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恋を知らぬ魔女は、物語を紡ぐ  作者: かに玉
恋を知った魔女は、物語を解く
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3話 春の記憶 - ひとひら、ひととき

——風が、吹いていた。


それは冬の冷たさを孕んだ風ではなく、どこか柔らかく、優しく、けれど確かに 何かを遠くへと運び去っていく風 だった。


世界は、淡く霞んでいた。


雪に覆われた静寂の庭園はもうどこにもなく、代わりに広がっていたのは 桜の森 。

無数の枝が、空へと広がるように伸び、そのすべてに 春の色が咲き誇っている。


けれど、その美しさはどこか儚かった。

花びらは、絶え間なく風に舞い、森の奥へと消えていく。

まるで、この景色そのものが いつか失われる運命にある ことを知っているかのように。


「……ここは?」


アメリアは、目を細めながら辺りを見回した。ついさっきまで、彼女は 氷の庭園 にいたはずだった。


なのに、気がつけば、降り積もる雪の白は、花びらの薄桃色へと姿を変えていた。


「君は、この森を知っている?」


旅人の声が、背後から響く。

アメリアはゆっくりと振り返った。

彼は変わらず、あの穏やかな表情で彼女を見つめている。


「……知らないわ。」


そう答えながらも、彼女の胸の奥に 微かな違和感 が残った。

知らないはずなのに。

この風も、舞い散る花びらも、どこか 懐かしい 。


——いや。


これは 懐かしいのではない 。

これは、忘れていたもの だ。


アメリアは、ゆっくりと桜の森を歩き出した。

枝が揺れるたび、ひとひら、またひとひらと、花びらが降り注ぐ。

その下を歩くたびに、彼女の足元には桃色の小さな波紋が広がる。


そのとき——


「やっと来たんだね」


ふいに、誰かの声がした。

それは風に紛れるほど小さく、柔らかく、けれど確かに 彼女に向けられた声 だった。


アメリアは足を止めた。


桜の木の下に、ひとりの少女が立っていた。

彼女の髪は春の陽だまりのように淡く、その瞳は、空に溶けるような静かな光を宿している。


その存在は、まるで 春の幻 だった。

風が吹くたび、彼女の輪郭は揺らぎ、消えてしまいそうに見える。


「……あなたは?」


アメリアが問いかけると、少女はにっこりと微笑んだ。


「私は、ナギ」


「ナギ……?」


「うん。この桜の森で、春の間だけ生きるもの」


春の間だけ。

その言葉に、アメリアは思わず眉を寄せる。


「それは、どういう意味?」


ナギは、空を見上げた。

桜の花びらが風に乗って、ひとひら、またひとひらと散っていく。


「私は、春が終わると、消えるの」


あまりにも自然に告げられた言葉。

それはまるで、「春が訪れたら雪が溶ける」と言うのと同じくらい、当たり前の事実のようだった。


「消える……?」


「うん」


ナギは微笑む。


「春の間だけ、私はここにいることができる。でも、花が散るころには、私はいなくなるの」


「そんな……」


アメリアは、言葉を失った。

まるで、この桜の森そのものが 「忘れられる」ために存在している かのようだった。


ナギは、そんなアメリアの表情を見て、くすっと笑う。


「大丈夫だよ。毎年のことだから」


その笑顔は、どこまでも柔らかくて、どこまでも儚いものだった。

アメリアは、胸の奥に 何か引っかかるもの を感じた。


彼女は、この景色を本当に知らないのか?

この風を、本当に感じたことはないのか?


——この少女と、どこかで会ったことはないのか?


けれど、その答えは見つからない。


なぜなら 「忘却」 とは、そういうものだから。


アメリアの中にある「空白」は、すでに「そういうもの」として、彼女自身の一部になっていた。


「……あなたは、それでいいの?」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。


「春が終わったら、いなくなることが?」


ナギは、一瞬だけ、目を伏せた。

その仕草はまるで、桜の木々の隙間から差し込む陽の光が、一瞬影を作るように儚かった。


そして、そっと、静かに微笑んだ。


「——ねえ、あなたは桜の花が好き?」


「え……?」


「私はね、好きなの」


ナギは両手を広げる。

桜の花びらが、彼女の周りで舞い上がる。


「だって、綺麗でしょう? 毎年、咲いて、散って、また来年も咲くの」


「……それは、でも……」


「消えることは、悲しいこと?」


ナギの言葉に、アメリアは息を呑んだ。


「あなたの綴ってきた物語の中で、どれだけの恋が、消えていった?」


風が吹く。

桜の花びらが、無数に舞い上がる。


「それでも、また春はやってくる。そうでしょう?」


アメリアは、何も言えなかった。


なぜなら、それは 彼女自身が最も知っていること だから。


 桜の花びらが、風に乗って舞う。


ひとひら、ひとひらと、空へと吸い込まれるように散っていく。

まるでそれが、この森に刻まれた時間の名残であるかのように。


「ねえ、あなたは覚えている?」


ナギが微笑みながら問いかけた。

その声は風の音に紛れ、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。


「……覚えている?」


アメリアはゆっくりと眉を寄せた。

その問いに、彼女は何と答えればよいのだろう?


この桜の森を、知らないはずなのに。

けれど、確かに 知っている気がする 。


「……覚えているのか、分からない」


そう答えながら、アメリアは自分の胸の奥に引っかかるものを探した。

ここに来たことがあるのだろうか。

この風に吹かれたことがあるのだろうか。


彼女が思い出そうとするたびに、桜の花びらがひとひら、またひとひらと舞い落ちていく。


記憶のどこかに触れたかと思えば、また消えていく。


まるで、春の終わりのように。


「ふふっ、それならそれでいいよ。」


ナギは肩をすくめ、笑った。

その笑顔は、どこまでも柔らかくて、どこまでも遠い。


「でもね、あなたはこの森に来たことがあるよ」


アメリアは息を呑んだ。

彼女は、何も言わない。


「だって、私、あなたを知っているもの」


ナギは、ひとつ桜の枝を揺らした。

花びらが雪のように降り注ぐ。


「あなたは、ここで『約束』をしたんだよ」


その言葉に、アメリアの胸の奥が強く軋んだ。


約束。

彼女は、誰かと約束を——


「……でも、私は覚えていない。」


ナギはゆっくりと首を振る。


「それは、春が終わるたびに忘れちゃうから」


忘れる。

この森で起こったことは、春が終わると すべて消えてしまう 。


「私は、春の間だけここにいるもの。だから、春が終わるたびに、あなたのことを忘れちゃう」


ナギは、少し寂しそうに笑う。

それは、彼女自身の定めを受け入れている者の笑みだった。


「でも、毎年春が来るたびに、またあなたに会える気がするの」


彼女の声が風に溶ける。

ひとひらの花びらが、アメリアの指先に落ちる。


指をそっと握ると、それはたちまち崩れ、消えてしまった。


「……私は、またここに来るの?」


「うん」


「そして、また約束をするの?」


「そうだね」


「けれど、それも、また忘れる?」


ナギは頷いた。


「そう。それが、この森の法則 だから」


アメリアは、静かに目を伏せた。


春の約束は、春の間しか続かない。

だからこそ、この森に来るたびに彼女は約束を繰り返す。


そして、それを忘れる。


まるで、春に咲いた桜の花が、散ることを知りながらも咲き誇るように。


「ねえ」


ナギがアメリアの手を取った。

彼女の手は、温かくて、けれど指の隙間からすり抜けていきそうなほど儚かった。


「私、あなたとまた春に会えるのが嬉しいの」


「……嬉しい?」


「うん」


ナギは、ふわりと微笑んだ。


「だって、また会えるでしょう?」


アメリアは、何かを言おうとした。

けれど、その瞬間——


 風が吹いた。


強く、激しく、森を駆け抜けるような風だった。

桜の花びらが一斉に舞い上がる。

視界が桃色に染まる。


その中で、ナギの姿が 薄れていく 。


「……あ……」


アメリアの指先が、ナギの手を追いかける。

けれど、彼女の輪郭はすでに風の中に溶けかかっていた。


「もう、春が終わるんだね」


ナギは、最後に微笑んだ。


「また、来てね」


風が吹き抜ける。

ナギの姿が、桜の花びらとともに消えていく。


アメリアは、ただ、その消えた空間を見つめていた。指先には、もう何の温もりも残っていなかった。


桜の花びらが、空へと舞い上がる。

ひとひら、ひとひらと。


そして、最後の花びらが地面に落ちると——


世界が、音もなく変わった。



 

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