誓約
七
野口と乙女の心配を余所に、さきがけが学識を身に付けていた。魂となった偉人たちの噛み砕いた説明には卒がない。端々に聴こえることは、人それぞれの努力が実を結び花開くということ。釈迦の掌の上で踊らされている、という言葉通りに見えた。供となるふたりの前で、格好つけている、と思ったのは、神々だけだろう。前世の記憶を軽んじた結果である。植え付けた印象は、上書きするものだからだ。
苦悶する表情を見せないでいた。そうやって人は改心していくのだろう。可能性が開花するきっかけなど、人の知るところではないのが現状であった。
「人を知らなければできない指導方法だな」野口は納得し、やり方を改めようと心に誓っていた。勾玉を与えられたことで、身を削る思いがなくなったのだろう。たったひとつの身体と、さきがけに言われたことを理解した。造語になってしまったが、健全な魂は健全な身体から、ということが窺える。身に積まされるものの大事さは、違う造語にもなっていた。
『人の振り見て我が振り直せ、ですね。反面教師にすることの見定めは、自らの責任なのですね』乙女は、よもやを経験していた。人間不信に陥ったことさえも、良い経験と想えるようになっていた。
それも人間、されども人間。世捨て人に堕ちても仕方のない状況は幾度となくあるものだ。想いを寄せたのは、『捨てる神あらば、拾う神あり』で、人が神になる必要性を言っているからと繋ぎ併せていた。
『継続は力なり』卑弥呼が、さきがけを激励するための言葉は、揺らめきながら消えていった。通常、神々と契約することはない。どちらかというと、人が神様に誓約するはず。その誓約書に書かれた文字は、締結した時に消えてしまう。約束した、という事実が、心に刻まれるからである。反古にすることが赦されない理由だ。
古くから日の本の国に生存する卑弥呼は、一度も施行したことがない。それが謎となった理由だった。人の可能性を信じ続けた結果、人の想いに残らなかったということだろう。永遠の命にのし掛かる責任は、人には理解できないはずだ。




