2話 ミレイアとの時間
湖の水面が、揺れていた。
風が吹いたわけではない。
雪が降ったわけでもない。
なのに、凍りついたはずの湖の水が、ゆらりと波紋を広げる。それはまるで、眠っていた記憶が目を覚ますかのように。
シオンは、その異変をじっと見つめていた。
—— こんなことは、今まで一度もなかった。
この庭園は時間を拒絶する場所だ。
冬のまま、静寂のまま、決して変化しないはずだった。
だが、湖の中央に咲く雪の花は、確かに光を帯びていた。柔らかな白い光が、花の輪郭をなぞるように広がっていく。
そして、次の瞬間——。
光の中から、ひとりの少女が現れた。
—— 白い髪、淡い藤色の瞳。
氷のように透き通った肌。
まるで、雪そのものが少女の形を取ったかのような存在。
「……やっと、出られた」
少女は、小さく息を吐いた。
その息すらも白く、庭園の冷たい空気に溶けていく。
シオンは、無意識のうちに剣の柄に手をかけた。
この庭園には、誰も入れないはずだった。
彼の知る限り、ここに存在するのは自分と雪の花だけだった。
だが、その花が少女の姿に変わったのだ。
「お前は……何者だ?」
彼の問いに、少女はふわりと微笑んだ。
それは、まるで春の陽だまりのように暖かく——
けれど、どこか儚げな微笑みだった。
「はじめまして、シオン」
彼女は知っていた。
彼の名を。
彼の存在を。
それはありえないことだった。
彼のことを知る者など、この世界には存在しないはずなのだから。
「……なぜ、俺の名を?」
シオンが問い返すと、少女は湖の水面を覗き込んだ。そこには、彼女自身の姿とともに、春の景色が映っていた。
青空に揺れる花々。雪のない大地。暖かな風。
それは、彼が一度も見たことのない景色だった。
少女は、そっと手を伸ばし、指先で水面をなぞる。
それだけで、映し出された春の景色がゆらりと揺れた。
「ここにはね、私の記憶が映るの」
彼女は、ぽつりと呟くように言った。
「私はずっと、ここにいたのよ、シオン」
—— ずっと?
そんなはずはない。
シオンは何百年もこの庭園を守ってきた。
その間、彼女を見たことなど一度もなかった。
「信じられない?」
少女は、ふふっと笑った。
雪の中で微笑むその姿は、まるで春の訪れを待つ花のようだった。
「……そうだな」
シオンは、剣の柄から手を離した。
彼女が敵ではないことは、直感でわかっていた。
だが、彼女は明らかにこの庭園にとって異質な存在だった。まるで、この静寂の世界に春の色を持ち込んだかのような。
「お前の名は?」
少女は、そっと瞳を閉じる。
雪のように白い唇が、静かに動いた。
「ミレイア」
そう名乗った彼女は、また微笑んで、こう言った。
「ねえ、シオン。この庭園に春が来たら、私はどうなるの?」
その問いに、シオンは答えられなかった。
なぜなら、彼自身が 「春」というものを知らないから。それが何をもたらすのか、何を奪うのか——彼には、何もわからなかった。
だが、ミレイアはすべてを知っているかのように、静かに湖の水面を見つめていた。
映るのは決して訪れないはずの春。
その景色が、妙に悲しいものに思えたのは、なぜだろう——。




