4話 選択の時
風が止んでいた。
それまで穏やかに舞っていた雪は、まるで時間の流れが止まったかのように、静かに空間に浮かんでいる。
庭園の氷の湖は、不自然なほどに澄み渡り、その水面には春の幻影が映り込んでいた。
青空、そよぐ草原、陽だまりのぬくもり。
それはここでは決して見ることのできない景色。
—— だが、それはあまりにも儚いものに思えた。
まるで、触れたら崩れ落ちてしまいそうな、遠い世界の残像。
その春の中に、ミレイアがいた。
彼女は、雪の花の隣に立ち、シオンを見つめてた。
彼の手が、剣の柄にかかっていることに気づいていた。
「迷ってるの?」
ミレイアの声は、柔らかく、どこか寂しげだった。
シオンは何も答えない。
「私が消えるのが、怖い?」
違う。
シオンは、何かを言いかけたが、その言葉は形にならなかった。
怖い?
そんなはずはない。
彼はこの庭園を守るために生きてきたのだから。
春を拒むために、ここに立ち続けてきたのだから。
……それなのに、どうして。
「私のことを、知らなかったはずでしょう?」
ミレイアは微笑む。
彼の心の奥底に、微かな戸惑いがあることを感じ取ったのだろう。
「私はずっと、この庭園にいたのよ。ずっとずっと、冬の中に閉じ込められて。だから、あなたが迷う理由なんて、本当はないのよ」
そうだ。
それが理なのだ。
この庭園は冬でなければならない。
春が訪れれば、世界の均衡が変わってしまう。
彼がこの庭園の守護者である以上、その使命を果たさなければならない。
なのに、剣を抜く手が、動かない。
—— どうしてだ?
「ねえ、シオン」
ミレイアは、雪の花にそっと触れる。
白い光が、彼女の指先から広がっていく。
「私が消えたら、あなたはきっと、私のことを忘れるわ」
シオンの胸が、ひどく冷たく締めつけられるような感覚に襲われた。
忘れる。
—— それは、喪失よりも、恐ろしいことのように思えた。
「あなたが、この花を手折れば、私は消えてしまう。でも、春は来る。あなたが今まで見たことのない世界が、この庭園に広がるの」
それが、彼女の願いだった。
彼女は、ずっと春を夢見ていた。
ただの一度でいいから、春の温もりを感じたかった。
だが、シオンは知っている。
それが叶った瞬間、彼女の存在は消えてしまう。
剣を抜けば、世界は変わる。
冬は終わり、春が訪れる。
だが、ミレイアはもうここにはいない。
「ねえ、騎士様」
ミレイアは、静かに微笑んだ。
それは、まるで春の風のように儚い微笑みだった。
「あなたは、私に春をくれますか?」
その問いに、シオンは目を閉じる。
雪が、ひとひら、彼の肩に落ちる。
白い世界が、どこまでも続いている。
—— もし、このまま何も変わらなければ、彼女はここにいられる。
—— けれど、それは 永遠の冬の中に囚われ続けることを意味する。
彼は、騎士だ。
剣を抜くことが使命だった。
だが、彼が剣を抜くことは彼女を失うということだった。
静寂の中で、シオンはゆっくりと剣を抜いた。
—— その瞬間、世界が音を取り戻した。




