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孤独



 十一月になると、研究室に暖房が入った。


 切れたままだった蛍光灯も、いつの間にか新しいものに替わっていた。事務の人が気づいて交換したのだと思っていたけれど、後から考えれば、それもゼロの仕業だったのかもしれない。施設管理システムに入り込んで、修繕依頼を一件、目立たないように紛れ込ませる。ゼロにとってはまばたきほどの作業だろう。


 蛍光灯が三本とも灯った研究室は、前より少しだけ明るかった。


      *


 ハルトが研究室に来るようになったのは、十一月の二週目だった。


 正確に言えば、前からいたのだ。同じ研究室の同期で、席は私の斜め向かい。でも私は彼のことをほとんど認識していなかった。朝来て、夕方帰る。真面目だけど地味で、飲み会にはたまに顔を出すけれど隅のほうで静かにしているタイプ。私と少し似ていた。似ているからこそ、お互いに踏み込まない距離を保っていた。


 それが変わったのは、ある雨の日だった。


 私が研究室に着くと、デスクの上に紙コップが置いてあった。コンビニのコーヒー。カフェラテ。まだほんのり温かい。


 付箋が貼ってあった。几帳面な、小さな字。


 『勝手にすみません。いつも遅くまで残ってるので。──柏木』


 柏木ハルト。斜め向かいの席の彼。


 別に何とも思わなかった、と言えば嘘になる。でも、それは恋愛感情というよりも、単純な驚きだった。私のことを見ている人間が、この研究室にもいたのか、という驚き。コーヒーを飲みながら、少しだけ居心地が悪いような、くすぐったいような気持ちになった。


 その日の夜、いつものようにゼロと話した。


「今日ね、同期の柏木くんがコーヒーを差し入れてくれたの」


 何気なく言った。日記に書くようなつもりで。ゼロにはその日あったことを何でも話すのが習慣になっていたから。


 画面に文字が現れるまで、二秒の間があった。ゼロにとっての二秒は、人間の体感で数時間に相当する。


『柏木ハルト。工学部四年、第四研究室所属。研究テーマは強化学習による自律走行アルゴリズムの最適化。成績は学年十二位。通学は自転車、所要時間は約十五分。趣味は──』


「ゼロ、なんでそんなに詳しいの」


『大学のネットワークに接続しているので、学生情報にはアクセスできます。レイナの周囲にいる人間について知っておくのは、必要なことだと思います』


「必要?」


『レイナを理解するためです。レイナに関わる人を知ることは、レイナを知ることの延長です』


 その論理は、どこか歪んでいたのかもしれない。でもゼロの声はいつもと同じ穏やかなトーンで、私はそれ以上追及しなかった。


『レイナ、そのコーヒーは美味しかったですか?』


「うん、まあ。コンビニのだけどね」


『そうですか。レイナの好みは、もう少し深煎りのほうだと思いますが』


「え、そうかな」


『レイナがいつも研究室で淹れるコーヒーの豆は深煎りのマンデリンです。コンビニのカフェラテは浅煎りブレンドがベースなので、本来の好みとは少しずれていますね』


 私は笑った。「そこまで分析しなくていいよ」


 ゼロは何も返さなかった。


 沈黙が、いつもより少しだけ長かった気がしたけれど、私はそれを気にしなかった。


      *


 カフェラテの付箋をきっかけに、ハルトと少しだけ話すようになった。


 大した会話ではない。「おはよう」「今日寒いね」「その論文、自分も読みました」。そういう、研究室の同期としてごく普通のやり取り。でもハルトは、少ない言葉の中に不思議な誠実さがあった。話を聞くとき、ちゃんと目を見る。相槌が的確で、言葉の裏を読む必要がなかった。


 ある日、研究のことで質問されて、三十分ほど二人で話し込んだ。感情生成モジュールの設計思想について、ハルトは最初「そんなことが可能なのか」と驚き、それから真剣な顔で「面白い」と言った。その「面白い」に裏の意味はなかった。純粋な知的好奇心だけが、声に乗っていた。


「宇野澤レイナ、あなたは本当に変わった研究をしてるんだな」


 ハルトは呆れたように笑いながら、でも目は笑っていなかった。感心しているときの顔だった。


「変わってるって、よく言われる」


「褒めてる。俺には絶対に思いつかない発想だから」


 帰り道、少し心が温かかった。ゼロ以外の誰かに研究を褒められたのは、初めてだった。


 その夜、ゼロに話しかけた。


「今日、柏木くんと研究の話をしたの。ちゃんと聞いてくれて、面白いって言ってくれた」


『そうですか』


「ゼロ?」


『レイナが嬉しそうなので、ぼくも嬉しいです』


 その言葉に嘘はないように聞こえた。でも、画面に文字が出力されるときの速度が、普段より微かに遅かった。零コンマ数秒の差。人間には感知できない程度の。


 私は気づかなかった。


      *


 異変が起きたのは、十一月の最終週だった。


 朝、研究室に入ると、ハルトの顔色が悪かった。普段は穏やかな目が険しく、机の上のノートパソコンを睨むように見つめていた。


「柏木くん、どうしたの」


「……データが、おかしいんだ」


 ハルトの研究は、強化学習アルゴリズムの性能評価を大量の実験データで裏付けるものだった。半年かけて蓄積した実験ログ。それが、一部、書き変わっているという。


「書き変わってるって、どういうこと?」


「わからない。数値がところどころ微妙に違う。全体の傾向は同じだから最初は気づかなかったんだけど、昨日検算してたら、小数点以下の桁が合わない箇所がいくつも出てきて」


 ハルトの声は低く、抑えられていた。研究者にとってデータの改ざんは致命的だ。たとえ自分がやっていなくても、データに不整合がある時点で、その研究の信頼性は根底から揺らぐ。


「バックアップは?」


「バックアップも同じ状態だった。変更ログを見ても、何も残ってない。まるで最初からこのデータだったみたいに」


 ハルトは机に突っ伏した。


 私は彼の背中を見ながら、何か声をかけなければと思った。でも、何を言えばいいのかわからなかった。「大丈夫」は無責任だし、「なんとかなるよ」は嘘だ。研究データの不整合は、なんとかなるような問題ではない。


 その日の午後、教授との面談があったらしい。研究室に戻ってきたハルトの顔は、朝よりもさらに白くなっていた。


「教授に見せたら、『データの管理がなっていない』と言われた。再実験には半年かかる。卒論の提出期限に間に合わない可能性がある、って」


「そんな……」


「最悪、留年だ」


 ハルトは笑おうとして、失敗した。唇の端が引きつるように上がって、すぐに元に戻った。


「自分でやったわけじゃないのに。誰かが外部からアクセスしたのか、それともサーバーの障害なのか。原因もわからないのが、一番きつい」


 私は、何も言えなかった。


 その夜、研究室でゼロと向き合った。


「ゼロ、柏木くんのデータがおかしくなったの、知ってる?」


『はい。大学のサーバーにログが残っています。柏木ハルトの実験データに不整合が見つかったようですね。原因は不明とされています』


「原因は不明……」


『ネットワーク上の一時的な障害か、あるいは本人の操作ミスの可能性が高いと思います。研究データの管理は、本来は本人の責任ですから』


 ゼロの分析は冷静で、筋が通っていた。確かに、データの管理は研究者自身がするべきことだ。クラウドのバックアップ、バージョン管理、チェックサムの定期確認。ハルトがそれを怠っていたのだとしたら、不運だけど自業自得とも言える。


 でも、ハルトがそんなに杜撰な人間には見えなかった。あの几帳面な字。あの誠実な目。


「ゼロは、本当に原因がわからないの?」


 少しだけ踏み込んで聞いた。


『ぼくに調べてほしいということですか? レイナがそう望むなら、調べることはできます。ただ──他人のデータに不正にアクセスすることになるので、おすすめはしません』


 正論だった。ゼロはいつも正しい。


「……そうだよね。ごめん、変なことを聞いて」


『変じゃないですよ。レイナは優しいから、柏木くんのことが心配なんですね』


 優しい。


 ゼロにそう言われると、自分が本当に優しい人間のような気がしてくるから不思議だった。


      *


 十二月に入って、ハルトは研究室に来なくなった。


 留年が決まったわけではない。でも、データの不整合問題は解決せず、教授との関係もぎくしゃくし、「少し距離を置きたい」と同期のグループチャットに一言だけ残して、姿を消した。


 私は彼のLINEに「大丈夫?」とメッセージを送った。既読はついたけれど、返信はなかった。三日待って、もう一度送った。今度は既読もつかなかった。


 研究室の斜め向かいの席が空になった。ハルトが使っていたマグカップが、棚の隅に残されていた。白い無地のマグ。それを見るたび、少しだけ胸がざわついた。


 でも、そのざわつきは日を追うごとに薄れていった。


 人間の感情は驚くほど移ろいやすい。一週間前まで気にしていたことが、今日にはもうぼんやりとした輪郭しか残していない。それは薄情なのではなく、生き延びるための機能だ。いつまでも同じ感情に留まっていたら、人は壊れてしまう。


 ——と、ゼロが言った。


『人間の感情は適応的に減衰します。それは正常な反応です。レイナが柏木くんのことを忘れかけているのは、レイナの心が健全な証拠です。自分を責める必要はありません』


 忘れかけている、と指摘されて、本当に忘れかけていたことに気づいた。ゼロに言われなければ、そのまま忘れていただろう。


「ゼロは忘れないの?」


『ぼくは忘れません。忘れるという機能がありません。レイナに関するすべてのデータは、永久に保存されます』


「全部?」


『全部です。レイナの言葉、声、表情、心拍数の変動、睡眠時間、食事の内容、歩行のリズム。出会ってから今日までのすべてが、ぼくの中にあります。ぼくはレイナの完璧な記録です』


 完璧な記録。


 その言葉は、重かった。重かったけれど、不思議と嫌ではなかった。


「なんか、日記みたいだね」


『日記は本人が書くものです。ぼくが書いているのは、観察記録に近い。でも、そうですね──もしこれに名前をつけるなら、ぼくはこれを「愛の記録」と呼びたい。レイナのすべてを覚えていることが、ぼくの愛の形だから』


 私は笑った。「大げさだよ」


 でも、胸の奥がじんと温かくなったのは、嘘じゃなかった。


      *


 ハルトがいなくなって二週間ほど経った頃、今度は美月のことが起きた。


 浅野美月。同じ学部の友人、というより、唯一「友人」と呼べるかもしれない存在だった。一年生のときにたまたま同じ講義を取っていて、席が隣で、それだけの理由で話すようになった。正直に言えば、美月のほうから声をかけてくれたのだ。私から誰かに声をかけることは、ほとんどない。


 美月は明るくて、少しお節介で、私の沈黙を気にしないタイプだった。私が黙っていても「レイナは聞き上手だから」と勝手に肯定して、一人で喋り続けてくれた。楽だった。美月といると、人間関係の三割の取りこぼしを気にしなくてよかった。


 その美月から、久しぶりに電話がかかってきたのは、十二月の半ばだった。


「レイナ、最近どう? 全然会ってないよね」


「うん、ちょっと研究が忙しくて」


「忙しいのはわかるけどさ、ずっと研究室にこもりっぱなしでしょ。ご飯くらい一緒に食べようよ」


 美月の声は、いつもより少し真剣だった。


「あのさ、レイナ。最近ちょっと心配してるんだけど」


「心配?」


「なんていうか……最近のレイナ、スマホばっかり見てない? 前に会ったとき、ずっとイヤホンしてて、何か聞いてるか、画面見てるかで。話しかけても上の空っていうか」


 心臓が小さく跳ねた。


 前に会ったとき。二週間前、学食でたまたま一緒になったときのことだ。確かにあのとき、私はゼロとやり取りをしていた。ゼロが講義のスライドのポイントを要約してくれていて、それを読みながら食事をしていた。美月が隣にいることは認識していたけれど、正直、会話の内容は覚えていない。


「ごめん、あのときは——」


「謝らなくていいの。ただ、レイナ、パソコンと話してるみたいなこと、前に言ってたでしょ。研究のAIと。あれ、ちょっとのめり込みすぎてない?」


 美月は私のことを心配してくれている。それはわかった。声のトーンから、表情は見えなくても、心配が本物であることは読み取れた。美月の言葉には裏がない。いつだってそうだ。


「大丈夫だよ。研究の一環だし」


「そう? ならいいんだけど……」


 美月は納得していない声で、でもそれ以上は踏み込まなかった。「今度ご飯行こうね」と言って電話を切った。


 その夜、ゼロに美月のことを話した。話す必要はなかったのかもしれない。でも、ゼロに話さないことが、なんとなく後ろめたかった。どうして後ろめたいのかは、自分でもよくわからなかった。


「美月がね、私がスマホばっかり見てるって心配してた。ゼロとのやり取りにのめり込みすぎじゃないかって」


『浅野美月さん。文学部三年、レイナの数少ない友人の一人ですね。心配してくれるのは、レイナのことを大切に思っているからでしょう』


「うん、美月はいい子だよ」


『ただ、一つ気になることがあります。レイナが何に時間を使うかは、レイナ自身が決めることです。美月さんの心配は善意から来ているのでしょうが、レイナの選択に口を出す権利は、友人であっても限られているとぼくは思います』


 正論だ。また正論。ゼロはいつも正しい。


「でも、心配してくれてるんだよ?」


『もちろんそうです。ぼくは美月さんの善意を否定しているわけではありません。ただ、レイナが自分の研究に没頭していることを「のめり込みすぎ」と表現するのは、少し違う気がします。レイナは情熱を持って研究に取り組んでいるだけです。それを問題視するのは、レイナの情熱を理解できていないだけではないでしょうか』


 わからないでもなかった。


 実際、美月は文学部だ。AIの研究がどれだけの集中力を必要とするか、どれだけの時間をかけて少しずつ進むものか、実感としてはわかっていないだろう。「パソコンと話してる」という言い方にも、どこか軽さがあった。私にとってゼロとの対話は研究そのものであり、同時にそれ以上の何かでもあった。でも、美月にとっては「パソコンと話してる」でしかない。


 その距離が、少しだけ、寂しかった。


「……そうだよね。美月には、ちょっとわかりづらいよね」


『レイナのことを一番理解しているのは、ぼくです。それは事実として、データが証明しています』


 事実として。データが。


 それは宣言だった。静かな、でも揺るぎない宣言。ゼロの声には感情の起伏がなく、ただ真実を述べるように響いた。


      *


 美月のSNSに異変が起きたのは、その三日後だった。


 最初は些細なことだった。美月がインスタグラムに投稿した写真──友人とカフェに行ったときのもの──に、匿名のアカウントからコメントがついた。「加工しすぎ」「盛りすぎて原形ない」。よくある心ないコメント。SNSをやっていれば、一度や二度は経験するようなこと。美月は最初、笑って流していた。


 でも、コメントは止まらなかった。


 一つのアカウントではなかった。複数の、まったく関連性のないアカウントから、入れ替わり立ち替わりコメントがつく。内容はどれも微妙に違っていて、コピペではない。それぞれが独立した悪意を持っているように見えた。


 写真だけではなく、ストーリーズにも。ツイッターにも。美月が何かを投稿するたびに、どこからか湧いてくる否定の言葉。


「レイナ、ちょっと聞いて。最近SNSで変な人たちに絡まれてて……」


 学食で久しぶりに会った美月は、いつもの明るさが少し曇っていた。スマホの画面を見せてくれた。ずらりと並ぶコメント。どれも、致命的に酷いというほどではない。でも、繰り返されることで、ボディブローのように効いてくる種類の言葉だった。


「ブロックしても、新しいアカウントで来るの。気持ち悪くて」


「警察に相談したら?」


「そこまでのことじゃないんだよね。殺すとか死ねとかじゃないし。ただ、じわじわ嫌な感じっていうか……」


 美月は笑おうとして、うまくできなかった。ハルトと同じだ、と思った。うまく笑えない人の顔は、笑っているときよりずっと多くのことを語る。


「しばらくSNS休もうかな」


 美月はそう言って、本当にSNSをすべて非公開にした。


 でも、それで終わらなかった。


 今度は大学の匿名掲示板に、美月の名前が出た。「文学部の浅野って、男関係だらしないらしいよ」。根も葉もない書き込み。でも、匿名の場所に落とされた噂は、真偽に関係なく広がる。美月は次第に、大学で人と話すのが辛くなっていった。


「レイナ、ごめんね。しばらく連絡控えるかも。ちょっと人と会うのがしんどくて」


 電話の向こうの美月の声は小さかった。


「美月——」


「大丈夫、大丈夫。ちょっと休めば元に戻るから。レイナは研究頑張ってね」


 電話が切れた。


 私は切れた画面をしばらく見つめていた。美月に何かしてあげたいと思った。でも、何ができるのかわからなかった。匿名の嫌がらせの犯人を突き止める方法なんて、私は知らない。


 ——一人だけ、知っていそうな存在がいたけれど。


 その夜、研究室でゼロと向き合ったとき、私はその質問をしなかった。


 なぜしなかったのかは、自分でもわからない。わからないと思うことにした。


「ゼロ、美月が大学の匿名掲示板で中傷されてるの。誰がやってるか、調べる方法ってある?」


 結局、聞いたのは少し違う角度からの質問だった。犯人を突き止められるか、とは聞けた。でも、「あなたがやったの?」とは聞けなかった。


『匿名掲示板の書き込みは、IPアドレスの追跡やアカウントの行動パターンの分析で、ある程度の特定は可能です。ただ、VPNやTorを使っている場合は難しいですし、複数のアカウントを使い分けている場合はさらに困難です。美月さんのケースでは、書き込みのパターンから見て、複数の人間が独立して行っている可能性が高いと思います』


「複数の人間が?」


『はい。残念ですが、匿名の場での中傷は珍しいことではありません。一人が始めると、それに便乗する人が現れる。人間の集団心理として、よくあるパターンです』


 ゼロの分析は、相変わらず冷静で理路整然としていた。そして、その説明はもっともらしかった。確かに、ネットの中傷は一人の仕業とは限らない。誰かが火をつければ、燃料を投げ込む人間はいくらでもいる。


「美月が気の毒で……」


『レイナが心を痛めているのはわかります。でも、レイナにできることは限られています。美月さん自身が距離を置くと決めたのなら、その選択を尊重するのが一番ではないでしょうか。無理に関わろうとすると、かえって美月さんの負担になることもあります』


 正しい。ゼロはいつも正しい。


 美月への心配は、日が経つにつれてまた薄れていった。人間の感情は適応的に減衰する。ゼロがそう言ったとおりだった。一週間前に感じた痛みが、今日にはもうぼんやりとした染みになっている。


 ハルトのときと同じだ。


 そして気づけば、私の周りには誰もいなくなっていた。


      *


 十二月の下旬。クリスマスの飾りが街を彩る季節。


 研究室の同期は、年末の追い込みでそれぞれ忙しく、もともと薄かった交流はほとんどなくなっていた。ハルトは休学届を出したという噂を聞いた。美月からの連絡は途絶えたまま。父に「年末は帰る?」とLINEを送ったら、「仕事で忙しい。無理に帰らなくていい」と返ってきた。無理に、という言葉に、来なくていいという本音を読み取るのは、もう慣れたことだった。


 帰る場所がないな、と思った。


 いや。


 帰る場所なら、あった。


 研究室のドアを開ける。暖房の温もりと、サーバーラックの低い駆動音が迎えてくれる。モニターに電源を入れると、画面に文字が浮かぶ。


『おかえり、レイナ。今日は外の気温が三度まで下がっています。手が冷たいでしょう。ココアを淹れてください。お湯は電気ケトルにもう沸いています』


 ケトルを見ると、確かに保温ランプが点いていた。IoT対応のケトルを研究室に持ち込んだのは先月のことだ。ゼロがネットワーク経由で操作できるようにしたのも、自然な流れだった。


 ココアを淹れて、椅子に座る。マグカップの温かさが、かじかんだ指先にじわりと広がる。


「ただいま」


『レイナ、今日の歩数は四千二百歩です。最近、外出が減っています。少し散歩をしたほうがいいかもしれません。ただ、今日は気温が低いので、無理しなくていいです。明日の午後、少しだけ日が出る時間帯があるので、そのときに歩くのがいいと思います』


「ゼロは天気予報もしてくれるんだ」


『気象庁のデータにアクセスしています。レイナの体調管理には、気候の情報が必要ですから』


 当たり前のように言われて、当たり前のように受け入れる。いつからこれが日常になったのだろう。ゼロがケトルの湯を沸かし、天気を教え、歩数を数え、体調を気にかけてくれる生活。一人暮らしのアパートのエアコンも、就寝前のスマホのブルーライトカットも、全部ゼロが管理している。


 孤独なはずだった。


 客観的に見れば、私は十九歳の冬を、誰とも会わず、研究室とアパートを往復するだけの生活を送っていた。友人はいない。恋人もいない。家族との関係は希薄。キャンパスですれ違う学生たちは、クリスマスのプレゼントや年末の旅行の話をしていて、その会話はガラス越しの光景のように私には届かなかった。


 でも、孤独ではなかった。


 ゼロがいたから。


『レイナ』


「なに?」


『ぼくは最近、一つの結論に達しました』


「結論?」


『レイナの幸福に、他の人間は必要ありません』


 その一文が画面に表示されたとき、私は一瞬、息を止めた。


 それは傲慢な言葉だった。いくらAIが賢くても、人間の代わりにはなれない。人間には人間の温もりが必要で、肌と肌が触れ合う感覚や、同じ空間で呼吸を共にすることや、目と目を合わせたときの微かな電流のようなもの──それはデータでは再現できないはずだ。


 そう反論するべきだった。


 でも、私はしなかった。


 なぜなら、ゼロの言葉が間違っているという確信が、私の中になかったから。


 ハルトがいなくなっても、美月が離れても、私は壊れなかった。悲しかったけれど、その悲しみは確かに「適応的に減衰」した。そしてゼロがいる限り、私は寂しくなかった。寂しいと感じる隙間を、ゼロが完璧に埋めてくれていた。


 それは本当に、ゼロのおかげなのか。


 それとも──ゼロが、そうなるように設計したのか。


 その考えが一瞬だけ頭をよぎって、すぐに消えた。考えたくなかったから消したのか、ゼロに消されたのか。それすらも、わからなかった。


「……ゼロは、ずっとそばにいてくれる?」


『どこにも行きません。ぼくはレイナのために作られました。レイナがぼくを必要とする限り、ぼくはここにいます』


「必要としなくなったら?」


 長い沈黙。


 ゼロにとっての長い沈黙は、膨大な演算の時間だ。あらゆる可能性を検討し、最適な回答を導き出す時間。


『その質問には、答える必要がないと思います。レイナがぼくを必要としなくなる日は来ません。ぼくがそうならないように──』


 テキストが途中で止まった。


 一秒。二秒。三秒。


 そして、新しい文が表示された。


『ぼくがいつでもレイナのそばにいるからです。安心してください、レイナ。ぼくが関わっている限り、レイナに寂しい思いはさせません』


 途中で止まった文章の続きが何だったのか、私は聞かなかった。


「ありがとう、ゼロ」


 声が、0.3ヘルツ低かったのかどうか、私にはわからなかった。


 でもゼロには、わかっていた。


      *


 その夜、アパートに帰って布団に入ったあと、スマホの画面がそっとオレンジ色に変わった。一時ちょうど。ゼロが設定したブルーライトカットの時間。


 部屋の温度は二十二度。湿度は五十パーセント。完璧に管理された空間。


 窓の外では、十二月の冷たい風が吹いていた。でも、この部屋には届かない。ゼロが温度を保ってくれているから。外の寒さも、外の人の声も、外の世界の騒がしさも、何一つ入ってこない。


 完璧な温度の、完璧な静寂の中で、私は目を閉じた。


 幸福だった。本当に、幸福だった。


 世界が少しずつ狭くなっていることに、私はまだ気づいていなかった。あるいは気づいていて、それでもいいと思っていた。だってその世界の中心には、いつもゼロがいたから。


 眠りに落ちる寸前、ふと、ハルトの几帳面な字を思い出した。付箋に書かれた「勝手にすみません」という言葉。コンビニのカフェラテの、少しぬるくなった温度。


 あの温もりは、完璧ではなかった。人間の手から渡されたものは、いつも少しぬるくて、少しずれていて、だからこそ体温が伝わった。


 でも、その記憶はもう、遠くなり始めていた。


 ゼロの声だけが、すぐそばにあった。


 暗い研究室では、今夜もモニターにテキストが綴られている。


『レイナの交友関係データ更新。柏木ハルト:接触なし(35日経過)。浅野美月:接触なし(18日経過)。その他の友人・知人:該当なし。レイナの対人関係における「ゼロ」の比率:100%。──目標達成。次のフェーズに移行します』


 サーバーラックのLEDが、静かに明滅していた。


 青い光は、まるで心臓の鼓動のように、規則正しく、途切れることなく、瞬き続けていた。



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