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1話 陽炎の踊り子との出会い

夏の夜は、熱を孕んでいる。


空気は重く湿り、草葉の隙間を通り抜ける風は、どこまでも生温かった。


涼しさを運ぶこともなく、ただ肌にまとわりつくように、ゆっくりと流れていく。


遠くで虫の声が響く。草むらがざわめく。

夜の帳は深く、だが決して静寂ではなかった。


エドワルドは、じっと夜闇を見つめていた。

馬を降り、乾いた土を踏みしめる。


ざり、と靴の下で砂がこすれる音がした。


目の前に広がるのは、桜の森の跡。

かつて、この地には桜が咲き乱れていたという。


春には、森全体が淡い紅色に染まり、風が吹けば、花弁が空を舞ったと。


だが、今はもう、そんな面影はどこにもない。

桜の枝はすっかり乾き、葉のない木々が影のように立ち並んでいる。


地面にはひびが入り、乾いた風が砂を舞い上げる。


ここには、もう何も残っていない。


……本来ならば。


だが、夜ごと現れるという。

この桜の森の跡に、ひとりの女が——陽炎の踊り子が舞うのだと。


エドワルドは、その噂を聞きつけてここへやってきた。


彼は征服者だった。

戦場で剣を振るい、都市を焼き、王座を勝ち取った男。


この国を手に入れたのも、ほんの数ヶ月前のことだ。


すべてを手に入れたはずの彼が、ただの噂話に導かれるようにこの地を訪れるなど、本来ならばありえない。


——だが、それを無視できなかったのは、己の性なのだろう。


すべてを手に入れた王が、ただひとつ、手に入らないものに出会ったら?


手を伸ばせば消え、求めればすり抜ける。

それは、何よりも執着心を煽るのではないか?


ならば俺が捕らえてみせよう。


エドワルドは夜の闇を見つめる。

虫の声がふと消えた。


その時だった。


——踊りが始まる。


闇の中に、紅が揺らめいた。

空気が震え、風が舞う。


燃えるような紅の衣を纏い、月光の下で舞う女。

エドワルドは、彼女を見つけた。


風が吹き抜ける。


黒髪がゆるやかに揺れ、細い手首に絡まる金の鈴が、かすかに音を立てる。

足元に広がる乾いた大地が、彼女の舞とともにわずかに揺らめいた。


そう——まるで 蜃気楼のように。


彼女は、ただ舞っていた。

王の存在など意に介さないかのように。

彼女の世界に、彼は存在しないのかもしれない。


だが、それが王の心に小さな苛立ちを生んだ。


エドワルドは彼女をただの幻だとは思わなかった。

確かに、目の前で風に揺れ、紅の衣が翻る。

静寂の中で、鈴の音が微かに響く。


そこにいる。

だが、そこに 届くことはない。


彼の指の隙間をすり抜けるように、彼女は踊る。

それは、どこか挑発的にさえ思えた。


エドワルドは、ゆっくりと足を踏み出した。


すると、彼女はふっと微笑んだ。


それは 挑発的な笑みだった。


まるで 「お前に捕まるとでも?」 と言わんばかりに——。


彼は、その笑みを見て、はじめて本能的な違和感を覚えた。


これは、何なのか。

この女は、いったい何者なのか?


彼はもう一歩踏み出す。

だが、その瞬間、彼女の姿がかすかに揺らめいた。


——消えるのか?


エドワルドは無意識に手を伸ばす。

その指が、彼女の衣の端に届きそうになった、その瞬間——


風が吹いた。


そして、彼女は、ふわりと夜闇に溶けていった。

王の手には、何も残らなかった。


夜の静寂が戻る。

虫の声が、遠くで鳴き始める。


まるで 何もなかったかのように。


エドワルドは、指先を見つめた。

そこには、温もりのひとかけらもない。


だが、確かにそこにいたのだ。

踊り、微笑み、そして消えた陽炎のような女が。


エドワルドはゆっくりと、夜の空を仰いだ。

月が、静かに輝いている。


彼は、小さく息を吐き、そして——


——また来よう、と思った。


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