7話 陽炎の舞(後編)
熱が絡みつくようだった。
風が吹くたび、紅の衣が揺れ、砂が舞い上がる。
夜の静寂を破るのは、二人の足音だけ。
——もはや、この世界には二人しかいないかのように。
エドワルドの手が、彼女の肩を捉えた。
リュシアは微かに目を細める。
「……私を捕まえたつもり?」
「どうかな?」
王の手が彼女を引き寄せる。
瞬間、彼女の足が地を離れ、回転するように王の腕の中へと導かれる。
紅のヴェールが舞う。
彼女の髪がふわりと浮かび、夜風に揺れる。
王の手が彼女の腰を支え、リズムを刻む。
リュシアの瞳が、じっと王を映す。
「……ようやく、本気になったのね?」
「俺がいつ手を抜いた?」
彼女はくすりと笑う。
「ふふ、いいえ。これまでは……私を追っているだけだったわ」
エドワルドは薄く笑う。
「今夜は違う」
「ええ、そうみたいね」
リュシアは、王の首元に手を添えた。
熱を孕んだ視線を交わしながら、二人はステップを踏み続ける。
——もはや、どちらが主導権を握っているのかわからない。
踊る者と、踊らされる者。
誘う者と、誘われる者。
その境界が、曖昧になっていく。
王は、彼女の手を強く引いた。
リュシアの体が、自然と王の胸に引き寄せられる。
「……逃げないのか?」
「逃げると思って?」
王は目を細める。
「お前は、いつも逃げていた」
「逃げていたわけじゃないわ」
彼女の声は、かすかに揺れる。
「ただ、舞っていただけ」
「ならば、今は?」
リュシアは、しばし黙る。
彼女が言葉を詰まらせたのは、初めてだった。
王は、それを見逃さなかった。
「今は——俺と踊っている」
彼はそう言って、さらに彼女の腰を引き寄せる。
彼女の呼吸が、わずかに乱れる。
「……王様は、本当に意地が悪い」
「そうか?」
「ええ……こんなに近くにいるなんて」
エドワルドは、ゆっくりと彼女を見下ろした。
リュシアの顔は、月光を受けて白く浮かび上がっていた。彼女の瞳が、夜の深い闇を映している。
そして、王は ふと、思った。
この距離ならば——
彼の顔が、ゆっくりと彼女に近づく。
彼女の睫毛が、わずかに揺れる。
—— その瞬間、鋭い痛みが走った。
「……!」
王の唇に、確かな痛み。
リュシアの歯が、そこに食い込んでいた。
噛まれた——と気づくよりも早く、
彼女の姿が、ふっと陽炎のように揺らぎ始める。
「……お前……」
彼がその名を呼ぶ前に、彼女は微笑む。
唇を離し、ほんの僅かに名残惜しそうに、しかし楽しげに。
「—— 殿下、また次の夏に」
風が吹いた。
夜が震える。
王は、彼女の指先が微かに冷たいことに気づいた。
「……リュシア?」
彼女の姿が、月の光の中でかすかに揺らぐ。
まるで、陽炎が消えるように——。
王の腕の中にあったはずの温もりが、ふっと軽くなる。
そして、次の瞬間——
彼の腕は空を抱いていた。
風が吹き抜ける。
紅の衣が、ひらりと宙を舞った。
王の手の中には、何も残らなかった。
夜の静寂が戻る。
虫の声が、遠くで響き始める。
まるで——
何もなかったかのように。