6話 風と共に消える影
桜の森に、夜が訪れようとしていた。
陽が沈みかけた空は、燃えるような朱に染まり、森の奥へと長い影を落とす。
風が吹くたびに、桜の花びらが舞い、宙に溶けていく。
——消えたくない。
——忘れたくない。
ヨハンの中で、その思いが強くなっていた。
ナギは、桜の木にもたれかかるようにして立っていた。肩で細く息をして、指先はかすかに震えている。
「……ナギ」
呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……私、少し、疲れちゃった」
いつものように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
だが、その姿はどこか儚く、影のように淡くなっているように見えた。
「……お前、やっぱり……」
「うん」
ナギは小さく頷いた。
「桜が散ると、私は消えるの」
また、当たり前のことのように言った。
ヨハンは歯を食いしばった。
そんなことは、分かっている。
それでも、どうしても納得できなかった。
「お前が消えたら、俺はどうすればいい」
「……また春が来るわ」
「違う」
ナギは、少しだけ驚いたように彼を見た。
ヨハンは、拳を強く握りしめた。
「お前が消えて、俺の記憶からも消えて、それで……また春が来たとしても……!」
言葉が詰まる。
喉の奥が熱くなった。
「……それじゃ意味がないだろう」
ナギは微笑んだ。
だが、その笑顔はどこか寂しげだった。
「そうね。でも、それが春の幻よ」
「そんなの……」
受け入れられるはずがなかった。
ナギはそっと桜の幹に寄りかかる。
夜の闇が滲むように広がり、森は次第に静かになっていった。
ヨハンはナギのそばに立つ。
彼女が消えてしまわないように。
彼女の姿を、少しでも長く覚えていられるように。
——春が終わるまで、ここにいる。
——それが、俺にできる唯一のことだから。
風が吹いた。
桜の花びらが、ナギの髪に絡むように揺れた。
そして、その一部が、音もなく消えた。
ヨハンは息をのんだ。
ナギの姿が、かすかに薄れている。
肩のあたりが透けて、桜の幹が透けて見えた。
「……ナギ」
ナギは微笑んだ。
「大丈夫よ」
「何が大丈夫なんだ」
「あなたは、ここにいるでしょう?」
「……ああ」
ヨハンはゆっくりと頷いた。
「俺は、お前を忘れない」
「……ありがとう」
ナギは、ヨハンの顔を静かに見つめた。
「でもね、ヨハン」
彼女の声が、夜の風に乗って消えていく。
「春が終わるとき、あなたの記憶は——」
最後まで言い終える前に、ナギの姿がふっと揺らいだ。
ヨハンは手を伸ばした。
だが、その指が触れた瞬間——
ナギの体が、花びらのように崩れていった。
風が吹いた。
彼女の形を成していたものが、桜の花びらとなって宙に舞い、遠くへと消えていく。
ヨハンの指は、ただ空を掴むだけだった。
「……ナギ?」
返事はなかった。
そこには、もう何もなかった。