1話 旅の青年、桜の森へ
春の風が吹くたびに、世界は揺れる。
そのたびに、桃色の花びらがふわりと舞い上がり、空へと消えていく。
踏みしめるたびに地面は柔らかく、冬の冷たさはどこにも残っていない。
それでも、ヨハンはずっと肌寒さを感じていた。
長い旅を続けているせいかもしれない。
夜露に濡れたマントが乾くことなく、春の風はいつもどこか湿り気を帯びている。だが、それだけではない気がする。
何かが足りない。何かを失った気がする。
それが何だったのか——思い出せないのが、何よりももどかしかった。
「春の幻に出会った者は、失われた冬の記憶を垣間見ることができる」
旅人が語る言い伝えのひとつ。
それを信じて、この森へとたどり着いた。
森の入り口は、夢の中に迷い込んだようだった。
霞がかかったような光の中、無数の桜が咲き誇っている。
風が吹くたびに、花びらが舞い、すべてを飲み込むように広がっていく。
ああ、これは雪みたいだ。
そう思った瞬間、胸の奥に奇妙な感覚が生まれた。
何かを思い出しそうになった。だが、それはふわりと指の隙間から零れ落ちていく。
ヨハンは眉をひそめ、森の奥へと足を踏み入れた。
——何かがある。
——何かが、俺を呼んでいる。
足元に転がる小石を踏む音。木々のざわめき。遠くで響く鳥の声。
それらがすべて、彼を導くように、ゆるやかに流れていく。
やがて、森の奥にひっそりと佇む泉が見えてきた。
水面は静かだった。風が吹いても揺れることなく、まるで時間が凍りついたようだった。
その傍らに、ひとりの少女がいた。
春の風に揺られながら、桜の木の下に座っている。
白い衣を纏い、長い髪が淡く輝いている。
それは銀色のようでもあり、かすかに桃色が混じっているようでもあった。
花びらが舞う。
それに触れる彼女の指先が、ゆるやかに動く。
まるで、落ちてくるものを掬い上げるように。
「……君は?」
思わず、ヨハンは問いかけた。
彼女は静かに顔を上げた。
桜の色を宿した瞳が、彼を見つめる。
そして、ゆるやかに微笑んだ。
「あなたは?」
「俺は……ヨハン。旅をしている者だ」
少女は小さく頷いた。
「私は、ナギ」
名前を告げると、ナギは立ち上がった。
風が吹き、桜の花びらが彼女の周囲を舞う。
「ここに来るのは、初めて?」
「……たぶん、そうだと思う」
「そう」
ナギは静かに頷いた。それだけだった。
だが、その仕草のひとつひとつに、なぜか懐かしさを感じた。
初めて会ったはずなのに、どこかで知っている気がする。
だが、それがいつだったのか、どうしても思い出せない。
——何かを、忘れている。
ヨハンは、森を吹き抜ける春の風を感じながら、少女を見つめた。
彼はまだ知らなかった。
この出会いが、やがて失われるものだということを。