5話 桜の散る時、幻も消える
風が吹いた。
桜の花が、静かに舞い落ちる。
それはまるで、春の終わりを告げる合図のようだった。
ナギは、落ちていく花びらを見つめていた。
白い指先がそっと伸ばされ、ひとひらの花を掬う。
けれど、それは彼女の掌に乗ることなく、ふわりと消えた。
「……始まったわね」
ナギが、微かに笑った。
ヨハンは眉をひそめた。
「何が?」
「桜が散り始めたの」
「それがどうした?」
「桜が散ると、私は消えるわ」
彼女は、まるで何でもないことのように言った。
ヨハンは思わず息を呑む。
「……何を言ってる?」
「言ったでしょう?」
ナギは静かに微笑む。
「私は、春の間だけここにいるの」
「それは……」
分かっていたはずだった。
春の幻である彼女が、桜の花とともに生まれ、桜の散るときに消えてしまうこと。
だが、それを改めて聞かされると、言葉を失った。
ナギは風に揺れる桜の木を見上げる。
その髪もまた、花びらと同じように揺れていた。
「ヨハン」
呼ばれて、彼は彼女を見た。
「……もし、春が終わるまでに、あなたがここを離れたら」
ナギは、ほんの少しだけ、ためらうように言葉を継いだ。
「あなたは、私のことを忘れるのよ」
風が吹いた。
花びらが、宙を舞う。
ヨハンは息を呑む。
「……そんなこと、あるわけないだろ」
「あるのよ」
ナギは、淡い瞳で彼を見つめた。
「だって、春の幻はね——出会った人の記憶にも、残れないものだから」
ヨハンの心が、大きく揺れた。
「……どういう意味だ」
「私は、この春の間だけ、あなたの前にいるの」
ナギは、優しく微笑んだ。
「でも、春が終わると、あなたの記憶からも消えてしまうわ」
ヨハンは、何かを言おうと口を開いた。
だが、言葉が出てこなかった。
それは——まるで死ぬようなものじゃないか。
彼女は、何もなかったことになる。
彼女を知っていたことも、彼女と過ごした時間も、すべて。
「……嘘だろ」
「嘘じゃないわ」
ナギは、桜の花を見つめる。
「でも、大丈夫よ」
彼女は、柔らかく微笑んだ。
「そういうものだから」
その笑顔が、なぜかひどく痛かった。
「……それでいいのか?」
「ええ」
「それでも、俺と過ごしているのか?」
ナギは、小さく息をついた。
「……ねえ、ヨハン」
風が吹いた。
彼女の髪が、花びらのように舞う。
「あなたは、私のことを忘れたくない?」
ヨハンは、思わず息を呑んだ。
——そんなの、当たり前だ。
けれど、その言葉が喉を塞ぐ。
ナギは、桜の森に立ちながら、ただ静かに彼を見つめていた。
「春が終わる前に、私は消えるわ」
彼女の声は、風に紛れるように儚かった。
「その前に……もし、あなたがここを去らなければ」
「……」
「あなたは、覚えていられるのかもしれない」
それは、確証のない言葉だった。
けれど、ヨハンにはそれが唯一の希望のように思えた。
「なら、俺はここにいる」
ナギは少し驚いたように、瞬きをした。
「俺はここを離れない」
ヨハンは静かに言った。
「お前が消えないように」
ナギは、桜の花びらの中で、微かに笑った。
それが嬉しいのか、悲しいのか——彼には分からなかった。