4話 桜の森に揺れる影
夕暮れが近づくにつれ、桜の森は柔らかな金色に包まれていった。
陽が傾くと、桜の花びらはまるで光を宿したようにきらめき、風に乗って宙を舞う。
ヨハンとナギは並んで歩いていた。
——誰かの記憶が、この森の桜に宿っている。
——触れれば、失われた冬の記憶を垣間見ることができる。
それを知ってから、ヨハンは何度か桜の木に触れてみた。
しかし、最初のようにはっきりとした映像を見ることはできなかった。
ただ、指先に残るのはかすかな温もり。
それが何の記憶なのか、誰のものなのか——思い出すことはできなかった。
「ねえ、ヨハン」
ふいに、ナギが立ち止まった。
「あなたは、記憶を取り戻したいの?」
その問いかけは、どこか柔らかく、それでいて重いもののように聞こえた。
ヨハンは、ナギの桜色の瞳を見つめた。
そこには、春の空のような穏やかさと、何かを知っているような静けさがあった。
「……取り戻したい、というよりも」
言葉を探す。
自分の胸の奥にある感情を、うまく言葉にするのは難しかった。
「俺は、何かを失った。それだけは分かる。でも、それが何だったのかが分からないんだ」
ヨハンはふっと息をついた。
「……だから、探してる。何を探しているのかも分からないまま」
ナギは静かに頷いた。
「そう」
それだけ言うと、彼女は再び歩き出した。
どこかで鳥が鳴いた。
それは、夕暮れの訪れを告げる音だった。
「この森の桜はね、春が終わるとすべて散ってしまうの」
ナギはぽつりと呟いた。
「散ってしまったら、もう二度と戻らないわ」
「……二度と?」
「ええ。だって、桜は春にしか咲かないもの」
当たり前のことのようにナギは言った。
だが、その言葉が妙に心に引っかかった。
「なら、この桜に宿ってる記憶も……?」
ヨハンの問いに、ナギは微笑んだ。
「そうね。春が終われば、桜も記憶も、消えてしまうわ」
風が吹いた。
それと同時に、ナギの髪がふわりと舞い上がる。
その姿が、花びらと一緒に消えてしまいそうに見えて——ヨハンは思わず手を伸ばしそうになった。
けれど、寸前で指を止めた。
「——ヨハン」
ナギの声が、風に紛れるように響いた。
「もし、春が終わったら……あなたは、この森にまた来る?」
「……分からない」
正直な答えだった。
だが、ヨハン自身、それを言葉にしてしまうことが少しだけ怖かった。
ナギは静かに笑った。
「……そう」
その表情は、どこか寂しそうだった。
桜の森に、長い影が伸びる。
日が沈むまで、あとわずかだった。