3話 失われた記憶を探して
春の森は静かだった。
鳥のさえずりも、木々のざわめきも、遠くの方でかすかに響いているだけで、まるで音が吸い込まれていくようだった。
風が吹く。
それに乗って、桜の花びらが舞う。
ヨハンとナギは森の中を歩いていた。
足元の地面は柔らかく、桜の花びらが積もっている。まるで薄桃色の雪の上を歩いているようだった。
「この森には、忘れられたものがたくさんあるって言ってたな」
ヨハンが口を開くと、ナギは「ええ」と静かに頷いた。
「どういう意味なんだ?」
「そのままの意味よ」
ナギは桜の木を撫でる。
木肌はなめらかで、ひんやりとしていた。
「この森にある桜はね、冬の記憶を宿しているの」
「冬の記憶……」
「うん」
ナギは小さく微笑んだ。
「冬に消えたものは、そのまま消えてしまうわけじゃないの。一度、春の森に宿って、それから散っていくの」
「……つまり、ここに来れば、失われた記憶を取り戻せるってことか?」
「かもしれないわね」
ナギは微笑んだまま、ふっと手を伸ばした。
桜の枝を軽く揺らすと、花びらがひらりと舞った。
それは雪のようにふわふわと宙を舞い——やがて、消えた。
ヨハンは思わず眉をひそめた。
「今、花びらが——」
「消えた?」
ナギは微笑んだ。
「そうよ。この森にある桜の花びらはね、誰かの記憶なの」
ヨハンは驚いたように桜の木を見上げた。
「じゃあ、今のは……」
「消えた記憶のひとひら」
ナギは桜の幹に手を添える。
「ねえ、ヨハン。あなたは何かを探してるんでしょう?」
ヨハンは無言で頷いた。
「なら、試してみる?」
「……試す?」
「うん。この桜に触れてみて」
ヨハンは少し迷った。
だが、意を決して桜の幹に手を置いた。
——その瞬間、視界が白に染まった。
❄︎❄︎❄︎
雪が降っていた。
白い世界。静寂。冷たい空気。
そこに、一輪の花が咲いていた。
ヨハンは息をのんだ。
どこかで見たことがある景色。
思い出せそうで、思い出せない。
けれど、その光景は確かに彼の心を締めつけた。
そのとき——誰かの声がした。
「——約束するよ」
その声を聞いた瞬間、ヨハンの心が大きく揺れた。
知っている。
この声を、知っている。
だが、思い出せない。
「——必ず、また——」
言葉の途中で、視界が揺らぐ。
まるで、水に映った景色が崩れるように。
ヨハンは思わず手を伸ばした。
けれど、その瞬間——
視界が暗転した。
***
目を開けると、ナギが目の前にいた。
「……どうだった?」
ヨハンは荒い息をつきながら、桜の幹から手を離した。
「今……何かが……」
ナギは静かに微笑んだ。
「見えたのね」
ヨハンは何度も頭の中を巡らせた。
あの景色。あの声。
思い出せそうなのに、思い出せない。
ただ、ひとつだけ確信があった。
——俺は、何かを失った。
それだけが、胸の奥に残った。