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6話 手放せないもの

黄昏の館の舞踏会は、今も続いている。

 

静かに流れるノクターンの旋律。

ゆらめくシャンデリアの光。

だが、そこに踊る者は、彼とエレーナの二人だけだった。


舞踏会に集うはずの人々の気配は、どこにもない。

テーブルには整然と並べられたグラスと食事があるが、それに手を伸ばす者はいない。


ワルツのリズムに合わせてステップを踏む足音だけが、広間に響いている。


リオンは、踊りながらエレーナの顔を見つめた。

彼女の黒髪は静かに揺れ、瞳は何かを秘めるように深い色を宿している。


——まるで、夜そのもののように。


けれど、彼は気づいていた。

彼女の姿が、少しずつ、少しずつ……薄くなっていることに。


「なあ、エレーナ」


「なに?」


彼女は微笑む。


「お前は、ここに囚われているのか?」


彼女の瞳がわずかに揺れた。


「……囚われている、か」


エレーナは、ふっと踊る動きを止めた。

リオンも足を止める。

舞踏会の音楽は、変わらず続いている。


彼女は、ゆっくりと息を吐くように言った。


「……あなたは、何かを手放したことがある?」


リオンは言葉に詰まった。


手放したもの。

彼は長い旅の中で、多くのものを見て、多くのものを失ってきた。

けれど、それが何だったのか、はっきりとは思い出せない。


まるで記憶の中に、空白があるように。


「……思い出せない」


彼は正直に言った。

エレーナは静かに微笑んだ。


「きっと、あなたも私と同じなのね」


彼女は、窓の外を見た。

黄昏の湖が、静かに波を打っている。


「私は、手放すことができなかったのよ」


「……何を?」


エレーナはリオンを振り返る。

その瞳は、どこか寂しげだった。


「……待つこと」


「待つ?」


「ええ」


彼女は、窓辺に手を置いた。

指先が、僅かに透けている。


「私は、ずっと誰かを待っている」


「誰を?」


「……わからないの」


リオンは息を呑んだ。


彼女は、誰を待っているのかもわからずに、ずっとこの館に留まり続けている。

手放せないもの——それは、もしかすると「待ち続けること」そのものなのかもしれない。


——だから、彼女はこの館に囚われているのか。


リオンは、目を伏せた。


「お前は、ここにいたいのか?」


「……わからないわ」


エレーナの声は、静かだった。


「でも……」


彼女は、窓の外に広がる黄昏の湖を見つめた。


「この館の外に出たら、私はもう、ここにはいられない」


彼女の声が、微かに震えた。


「だから、私はここにいるの」


リオンは、何も言えなかった。


彼女の姿が、より淡くなる。

影のように、風に消えてしまいそうだった。


リオンは、無意識に手を伸ばした。


その手が、彼女の指先に触れた瞬間——。


ノクターンの旋律が、突然、途切れた。


静寂。

舞踏会の広間に、音が消えた。


——消える。


リオンは、直感的に理解した。

この音楽が消えるとき、エレーナは——。


「おい、待て……」


彼は、咄嗟に彼女の手を掴んだ。

けれど、彼女の輪郭は、僅かに揺らぐ。

まるで、黄昏の中に溶けていくように。


「……手を、離して」


エレーナは、静かに言った。


「私を……手放して」


リオンは、息を呑む。


「……お前は、ここにいたいんじゃないのか?」


「……そうかもしれない。でも」


彼女は、ゆっくりと微笑んだ。


「私はずっと、待ち続けることしかできなかった」


「だから、私を……」


——手放してほしい。


その言葉が、彼女の唇から零れ落ちた瞬間。

ノクターンの旋律が、再び響いた。


けれど、それは今までとは違う音だった。


僅かに不安定で、儚く、そして消え入りそうな旋律。


リオンの手の中で、エレーナの姿が、さらに薄くなっていく。


「……なあ、エレーナ」


彼は、彼女の名を呼ぶ。

彼女は、ただ静かに微笑んだ。


そして——。


彼女の姿が、リオンの腕の中から、ゆっくりと消えた。


ノクターンの旋律が、淡く流れる。

窓の外の黄昏が、静かに揺らいでいた。


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