1話 黄昏の館
湖の水面に、赤く染まった雲が静かに揺れていた。
陽が落ちかけた空は、まるで錆びた金のような色をしている。水に映る影はゆらゆらと揺れながら、今にも掴めそうで、けれど指先が触れた瞬間に崩れ去る——まるで、遠い記憶のように。
リオンは旅をしていた。
風に流されるまま、土地を渡り、詩を詠み、そして歩き続ける日々。
理由はわからない。ただ、何かを探している気がする。何かを……。
湖の畔に、館があった。
石造りの壁は深い蔦に覆われ、窓には薄いベールのようなカーテンがかかっている。
静かだった。まるで時間が止まったかのように、秋の冷えた風さえも、この場所を避けるように吹き抜けていく。
彼は扉の前に立ち、そっと手を伸ばした。
それほど古びているわけでもないのに、なぜか、この館は長い間誰にも触れられていないような気がした。
——トン。
ノックの音が虚ろな館の中へと吸い込まれる。
反応はない。
だが、帰ろうとは思わなかった。
黄昏の帳が下りるこの時間、野宿するには冷えすぎる夜だ。ならば、一晩だけでも雨風を凌げる場所を探すのが先だろう。
もう一度、ノックしようとした、そのとき。
「いらっしゃいませ」
低く、穏やかな声が聞こえた。
扉が静かに開き、そこに一人の男が立っていた。
黒い燕尾服を着た、年老いた執事だった。
白髪はきっちりと整えられ、無駄のない所作。
彼はまるで、リオンが来ることを知っていたかのように、僅かに微笑むと、恭しく一礼する。
「ご主人様が、お待ちしております」
リオンは訝しんだ。
——ご主人?
まさか、この館にまだ誰かが住んでいるのか?
「……俺は、ただの旅の詩人だが」
「存じております」
淡々とした口調。
リオンは少しだけ迷ったが、すぐに館の奥を見つめた。
暗がりの中、かすかに揺れる燭台の灯り。
外の世界から切り離されたような、静かな空間。
「……では、お邪魔させてもらおうか」
彼は一歩、足を踏み入れる。
扉が閉じられた瞬間、リオンは何かが変わった気がした。
肌を撫でる空気が僅かに冷え、館の中に満ちる空気が、どこか過去の匂いを含んでいる。
外とは違う。
まるで、ここだけが違う時間の流れに囚われているような——そんな感覚。
執事の足音だけが、館の奥へと続いていく。
その晩、館の奥のサロンへと案内されたリオンは、そこで彼女に出会った。
白い肌。
長い黒髪が、ソファにゆるく広がっている。
秋の陽が沈みきる寸前、深い影の中に隠された横顔。
彼女は微笑んだ。
静かに、けれどどこか懐かしいものを見るような表情だった。
「あなたも、誰かを忘れられずにいるの?」
問いかける声は、あまりにも穏やかで、冷たかった。
リオンは、何も言えなかった。
まるで、彼女がその答えをすでに知っているかのようだったから。
サロンの奥で、夜想曲が流れていた。
静かで、切なく、どこか寂しげな旋律。
黄昏の帳が下りた館で、その音だけが、確かに響いていた——。




