エピローグ
風が吹いていた。
冷たくはない。
冬の庭園を包んでいた氷の風ではなく、
どこか遠くの知らない季節の柔らかな風。
庭園は変わっていた。
かつて雪と氷に閉ざされていたこの地には、色があった。
溶けた湖は、青空を映し、
地面には、小さな草花が芽吹いていた。
……だが、その変化を知る者は、誰もいない。
「ねえ、聞いた? ここ、昔は“氷の庭園”だったんですって」
「そんなの、ただの伝説でしょう?」
人々が語る。
ここは新しく生まれた庭園であり、
この場所にかつて騎士がいたことなど、誰も覚えていない。
ただ、一輪の花だけが、
湖のほとりに咲き続けていた。
—— 白い花。
雪よりもなお白く、氷よりもなお儚い。
それは最後に咲いた“雪の花”。
✵
一人の男がいた。
彼は、湖の前に立ち、静かに咲く白い花をじっと見つめていた。
「……どうして、こんなにも、懐かしいのだろう?」
彼の名は、シオン。
だが、彼は何も覚えていない。
なぜここにいるのか、
なぜこの花に心が惹かれるのか。
ただ、胸の奥にぽっかりと空いた喪失感だけが残っていた。
彼は、そっと手を伸ばす。
指先が、花に触れた瞬間——
ふわりと、風が吹いた。
春の風。
それは、まるで誰かが優しく笑っているかのような、温かな風だった。
その瞬間、彼の瞳から涙が零れ落ちた。
理由は、わからない。
何も覚えていないはずなのに、
心の奥が、ひどく痛んだ。
「……俺は、何を……失くした?」
問いかけても、答えはない。
風が吹き抜けるだけ。
それでも、彼は、
涙を拭うことなく、ただ花を見つめ続けた。
まるで、そこに大切な誰かがいるように。
✵
庭園は、春を迎えていた。
だが、誰も知らない。
ここに、かつてひとりの少女がいたことを。
誰も覚えていない。
ここに、かつてひとりの騎士がいたことを。
ただ、白い花だけが、静かに風に揺れていた。
そして、それを見つめる男がひとり——
春が来るのを誰かが待っている




