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エピローグ

彼の腕の中には、何もなかった。


熱に浮かされたような夜が、静寂を取り戻していく。虫の声が響き、遠くで風が葉を揺らす音がする。


——まるで、最初から何もなかったかのように。


王は、ただそこに立ち尽くしていた。


紅い衣の揺らめきも、黒髪を飾る金の鈴の音も、

彼の指先からこぼれ落ちるように消えた。


何かが足りない。

何かがここにあったはずなのに、指の間をすり抜けていった。


王は、ゆっくりと手を開く。

夜風が、彼の掌をなぞるように通り過ぎる。


そこには、本当に何もなかった。


「……またか」


彼は低く呟く。


彼女は、消えた。

踊り終えたあとに、風に乗るように、夜の闇に溶けていった。


まるで、最初からこの世のものではなかったかのように——。


だが——


今夜だけは、彼女の痕跡が残っていた。


足元の地面に、かすかに紅い布が落ちていた。

それは、彼女のヴェールの端だった。


確かに、彼女はここにいた。


彼の腕の中で踊り、息を弾ませ、

挑発するように微笑み、そして 戸惑いを見せた。


——それなのに、なぜ消えた?


なぜ、指の間をすり抜ける?


王は、静かに目を閉じる。


脳裏に浮かぶのは、彼女の瞳。

熱を帯びながらも、どこか遠くを見つめていた。


そして、最後の瞬間——


彼の唇に触れようとした彼女の指先が、かすかに震えていた。


——まるで、惜しむように。


「……風のような女だ」


王は、ひとつ息を吐く。


彼の中に、征服の満足感はなかった。

戦場を駆け抜け、王座を手に入れたときのような、達成感もなかった。


ただ、妙な喪失感が残るだけだった。


陽炎の踊り子。


それは、ただの噂だったはずだ。

夜ごと桜の森の跡に現れ、踊り、そして誰の手にも触れることなく消える幻。


しかし、今となっては 幻だったのかどうかすらわからない。


王は、再び掌を見つめる。


彼女を抱き寄せた手。

彼女の熱を感じた指先。


確かに、そこにいた。

確かに、踊っていた。

確かに——


——彼は、彼女に触れていた。


それでも、彼女は消えた。

まるで、陽炎が立ち消えるように。


王はふと、夜空を仰ぐ。


月が、静かに輝いている。


——それでも、また会えるのではないかという気がした。


彼女は陽炎だ。

陽炎は消えたように見えても、どこかでまた揺らめく。


ならば、彼女もまた、どこかで舞っているのではないか。


王は静かに目を閉じる。

そして、月を背に、踵を返した。


もう、ここに彼女はいない。


だが——


王は、ふと桜の森の跡を振り返る。


風が吹いた。

乾いた大地の上に、淡い花びらが一枚舞い落ちる。


王はそれを見つめる。


——この地は、かつて春の桜が咲いた場所だった。


それを知っている者は、もうほとんどいない。

だが、今でも時折、春の残り香が漂うことがある。


彼女は、本当にただの踊り子だったのか?


彼女が舞っていたのは、この国が忘れた 「春の記憶」 なのではないか?


——彼女が消えたその先には、何があるのか。


王は、足元に落ちた淡い花びらを拾う。


そのとき、ふと夜の風が吹く。

これまでのように熱を帯びた風ではない。

どこか、ほんのわずかに涼しさを孕んでいた。


王は、静かに息を吐く。

この季節は、終わりを迎えようとしている。


秋の静寂が、すぐそばにあった。

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