エピローグ
春が、また巡ってきた。
雪はとうに消え、世界は柔らかな陽射しに包まれている。暖かな風が吹き、桜の蕾はほころび始めていた。
ヨハンは、旅の途中でこの森を訪れた。
——なぜかは分からない。
ただ、気づけば足が向かっていた。
理由もなく、ただ導かれるように。
森の入り口に立ったとき、桃色の花が目に飛び込んできた。
満開にはまだ早いが、枝の先には柔らかくほぐれた花びらが揺れている。それを見た瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。
なぜだろう。
ヨハンは、桜の森をゆっくりと歩く。
木々の隙間を抜け、森の奥へと進んでいく。
去年、ここに来た記憶はない。
それでも、どこか懐かしい気がした。
「……?」
足元に、一枚の花びらが落ちていた。
ヨハンはしゃがみこみ、それを拾い上げる。
ひらひらと指先で揺らしながら、花びらの感触を確かめる。
桜の花びらに、特別な意味があるわけじゃない。
それでも、なぜか手放すのが惜しい気がした。
風が吹く。
ヨハンの髪を揺らし、桜の枝を震わせる。
花びらがふわりと宙に舞う。
その一瞬、遠くから誰かが笑う声が聞こえた気がした。
——ああ、と思う。
誰かが、ここにいたような気がする。
けれど、誰だったのかは思い出せない。
どんな声だったのかも、どんな顔だったのかも。
けれど、確かに、何かがあった気がする。
ヨハンは、小さく息をついた。
そして、手の中の花びらをそっと宙に放す。
花びらは風に乗り、くるくると回りながら舞い上がる。それを見つめながら、ヨハンはぼんやりと呟いた。
「……また、来るか」
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、風に乗せて、桜の森に溶けていった。
その背中を見送るように、桜の木々が静かに揺れる。
春の風が、森を吹き抜ける。
その中に、微かに優しい声が混じっていた。
——また、来てね。
ヨハンは、振り向かなかった。
けれど、彼の足は再び、桜の森へと向かっていた。
まるで、何かを探すように。
そして、何かを待つように——。
夏の陽炎が、遠くに揺れている。