恋は盲目
「あのね……聞いて欲しい事があるの……」
「……うん」
大学のカフェテリア、幼馴染みは緊張した面持ちで私を見た。普段控え目な彼女からのお願いに、私は深く頷いた。彼女の緊張が私にも伝わり、ごくりと息を飲み込んだ。
「わ、私……ついに……彼氏が出来たの……」
「お……おぉ! おめでとう優子! どんな人? 私が知っている人?」
深呼吸を何度かした後に、優子は意を決し口を開いた。告げられた言葉を聞き、私は自身のことのように喜ぶ。家が近所で小さい頃から一緒で姉妹のように育った優子に、大学の2年生にして春が来たことを嬉しく思う。だがそれと同時に相手が、どのような人物なのか気になる。可愛くて控え目な性格の彼女が、悪い男に泣かされるのは嫌だ。
「えっと……私たちと同じ講義を取っている人で……。優しくて、私の話をちゃんと聞いてくれて……好きだって言ってくれて……」
「お、おぅ……」
私の質問に、顔を両手で覆いながら優子は答えてくれる。意中の相手に対して本気のようだ。耳まで真っ赤にしている。予想以上の惚気に私は一瞬だけたじろいだ。
我が大学はマンモス大学であり講義は、満席は当たり前である。知っている顔を頭の中でリスト化するが、優子の彼氏を絞り込むことは出来ない。幼馴染みとしては優子の相手を知りたいが、あまり詮索し過ぎるのも繊細な彼女を傷つける可能性がある。どう切り出せば良いものかと思案する。
「あのね……それで、彼を紹介したいの……」
「……え? いいの?」
ゆっくり顔を上げた優子からの提案に瞬きを忘れた。渡りに船とはこのことだろう。思わず聞き返してしまう。
「勿論だよ! というか……その、一番に紹介したくて報告したのよ?」
「……そっか、ありがとう。勿論会いたいけど、何時何処で?」
頬を膨らませた彼女は、少し拗ねたような口調で可愛らしい事を告げた。私を信頼してくれていることがこの上なく嬉しい。胸の辺りが温かい気持ちになる。私の気分は上がり、紹介してくれるという日付と場所を尋ねた。
「実はもう呼んであるの……あ! 此処だよ!」
「え、今?!」
照れた様子で衝撃的なこと告げると、優子は私の後方へ手を振った。急展開に私は狼狽した。大切な幼馴染みに恋人が出来た、と告げられたのはつい先程だ。その直後に恋人と対面することになるなど予想出来るわけがない。慌てない人は居ないだろう。
恋人を紹介される幼馴染みとして適切な態度とはどのようなものだろうか。出会って直ぐに邪険にするわけにもいかない。
「紹介するね、彼氏の●●くん」
「あ、はじめ……」
心の準備が出来ていないが、椅子から立ち上がった優子の声で顔を上げる。挨拶を告げる筈だったが、その言葉は続きが出てこなかった。
優子が恋人だという人物は居らず、彼女は何もない空間に腕を絡ませいる。まるでそこにナニカが居るような素振りだ。彼女が呼んだ彼の名は、理解出来ない雑音として消える。先程まで感じていた胸の温かさが消え、全身を悪寒が包んだ。
「あれ? 如何したの?」
「……っ……」
挨拶が途切れたことに、彼女が不思議そうな声を上げた。私のことを気に掛ける様子に、彼女がまだ正常な部分があると僅か希望を感じる。これが悪戯やドッキリの類ならば、どんなに安心出来ることだろう。彼女に異常事態だと告げたいが、この寒さがそれを許さない。
喉が張り付いたように声が出ない、身体が凍り付いたように動かないのだ。
「ん? そうだね。いこうか」
「……っ、まっ……」
不意に、優子は何もない空間に微笑むと歩き出した。何時もの彼女なら私を置いて何処かに行かない。このまま、彼女をナニカと二人だけにするわけにいかない。気力を振り絞り、遠ざかる背中に掠れた声をかけた。口の中に鉄の味を感じながら、私は意識を手放した。
優子は翌日から、大学に来なかった。