2話 王の執着と再訪
夏の夜は、容易く人を惑わせる。
昼間の熱を引きずり、夜の闇はぬるく肌にまとわりつく。
風が吹いても、それは決して涼しくはならず、ただ森の奥深くへと熱を運んでいくだけだ。
遠くで虫の声が響く。微かな葉擦れの音がする。
静寂のようで、静寂ではない。
エドワルドは、馬を降りると乾いた土を踏みしめた。昨日と同じ。それなのに、まるで違う場所に立っているような気がした。
彼は、再び桜の森の跡へ来た。
昨日、この地で彼はありえないものを見た。
月の下、紅の衣を纏い、風に舞う女。
そして、陽炎のように消えた存在。
——あの女は、何者なのか?
「陛下、本当にお一人で……?」
従者の声に、彼は軽く手を振る。
「ここにお前がいても意味はない。下がれ」
従者はためらったが、王の意を悟ると、静かに頷いた。エドワルドは、再び夜の闇へと足を踏み入れる。
桜の森の跡。
ここには、かつて満開の桜が咲いていたという。
春には風が吹けば花弁が舞い、陽光を浴びて紅に染まったと。
だが、今はただの荒れ地だ。
乾いた大地、枯れた木々。
ここに、春があったことなど、今はもう誰も思い出さない。
「……春は、消えるものだ」
エドワルドは、低く呟く。
征服者である彼にとって、過去の美しさなど何の価値もない。
必要なのは「今ここにあるもの」それだけだった。
だが、昨夜の光景はまるで春の残滓のように彼の記憶に残り続けていた。
その時——
また、風が吹いた。
——踊りが始まる。
闇の中、紅の衣が揺らめく。
燃えるような紅の衣を纏い、月光の下で舞う女。
昨日と同じ光景。
それなのに、どこか違って見えた。
いや、違うのは 自分の方か。
エドワルドは、無意識に彼女を見つめる。
目の前の光景は、まるで昨日の続きのようだった。
それなのに、昨日のようにただ見ているだけでは済まなかった。
——今度こそ、話をしよう。
エドワルドは、ゆっくりと彼女のもとへと歩を進めた。
「……踊るだけで消えるのか?」
彼女の動きが、ほんのわずかに緩んだ。
しかし、すぐに回転しながら笑う。
「——さあ、どうかしら?」
風に乗った声が、心地よく響く。
その軽やかな響きに、王はわずかに眉をひそめた。
「お前は何のために踊る?」
リュシアは、回転しながら肩をすくめた。
「どうして王は征服するの?」
エドワルドは一瞬、答えを探した。
しかし、すぐに口元を歪める。
「それは、俺がそういう生き物だからだ」
リュシアも微笑む。
「だったら、私も同じよ」
彼女の舞は止まらない。
彼女にとって、踊ることは息をするのと同じなのだろうか。
まるで、踊るために生まれた存在のように。
「私は踊るために生きているの。ただそれだけ」
「それだけか?」
「ええ。それだけ」
彼女の瞳には、迷いの色など微塵もなかった。
王は、それがなぜか奇妙に空虚に聞こえた。
彼女は何者なのか?
彼女は本当にただ踊るだけの存在なのか?
エドワルドは、ふと胸の奥にわずかな違和感を覚えた。
「お前は……何を燃やしている?」
その言葉に、彼女の踊りが一瞬だけ乱れた。
しかし、それはほんの一瞬だった。
リュシアはすぐに体勢を立て直し、何事もなかったかのように微笑んだ。
「……おかしなことを言うのね、陛下。これは踊りよ、炎じゃないわ」
そう言って、彼女は再び舞い始めた。
だが、エドワルドは 彼女の動きの端に、ほんのわずかな迷いを感じ取っていた。
——これは、ただの踊りなのか?
それとも何かを燃やしている踊りなのか?
風が吹く。
熱が揺れる。
リュシアの踊りが、再び夜の闇に溶けていく。
エドワルドは、それをただ見つめ続けた。