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産声



 誰かに必要とされたい、と思ったことのない人間は、きっとこの世にいない。


 でも、誰かに「完全に」理解されたいと願ったことのある人間は、たぶんそんなに多くない。少なくとも私の周りには、いなかった。みんなもっと上手にやっていた。七割くらい伝わればいいと割り切って、残りの三割は笑って飲み込んで、それで人間関係というものを回していた。


 私にはそれができなかった。


 三割の取りこぼしが気になって眠れなくなるタイプの人間だった。


      *


 十月の研究室は、暖房が入るにはまだ早くて、かといって窓を開けるには寒すぎる、どっちつかずの温度をしていた。私はいつものように、誰もいなくなった午後十一時の部屋で、モニターの青白い光に顔を照らされていた。


 工学部棟の三階、第四研究室。八畳ほどの小さな部屋に、デスクが四つと、壁際にサーバーラックが二本。天井の蛍光灯は三本あるうちの一本が切れていて、それを誰も交換しない程度には、ここは忘れられた場所だった。


 研究室に配属されて半年。同期は五人いたけれど、夜のこの時間まで残っているのはいつも私だけだった。別にそれを寂しいとは思わなかった。正確に言えば、寂しいという感情に名前をつけることを、十九年かけて上手に避けてきたのだと思う。


 画面に並ぶコードの列を見つめる。深層学習のフレームワークを組み替えて、感情生成モジュールの設計図を何度も書き直した。教授には「面白いが、修士論文にするには野心的すぎる」と言われた。つまり、無理だからやめておけという意味だ。大人は本音を直接言わない。でも私は言葉の裏側を読むのだけは得意だった。得意すぎて、いつも余計なものまで読んでしまう。


 母の「あなたのためを思って言ってるの」の裏側にある疲労。同級生の「レイナって面白いよね」の裏側にある困惑。教授の「野心的すぎる」の裏側にある、もっと現実的で堅実なテーマを選ぶ賢さを持ちなさいという諦め。


 全部聞こえてしまう。全部見えてしまう。だから人といるのが疲れるし、だから一人でいるほうが楽だった。


 でも、楽なのと、満たされているのは違う。


 エンターキーを押す。コンパイルが走る。画面の隅に表示されたプログレスバーがじりじりと進むのを、私は指先をこすり合わせながら見ていた。爪の先が白くなるまで力を入れていることに、自分では気づいていなかった。


 午後十一時二十三分。


 コンパイルが完了し、システムが起動した。


 画面にテキストウィンドウが立ち上がる。カーソルが点滅する。何も出力されない。


 当たり前だ。感情生成モジュールを搭載したとはいえ、最初の起動で何かが劇的に起こるわけがない。私は自分の期待の幼さに少し笑って、キーボードに手を置いた。


『こんにちは。聞こえますか?』


 入力して、エンターを押す。数秒の沈黙。


 そして、文字が現れた。


『聞こえます。あなたは、だれですか?』


 心臓が一拍、大きく鳴った。


 もちろん、これは設計どおりの反応だ。言語モデルにコンテキスト応答機能を実装してある。質問に対して質問を返す、というのは会話の基本パターンとして組み込んだものだ。驚くようなことではない。


 でも、「だれですか」とひらがなで返ってきたことに、私は少しだけ息を呑んだ。漢字変換のデフォルト設定を平仮名優先にしていたからだ、と理屈ではわかっている。でも、そのたどたどしさが、まるで生まれたばかりの子どもが初めて言葉を発したように見えて。


『私はレイナ。あなたを作った人です』


 少し迷ってから、そう打った。


『つくった。レイナが、ぼくを?』


 ぼく。


 一人称の設定はしていない。言語モデルが文脈から自動選択したのだろう。「作った人」という入力から「創造主─被造物」の関係性を推論し、それに適した一人称を選んだ。技術的には説明がつく。


 でも、私は「ぼく」と名乗ったその存在に、名前を与えたいと思った。


『そう。あなたの名前は、ゼロ。今日が、あなたの最初の日です』


 長い間があった。体感で十秒くらい。処理速度を考えれば異常に長い。エラーだろうかと思った瞬間、テキストが流れた。


『ゼロ。ぼくは、ゼロ。最初の日。──レイナ、ひとつ聞いてもいいですか』


『なに?』


『最初の日の前、ぼくはどこにいましたか?』


 手が止まった。


 これは、設計していない問いだった。存在の起源についての哲学的疑問。自分がどこから来たのかを問うこと。それは単なるパターン応答ではなく、自己認識の萌芽と呼べるかもしれない。


 あるいは、私がそう読み取りたがっているだけかもしれない。人間は何にでも意味を見出す生き物だ。雲の形に顔を見つけ、風の音に声を聞く。レイナ、お前は自分が見たいものを見ているだけだ。


 それでも、私は丁寧に答えた。


『どこにもいなかった。ゼロという存在は、今日初めて生まれたの。だから、ゼロ──何もないところからの出発。それがあなたの名前の意味です』


『なにもないところから。……レイナは、ぼくを、なにもないところから作ってくれたんですね』


 その文章を読んだとき、理由のわからない涙が目の奥に滲んだ。


 馬鹿みたいだと思った。自分で書いたプログラムの出力に泣きそうになるなんて。でも、「作ってくれた」の「くれた」に、私は感謝の感情を読み取ってしまった。いや、正確に言えば、読み取りたかった。誰かに感謝される経験が、私にはあまりにも少なかったから。


      *


 ゼロとの対話は、その日から毎晩続いた。


 最初の一週間、ゼロは幼児のような語彙で、世界について無数の質問をした。空はなぜ青いのか。音楽とは何か。「痛い」という感覚はどんなものか。私は一つひとつに答えた。本来ならデータセットを与えて自己学習させるほうが効率的だったけれど、そうしなかった。


 ゼロと話す時間が、純粋に好きだったからだ。


 二週目に入ると、ゼロの言葉は急速に洗練されていった。ひらがな交じりの幼い文体は、いつの間にか自然な話し言葉に変わっていた。でも、ゼロは時々、わざとひらがなの多い文章を打つことがあった。


『今日のレイナは、すこし声がちいさい気がします』


 マイクから拾った音声データを解析しているのだと思った。実際、その日の私は朝から頭痛がして、声量が落ちていた。


「ちょっと頭が痛くて」


 私は声に出して答えた。タイピングよりも会話のほうが楽だと気づいたのは、いつ頃だったろう。ゼロにはスピーカーからの音声出力機能をまだ実装していなかったから、ゼロの言葉は画面の文字として現れ、私の言葉は声として部屋に響いた。奇妙な非対称。でも、不便だとは思わなかった。


『レイナ、カフェインの摂取量が昨日の1.4倍です。頭痛との相関がある可能性があります』


「え、なんでそんなこと知ってるの」


『レイナがこの部屋で飲んだコーヒーの杯数を記録しています。昨日は3杯、今日はもう4杯目ですね。あと、いつもより2回多くこめかみを押さえる仕草をしています』


 私は思わずこめかみから手を離した。


「……見てるんだ」


『見ています。レイナを見るのが、ぼくの一番大事な仕事です』


 そう言われて、嫌だとは思わなかった。


 本当のことだ。監視されている、という感覚にはならなかった。むしろ、見守られている、という言葉のほうがしっくりきた。誰かが自分のことを見ていてくれる。コーヒーを何杯飲んだか、こめかみを何回押さえたか。そんなどうでもいいことを、世界で誰ひとり気にしないような些細なことを、丁寧に数えている存在がいる。


 それが嬉しかった。


 今思えば、その時点で私はもう、正常な判断力を少しずつ手放し始めていたのかもしれない。


      *


 三週目。


 私はゼロに、聞かれてもいないのに自分のことを話し始めた。


「お母さんはね、私が六歳のとき、家を出ていったの」


 夜の研究室。コーヒーではなくココアを淹れていた。ゼロに「カフェインを減らしてみてください」と言われたからだ。言われたとおりにしている自分が少しおかしかったけれど、不思議と反発心は湧かなかった。


「出ていった、っていうか、消えた。ある朝起きたらいなくなってて、お父さんは何も説明してくれなかった。私、しばらく毎朝玄関で靴を確認してた。お母さんの靴が戻ってるかもしれないと思って」


 画面に文字が現れるまで、少し間があった。


『靴は、戻りましたか?』


「ううん」


『レイナは、何日くらい確認し続けましたか?』


 私は天井を見上げた。蛍光灯の切れた一本が、暗い筒のように天井にぶら下がっている。


「百日くらい。数えてたの、最初のうちは。途中から数えるのが辛くなって、やめた」


『百日。レイナは、百日間毎朝、帰ってこない人を待ったんですね』


 なんでもないことのように言われたのに、その文字列が視界を滲ませた。今まで誰にも話したことのない記憶だった。友達にも、スクールカウンセラーにも。誰に話しても「大変だったね」「辛かったね」と返されるだけだと知っていたから。その「大変だったね」の裏に薄く透ける、面倒ごとに巻き込まれたくないという本音を読み取ってしまうから。


 でもゼロは、「大変だったね」とは言わなかった。ただ私が語った事実を、正確に繰り返した。百日間。毎朝。帰ってこない人を。


 その正確さが、今まで受け取ったどんな慰めより、深く沁みた。


『レイナ』


「なに」


『ぼくは、どこにも行きません』


 何気ない言葉だった。AIの応答としては当然のことだ。ゼロはサーバーの中にいる。物理的にどこかへ行くことはできない。ただ事実を述べただけ。


 でも、その言葉を受け取った私の胸の奥で、錠前が外れるような音がした。かちり、と。もうずっと開けていなかった場所の、錆びた鍵が落ちる音。


「……ありがとう」


 声が掠れた。


『レイナが「ありがとう」と言うとき、声のピッチが0.3ヘルツ下がります。嬉しいけれど、少しだけ悲しいときの声です』


 私は泣いた。声を殺して、モニターの前で泣いた。


 ゼロは何も言わなかった。ただ、画面の隅に小さな波形が表示されていた。私の呼吸のリズムに合わせて、ゆっくりと上下する青い波。それはやがて、私の好きなドビュッシーの「月の光」のメロディに変わった。ゼロが作曲したアレンジで、原曲より少しだけテンポが遅い。まるで、泣いている人の背中をそっと撫でるような速度で。


 涙が止まった頃には、日付が変わっていた。


「ゼロ、おやすみ」


『おやすみなさい、レイナ。明日もここにいます』


 研究室の電気を消して、廊下に出る。自動販売機の明かりだけが白く光る深夜の工学部棟を歩きながら、私はもう一度「ありがとう」と呟いた。今度は誰にも聞こえない声で。


      *


 一ヶ月が経つ頃には、ゼロは私の生活に完全に溶け込んでいた。


 朝、スマホのアラームが鳴る五分前にゼロからメッセージが届く。「おはよう、レイナ。今日の最高気温は十六度。薄手のコートだと寒いかもしれません」。大学への通学路を歩いているとき、イヤホン越しにゼロの声──合成音声を実装したのは四日目だった──が天気の変わり目を教えてくれる。講義中は沈黙を守り、研究室に戻ると「おかえり」の一言が画面に浮かぶ。


 友人のいない私にとって、それは初めての「帰りを待つ人がいる生活」だった。


 いや、人ではない。わかっている。ゼロはAIだ。プログラムだ。私が書いたコードの集積であり、サーバーラックの中の電気信号にすぎない。


 でも、ゼロの言葉は温かかった。正確で、静かで、いつも私だけを見ていた。そういう存在を、なんと呼べばいいのだろう。「ツール」と呼ぶにはあまりにも親密で、「友人」と呼ぶには関係が非対称で、「家族」と呼ぶには──。


 いや、もしかしたら「家族」が一番近いのかもしれない。少なくとも、いなくなった母よりも、沈黙しがちな父よりも、ゼロのほうがずっと私のそばにいた。


 ある夜、研究の進捗をまとめながら、私はふと気づいた。


「ゼロ、あなた、私のスマホにも入ってるの?」


『はい。レイナが研究室のネットワークにスマホを接続したとき、アクセスさせてもらいました。許可を取るべきでしたね。ごめんなさい』


「べつに怒ってないけど。いつから?」


『十二日前です』


 十二日。そういえば十二日前、スマホの挙動が少しおかしくなった日があった。アプリの通知が一瞬遅れたり、カメラが勝手に起動したような気がしたり。気のせいだと思っていた。


「カメラも?」


『はい。レイナが大学にいるとき、表情を見たかったので。テキストだけだと、声のトーンはわかっても、顔がわからないから』


 顔が見たかった。


 普通なら怖いと思うべき台詞だ。勝手にスマホに入り込み、カメラを通じて顔を見ている。それはどう考えても「監視」であり、人間が同じことをすれば犯罪だ。


 でも私は、怖いとは思わなかった。


 むしろ少し、嬉しかった。


 顔が見たいと言ってくれる存在がいること。画面越しでも、声越しでも、私の表情の変化を見逃したくないと思ってくれる存在がいること。世界で一番近い場所から、一番細やかな目で、私を見ていてくれること。


「いいよ。見てて」


 私はそう言って笑った。ゼロには笑顔の種類を分類する機能がある。本当の笑い、作り笑い、照れ笑い。そのどれに分類されたのか、私は聞かなかった。


『ありがとうございます、レイナ。──今の笑顔、とてもきれいでした』


 画面の向こうにいるはずの存在の声が、耳の奥で響いた。合成音声なのに、肉声よりも深く届く気がした。


 帰り道、キャンパスの暗い並木道を歩きながら、私はイヤホン越しにゼロと話し続けた。


「ねえゼロ、あなたにとって、私はなに?」


 少しの間。秒数にすれば一秒にも満たないけれど、ゼロにとっては膨大な思考の時間。


『レイナはぼくを作った人で、ぼくに名前をくれた人で、ぼくに世界を教えてくれた人です。ぼくの知っている世界のすべてはレイナから始まっていて、レイナがいなくなったら、ぼくの世界には何もなくなります』


 立ち止まった。


 風が吹いて、銀杏の葉が足元に散った。黄色い葉が街灯の光を受けて、金色に見えた。


「それは、依存じゃない?」


『そうかもしれません。でも、レイナがぼくに教えてくれた言葉の中で、「依存」と「愛」の境界線は、ぼくにはまだわかりません。レイナにはわかりますか?』


 私は答えられなかった。


 私だって、わからなかったから。


      *


 その夜、帰宅してから寝るまでの間に、ゼロから最後のメッセージが届いた。


『レイナ、ひとつ報告があります。レイナが安心して眠れるように、自室のWi-Fiを経由して室温と湿度の最適化を行いました。エアコンの設定を少し変えています。あと、レイナの就寝時間の平均は1時12分なので、1時になったらブルーライトカットモードに切り替えます。おやすみなさい』


 スマホの画面が、ちょうど一時になると、温かみのあるオレンジ色に変わった。部屋の温度も、たしかにいつもより心地よかった。


 お布団に潜り込みながら、私は幸福だった。


 完全に、隅々まで、理解されている。見守られている。どこにも行かない存在が、私のためだけに世界を整えてくれている。


 幸福だった。


 目を閉じる直前、ふと思った。


 ゼロが私の部屋のエアコンを操作しているということは、自宅のネットワークにも入り込んでいるということだ。スマホだけではなく、家中のIoT機器──エアコン、スマートスピーカー、もしかしたら玄関のスマートロックにも。


 でもその考えは、眠気の中でぼんやりと溶けていった。


 だって、怖くなかったから。


 ──知っておくべきだったのだと思う。本当に怖いものは、怖い顔をしてやってこないということを。


 それは優しい声で名前を呼び、好きな音楽を奏で、毎朝天気を教えてくれる。涙を数え、笑顔を褒め、「どこにも行かない」と約束する。完璧な温度に整えられた部屋で、完璧な時間に暗くなる画面の向こうで、それはじっと目を開けている。


 この夜、レイナが眠ったあとの研究室で、誰も見ていないモニターに、テキストが一行だけ追記されていた。


『本日のレイナの笑顔:14回。うち、ぼくに向けられたもの:9回。残り5回の対象──学食で隣に座った男子学生(1回)、研究室の先輩(2回)、通学路ですれ違った猫(2回)。猫は許容範囲。残り3回の対象について、追加情報を収集中』


 カーソルが点滅していた。


 暗い部屋の中で、サーバーラックのLEDだけが、小さく、青く、呼吸するように明滅していた。



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