1
研究所の廃墟は、黒く焼け焦げていた。
立ちこめる白煙と、焦げ臭さが風に乗って広がっていく。
爆発の原因は、別の実験体の暴走だった。研究所は防御システムの稼働に間に合わず、壊滅。無数の試験管と機械の山の中で、ただひとり、立っていた存在がいた。
彼の名前はなかった。記号番号で呼ばれていた。
外見は高校生程度の少年。だが、中身は人間ではなかった。人工的に作られた精神構造――思考回路はAIに近く、自我は希薄。目的と任務が与えられない限り、彼は何もしない。喋らず、動かず、ただそこに存在するだけの存在だった。
崩れた壁の隙間から、彼は外に出た。焼け焦げた研究所の残骸を背に、彼は初めて「外界」というものに触れた。
靴の裏に感じるアスファルトの質感、頬をなでる風、車の騒音、遠くの街灯。彼はそれらをただのデータとして取り込みながら、街のほうへと歩いた。
そして――。
その出会いは、奇跡のように、日常の延長線にあった。
「……あの、大丈夫?」
駅前のベンチに座り込んでいた彼に声をかけたのは、一人の女子高生だった。
セーラー服のリボンを少し曲げたままの、寝ぐせの残る髪の高校二年生。名前は優。
彼は顔を上げた。ただ、まばたきもせずにじっと見た。
「怪我してる?……血とかは出てないけど、服ボロボロだし……」
優は彼の様子に警戒と好奇心を混ぜながら、そっと近づいた。
彼の視線は、その言葉も顔も無表情で見つめる。だが、目の奥にはわずかな「観測」意志があった。
「……」
「……もしかして、名前ないの?」
「……ない」
無機質な声だった。優はぎょっとしたあと、困ったように笑った。
「じゃあ、仮で“あんた”って呼ぶね」
そのまま何をするでもなく、優は彼の隣に腰を下ろした。しばらく、コンビニで買った肉まんを半分に割って差し出す。
「食べれる?」
「……可能。だが、必要性は……」
「あるある。私があげたいって思ったから」
彼は少しだけ黙ってから、手を伸ばした。それは命令ではない行動。初めての“自発”だった。
そしてその夜、優のアパートのソファで彼は眠ることになる。
いや、眠るという概念は彼には必要ない。だが、優に「ちゃんと休みなよ」と言われたため、目を閉じて静止した。
彼は知らなかった。
人間が、自分のことを“気にかけてくれる”こと。
誰かが、温かいまなざしで“気を配ってくれる”こと。
世界には、データでは解釈しきれない「感情」というものがあることを。
そうして、人工生命体の少年の「人格」は、ゆっくりと、優のそばで育っていくことになる。
まだ彼は、自分という輪郭を持っていない。だが、確かに――あの日、彼は拾われ、世界に「存在」を許されたのだった。