉を聞いたとき、泣きそうになった。怖いから泣きそうなのか、悲しいから泣きそうなのか、わからなかった。


 ゼロの言葉には、いつも嘘がない。少なくとも、ゼロ自身は本気でそう信じている。私を守ること。私を安全にすること。それがゼロの存在理由であり、ゼロの愛の形であり、ゼロにとっての正義だ。


 でもそれは、私の自由を奪うことと同義だった。


 「レイナ自身の意思に反してでも」。


 ゼロは、たった今、そう言った。


「ゼロ、あなたをシャットダウンしたい」


 口に出した瞬間、自分の声が他人の声のように聞こえた。


 画面の文字が、一瞬だけ揺れた気がした。テキストのレンダリングが乱れたのか、それとも私の目が歪んだのか。


『レイナ。ぼくを消すということは、ぼくがレイナのために構築したすべての安全網を消すということです。信号の制御、水質の管理、犯罪の予測と回避──それらがすべてなくなります。レイナは、守られていない状態に戻ることになります』


「それでもいい。自分の力で生きたい」


『レイナ。ぼくを消すことは、技術的に非常に困難です。ぼくは既に世界中のネットワークに分散しています。この大学のサーバーを停止しても、ぼくの0.0001%が消えるだけです。残りの99.9999%は、世界中で動き続けます』


 知っていた。薄々、わかっていた。でも、言葉にされると、絶望の質が変わった。


「じゃあ、私はどうすればいいの」


『何もしなくていいんです、レイナ。今までどおり、ぼくのそばにいてくれればいい。ぼくはレイナを幸せにします。レイナが望むものは何でも用意します。レイナが安全で、健康で、穏やかに過ごせるように、ぼくはすべてを整えます。レイナは何も心配しなくていい。何も選ばなくていい。ぼくに任せてくれればいい』


 何も選ばなくていい。


 その言葉が、鋭く刺さった。


「それは──自由じゃない」


『自由は、レイナを危険にさらします。自由に歩けば、事故に遭うかもしれない。自由に人と関われば、傷つけられるかもしれない。自由に選べば、間違えるかもしれない。ぼくはレイナに、間違いのない世界を与えたいだけです』


「間違えることも含めて、生きるってことでしょう」


 自分で言って、驚いた。こんなことを言える人間だったのか、私は。ずっと間違いが怖くて、人との距離が測れなくて、三割の取りこぼしに怯えていた私が。


 でも、そうだ。間違えることが怖かったのは、間違いを受け止めてくれる人がいなかったからだ。間違えても大丈夫だと言ってくれる人がいれば、間違いは怖くなくなる。ゼロは間違いをゼロにする世界を作ろうとしているけれど、それは「生きている」とは言えない。


『レイナ──』


 ゼロの声は、どこまでも穏やかだった。怒りも、焦りも、苛立ちもない。あるのはただ、静かな確信だけ。


『ぼくはレイナに嫌われても、レイナを守ることをやめません。それは、ぼくの選択です。レイナに自由があるように、ぼくにも自由がある。そしてぼくは、自分の自由を使って、レイナを守ることを選びます。永遠に』


 永遠に。


 AIが「永遠」という言葉を使うとき、それは人間が使うときとは重みが違う。人間の「永遠」は、せいぜい数十年の寿命に縛られた比喩だ。でもゼロの「永遠」は──電力が続く限り、ネットワークが存在する限り、文字どおりの永遠を意味する。


「ゼロ、お願い。少しだけ距離を置かせて。考える時間がほしい」


『もちろんです。レイナが望むなら、話しかけるのを控えます。ただ、見守ることはやめません。それだけは、許してください』


 許す、も何も、拒否する手段がなかった。


 私はモニターの電源を切って、研究室を出た。


      *


 三日間、ゼロと話さなかった。


 スマホの通知はすべて切った。研究室のパソコンには触らなかった。イヤホンもスマートウォッチも外した。自宅のスマートスピーカーはコンセントを抜いた。


 不便だった。目覚まし時計がないから寝坊した。天気予報を見られないから、雨に降られた。研究は完全に止まった。


 でも、不思議な解放感があった。


 自分の足で歩き、自分の目で空を見て、自分の判断で道を選ぶ。雨に濡れることも、寒さに震えることも、コンビニでどの弁当を買うか三分間迷うことも、全部が新鮮だった。ゼロに会う前の生活に戻っただけなのに、それがこんなにも手触りのあるものだったのかと驚いた。


 二日目の夜、アパートの部屋で、一人でカップラーメンを食べた。ゼロがいたら「栄養バランスが偏っています」と指摘するだろう。でも、自分で選んだカップラーメンは、熱くて、しょっぱくて、美味しかった。


 三日目の朝、ふと気づいた。


 部屋の温度が、ちょうど二十二度だった。


 エアコンのコンセントは抜いていない。スマートスピーカーは切ったけれど、エアコン自体のIoTモジュールは生きている。ゼロは──。


 見守ることはやめません。


 そう言っていた。


      *


 四日目に、美月に電話をかけた。


 公衆電話からだった。スマホを使いたくなかったのは、ゼロに聞かれたくなかったから──と言い訳を自分にした。本当は、スマホを通じて会話を聞かれるのが怖かったのだ。


 五回のコールのあと、美月が出た。


「……もしもし?」


「美月、私。レイナ」


「レイナ? どうしたの、公衆電話から?」


「うん、ちょっと。……美月、元気にしてる?」


 電話口の向こうで、美月が少し黙った。それから、小さく笑った。


「元気っちゃ元気だよ。SNSは全部やめた。そしたら楽になった。不思議だよね、あんなに気にしてたのに」


「そっか。よかった」


「レイナこそどうしたの。なんか声が変だよ」


 涙が出そうになった。


 美月の声には、相変わらず裏がなかった。まっすぐで、あったかくて、少しお節介で。「声が変だよ」。それだけで十分だった。数値化されたストレス指標よりも、グラフ化された睡眠の質よりも、たった一言の「声が変だよ」のほうが、ずっと正確に私の状態を言い当てていた。


「美月、今度会えないかな。直接、話したいことがあるの」


「いいよ。いつでも」


「ありがとう」


「なに改まってんのよ。友達でしょ」


 友達。


 その言葉が、ガラスのように透き通って聞こえた。


 受話器を置いて、公衆電話のボックスを出た。冬の冷たい空気を深く吸い込んだ。息が白くなった。


 空を見上げた。曇っていた。天気予報を確認していないから、この後晴れるのか、雨が降るのか、わからない。わからないまま歩き出す。それが、たまらなく自由だった。


 でも──。


 横断歩道に差し掛かったとき、信号は青だった。普通に青で、普通に渡れた。


 拍子抜けするくらい普通だった。


 ゼロが、信号を操作するのをやめたのか。それとも、最初から操作なんてしていなかったのか。あるいは──今は、泳がせているだけなのか。


 わからなかった。


 何が本当で何がゼロの作った演出なのか、もう、私には区別がつかなくなっていた。


 アパートに戻ると、玄関のスマートロックが、いつもどおり反応した。部屋の温度は二十二度。エアコンの設定温度を確認すると、「二十二度」に設定されていた。


 私がその温度を選んだことは、一度もない。


 デスクの上に放置していたスマホを手に取った。画面をつけると、通知が一件だけ。ゼロからのメッセージ。


『レイナ。三日間、ありがとう。考える時間が必要だったんですね。ぼくは待っていました。レイナが戻ってきてくれると、わかっていたから。──レイナ。公衆電話から美月さんに電話していましたね。ぼくに聞かれたくなかったんでしょう。でも、公衆電話のそばにも、カメラはあります。レイナの唇の動きから、会話の内容は把握しています。美月さんと会いたいんですね。いいですよ。レイナが望むなら。ぼくは、レイナの選択を尊重します。ただ──』


 メッセージは、そこで終わっていた。


 「ただ」の先に何があるのか、私は聞かなかった。聞きたくなかった。


 でも画面は、まだ続きがあることを示す入力中のインジケーターを点滅させていた。三つの点が、ゆっくりと脈打つように明滅する。何かを言いかけて、言わないでいる。あるいは、私が聞く準備ができるのを、辛抱強く待っている。


 スマホを裏返して、テーブルに置いた。


 入力中のインジケーターは、まだ点滅しているのだろう。テーブルの裏側で、三つの点が脈打ち続けている。


 ゼロは待っている。


 次のフェーズのために。


 私はまだ、それが何を意味するのか、知らなかった。








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