2話 過去に囚われた者たち
夜の館は、静寂の中に沈んでいた。
どこか遠くで、ノクターンの旋律が流れている。
静かで、切なく、どこか寂しげな音。
それはまるで、館の奥深くに閉じ込められた誰かの声のようだった。
リオンはサロンのソファに腰を下ろし、目の前の女性を見つめた。
長い黒髪。夜の帳に溶けるような深い瞳。
秋の夜の冷たさを纏ったような、どこか儚げな微笑み。
彼女は、自分をエレーナと名乗った。
「旅の詩人なのね」
彼女の言葉は、静かに響いた。
リオンは頷き、テーブルの上のグラスを手に取った。
琥珀色の液体が揺れ、燭台の光を受けて淡く輝く。
「詩を詠み、物語を探し、土地を渡り歩いている。それが俺の生き方だ」
「物語を……?」
エレーナが僅かに首を傾げた。
彼女の視線は、まるで何かを思い出そうとしているようだった。
「この館にある物語を知りたくてな」
「……なら、あなたもこの館の住人ね」
彼女の唇に、小さな微笑みが浮かんだ。
リオンは、その言葉の意味を測りかねて、しばらく沈黙した。
「この館には誰も住んでいないはずだが」
「いいえ」
エレーナはゆっくりと首を振る。
「この館には、囚われた者たちがいるのよ」
彼女は淡々とした口調で言った。
まるで、それがあまりにも当然のことのように。
「囚われた者たち……?」
「そう。そして、あなたもそのひとり」
静寂が訪れる。
館の奥で鳴るピアノの音だけが、淡く響いていた。
リオンは笑おうとしたが、なぜか声が出なかった。
囚われているのは、俺……?
何かがおかしい。
この館に来たのは偶然だったはずだ。
黄昏の湖を越え、たまたま目に入った場所で、一夜の宿を求めただけだった。
それなのに——。
「あなたは、何かを探しているのでしょう?」
エレーナの声が、静かに響く。
「……何を?」
彼女は、まるでリオン自身よりも、彼の心の奥を知っているかのように言った。
「忘れられないものよ」
——忘れられないもの。
リオンは思考の奥を探った。
だが、何も浮かばない。
思い出せない。
まるで、記憶のどこかに鍵がかかっているようだった。
過去に何かを失ったことはわかる。
けれど、その輪郭が曖昧で、どれほど手を伸ばしても、指先からすり抜けていく。
遠い霧の向こうに消えた風景のように。
「俺は……」
彼は言葉を探すように、視線を揺らした。
そのとき、館の奥でピアノの旋律がひときわ強く響いた。
——ノクターン。
静かな湖のような、優しく揺れる音。
けれど、その奥には微かな痛みが滲んでいた。
「この音楽は?」
リオンが尋ねると、エレーナは微笑んだ。
「ノクターンよ。この館に古くからあるもの」
「誰が弾いている?」
「わからないわ」
彼女の答えは、あまりにも曖昧だった。
リオンはじっと耳を澄ませた。
どこかで聞いたことがあるような旋律。
いや、もしかしたらただの錯覚かもしれない。
けれど、彼の心の奥底に、微かに触れるものがあった。
「この音が消えるとき、私は消えるのよ」
エレーナの声が、静かに届く。
リオンは、彼女を見つめた。
「……どういう意味だ?」
彼女は何も答えなかった。
ただ、まるで永遠に続く夜のように、静かに微笑んでいた。
館の奥で、ノクターンが響き続ける。
秋の夜風が、どこからともなく吹き込んだ。
その冷たさが、リオンの肌に微かな違和感を残した。
ここは——本当に、現実の世界なのだろうか?