エピローグ
夜が明けていた。
いや、もしかすると、それは最初からただの錯覚だったのかもしれない。
リオンは、静かに館の扉を押し開いた。
そこに広がるのは、変わらない風景。
黄昏の湖、鈍く輝く空、揺れる木々。
けれど——何かが違う。
風の匂いが変わっていた。
今までこの館を覆っていた、あの停滞した空気が消えている。
世界が、確かに「動き始めている」のを感じた。
リオンは、振り返った。
黄昏の館は、そこにあった。
けれど、それはどこか現実から遠ざかったような、夢の中の建物のように見えた。
壁を覆っていた蔦は、すでに枯れ始め、館そのものが長い眠りにつこうとしているかのようだった。
——すべてが終わったのかもしれない。
リオンは、静かに息を吐いた。
「……これで、よかったんだよな」
誰に言うともなく呟いた言葉は、風に溶けて消えた。
そのとき——。
かすかに、何かが聞こえた気がした。
——ノクターン。
驚いて振り返る。
館の奥から響く、微かな旋律。
けれど、それはもう幽霊のように絶え間なく流れ続けるものではなかった。
途切れながら、消えそうになりながら、それでも確かに「誰か」が弾いている音だった。
リオンは、足を止める。
……誰が、奏でている?
エレーナはもう、いないはずだ。
なのに——。
ふと、湖を見た。
揺れる水面に、影があった。
それは、黒いドレスを纏った、どこか懐かしい姿。
リオンは息を呑んだ。
——エレーナ。
彼女は、湖の向こう側に立っていた。
風に長い髪を揺らし、ゆっくりと微笑む。
けれど、その姿ははっきりとは見えなかった。
まるで、朝靄の中に消えてしまいそうな儚い影。
それでも、彼女はそこにいた。
リオンは、思わず手を伸ばしかけた。
けれど、届かない。
彼は静かに、拳を握る。
「……お前は、もう待つことをやめたのか?」
風が吹く。
エレーナは、何も言わない。
けれど、その瞳の奥には、もう迷いはなかった。
リオンは、微笑んだ。
「……そっか」
エレーナは、ゆっくりと目を伏せる。
そして——。
静かに、消えた。
風が吹き抜ける。
ノクターンの音が、湖に溶けるように消えていく。
リオンは、その場に立ち尽くしたまま、目を閉じた。彼は、この館で「何か」を失ったのかもしれない。けれど、それ以上に、「何か」を取り戻した気がした。
——待つことを、やめる。
それは、彼女が選んだ道だった。
そして、彼もまた、その道を受け入れた。
リオンは、ゆっくりと館を背に歩き出した。
ノクターンの旋律が、最後の音を響かせる。
館は静まり、夜が訪れる。
けれど、その余韻はまだどこかで響いている気がした。
黄昏の空を見上げる。
静かな雪が、音もなく降り始めた。
まるで、誰かがもう一度物語を紡ぎ始めたかのように——。