第三話「静寂が覚める前に」
私にとっては太陽も月もない
朝も昼も夜もない、時間の概念さえも
まるで溶けない氷の中にいるように
そこだけが制止した時の中で外部から遮断されたような
身動きのできない世界で辛うじて生きている
そんな空想の中にいる
でも
そういうことを考えてしまう自分が何よりも”嫌いだった”
自分には関係ないと思っていたたくさんのこと
でも
生きるためには
今を変えていくためには
いつか、それらと向き合わなければならないことだけは分かっていた
*
第三話「静寂が覚める前に」
その日の朝が来ることを私も真美も、ドキドキしながら待ち望んできた。
私が海に行きたい気持ちを真美に伝え、お互いに決心を固めてから、目的地の砂浜までの道のりへの計画はほとんど真美が決めた。持ち物も、海までの道順も、当日のスケジュールも。私はほとんど真美のいうことに頷くだけで、気づけば真美に任せっきりになっていた。それだけ真美が真剣に考え抜いてくれた提案が、疑問の余地がないほどに私の希望通りであったともいえる。
当日の朝、日の入り前から準備が始まった。
寝静まり足音一つ聞こえない病院内、誰にも気づかれずにここを発つにはみんなが起きだす前にここを出発しなければならない。
もしも、途中で誰かに見つかってしまってはこの計画は実行できない。
「白のワンピース?」
私は真美に聞き返した。経験したことのない夜明け前の旅立ちに私の緊張はピークになっていた。
「うん、ハンガーの左から二番目に吊っておいてあるはずだから」
ひと足先に着替えを済ませた真美が私の着替えを手伝ってくれる。
真美が白のワンピースが郁恵には似合っているだなんて言うから、従うことにした。
目の見えない私にとって自分の記憶に依存するところが多い。例えば物をどこに置いたかもちゃんと覚えていないと、手探りで探すことになってしまう、これは本当に大変だ。あらかじめ決めたところに置かれていなければやりづらくて仕方ないのだ。
私は真美が取ってくれた白いワンピースに着替える。慣れていないと前と後ろを間違って着てしまったりするので焦りは禁物だ。
「変じゃない?」
着替え終わった私は真美に聞いた。人から私がどう映っているかは確かめようがない、後で後悔するより、多少恥ずかしくても聞いておくのが無難だ。
「綺麗よ、とっても似合ってるわ」
お世辞にしても、こう直球で褒められると恥ずかしかった。真美は本当に私の事を本気で応援してくれているということだろう。
「本当に、いつぶりかしら、外に出掛けるのなんて」
少なくともこの夏では初めて、この服を着るのだって約一年ぶりだ。外出用の服は外出する時しか着ないと決めているからこの服には気づけば一年も待たせてしまった。
「いいわよ、私が結んであげる」
私が自分で髪を結ぼうとするのを真美が制止する。
海は風が強いらしい。だからというわけではないけど、長い髪をしっかりと結んでおきたかった。私は真美に結ぶのを任せた。
髪を結んでもらっている間、近い距離の中で心音を通じてこの緊張が伝わってしまわないかと、心配になった。
「迷子になったら迷わず病院に電話するのよ」
真美が両手を私の肩にのせて真剣な口調で言った。
「分かってるわよ」
念押しする真美に私は頷いて、返事した。
昨日も言われたことだった。
大事なことだが気にしてばかりでは楽しみより不安が大きくなってしまうから、私はそれ以上考えたくなかった。
「それならいいけど。はい、出来上がり」
そう言って髪を結び終えた真美は私の手を握る。
他人同士なら肘を私の方が掴むのが普通だが、親友である真美相手なら私はこれでも気にならなかった。
すでに靴も履き終わった私は真美に導かれるように立ち上がった。
今日はこの手を信じよう、私は決意を固めた。
「さぁ、みんなが起床する前にいきましょう!」
「うん、真美、今日はよろしく!!」
お互い確かめ合うように気合を入れ直した。
私はもう一度右ポケットに携帯電話が入っているのを今一度確認して、それから長年を連れ添ってきた白杖を握った。
「本当にちゃんと目的地までたどり着けるの?」
出掛ける時になって、ちょっと不安になった私は真美に聞いた。
「大丈夫よ、決めたルート通りに行けばちゃんと着けるわよ」
そう話し終えた私たちは、みんなを起こさないようにゆっくりと病室を出た。
*
この日までに真美が計画した病院の職員に見つからないためのルートを通って病院内を歩いていく。
静まり返った病院内では足音さえ大きくフロアに響き渡って、気づかれまいと思えば思うほど忍び足になって時間がかかり、緊張感が溢れてくる。
時間は限られている、私はそのことを忘れないように胸に刻んで、ブロック床と白杖を頼りに一歩一歩確実に、焦らない様に歩いていく。
「非常階段を通っていくよ、郁恵、気を付けて」
「うん・・・」
重い扉を開いた先にある病院内の非常階段、エレベーターでの移動が当たり前の病院において、この階段を使う人ははほとんどいない。ここを通っていけばおそらく誰にも気づかれずに一階まで行けるだろう。
私は真美の肘を掴み、白杖を頼りに慎重に階段を一段一段下っていく。
一階までは時間がかかるが、焦る気持ちを抑えてなんとか歩いていく。
私自身体力がある方ではないが、長時間歩けないわけではない。それは真美も同じようで、息を切らす様子はなく足取りはまるで変わらない様子だった。
階段を降り、一階のフロアを誰にも気づかれることなく進み、裏口から私たちは外に出た。
見つかって非常ブザーでも鳴らされたらどうしようなんて考えていたけど、杞憂だった。
外の世界に出ると、生暖かい温度の外気が身体を包む。
まだ日が出ていないとはいえ、夏真っ盛りのこの時期は朝方でも生ぬるく蒸し蒸しとしている。
「はぁ・・・、緊張した・・・。本当に誰にも気づかれてないよね?」
私は外に出られた安堵と共に、不安になって真美に聞いた。実際こんなにうまくいくとは思わなかった。
「大丈夫よ、ワクワクしてきたでしょ? さぁいきましょう」
私は「うん」と頷いて、真美の言葉を信じて先へ進むことにした。
この時間だとバスもタクシーもない、駅までは徒歩で行かなければならない。それは私にとって簡単なことではない。
初めての場所へ行く、初めての場所を歩くということはそれだけで大変なことだ。慣れた場所なら歩いた距離で大体どの辺りか分かるので、道が間違っていればすぐに分かるし迷って混乱したりもしない。
もちろんまったくリスクがないわけでもない、視えないということはどうしようもない事故だってある。歩きスマホをする人にぶつかることやブロック床に無造作に置かれた自転車に妨害されたり、自分ではどうしようもない事故はある。
でも、少なくとも知らない道を歩くのに比べればマシだ。
横断歩道にしても、あらかじめここは音が鳴る横断歩道だと知っていれば安心して渡ることが出来る。そういったことも含めて初めて歩く道だと探り探り歩くことになる。危険は常にあると心に刻んでおかなければならない。
初めて歩く道はあらかじめ目的地まで徒歩何分かといった情報が大事になる。それに従って行き過ぎないようすることが重要だ。
駅まではゆっくりと歩いても5分ほどで到着する。元々多くの人が通ることが想定されている場合はしっかりと順序に沿ったブロック床が置かれ、歩道も舗装されて狭くもなく、突然自転車と交錯したりもしないので比較的に楽だ。それに今は朝早い時間だから人通りも少なくて、人とぶつかる可能性も低くて好都合だった。
特に問題が起こることもなく駅に辿り着いて改札をICカードを使って通る。
電車を待っている時間はとても緊張する。周りの様子が分からないだけに、ちゃんと乗れるのか、本当に久々の外出で緊張しっぱなしだ。
朝の少し冷たい風を受けながら、アナウンスの声に耳を傾けたり、向かい側の線路を電車が通り過ぎる音と風を感じたり、普段は感じることのない感覚に、身体は過敏に意識を高ぶらせる。
やがて電車が到着し、繋がれた手に導かれるように私は電車に乗車した。
普段、一人で乗る時などはどこの座席が空いているか分からないので扉の傍で立って目的地まで待っているけど、今は真美がいるので空いている座席にすぐに座ることが出来た。
「緊張してる?」
真美は座って、ようやく落ち着いたところで私に聞いた。
「えっ、真美も?」
普段と同じように平気そうな真美に私は聞いた。
「うん、やっぱりドキドキする。こうしているとどこに連れていかれるんだろうって思っちゃったりするのよね、だって電車って自分の足で歩いているわけじゃないじゃない」
それもそうだ、それに目の見えない私にとっては、アナウンスの声と扉が開いて閉まる回数だけが頼りだ。
さすがにこの駅からこの駅までは何分くらいとか、そんな詳しいことまでは把握していない。
当たり前の事であっても信じた通りうまく行かないと、どうしようもなくなってしまう。頼りにできる情報の少ない自分はとても脆弱な存在だろう。
「ねぇ、真美。どうして私を連れだしてくれたの?」
今更だと思われるかもしれないけれど、私はずっと疑問に思っていたことを真美に聞いた。
退屈していたわけじゃない、ずっと列車に揺られているだけでドキドキしていたから。何か会話をしておきたい気持ちでいっぱいだった。
それに・・・、どうしてか、今聞いておかないといけない気がした。
「なんとなくよ、ちょっと退屈してたから」
真美は素っ気なくそう答えた。でもどこか憂いを帯びた声色に私には聞こえた。
真美には本音では違う、私には計り知れない考えがあるのだろうか・・・、とは思ってもいくら考えたところでその答えは分かりそうになかった。
この日を迎えるまでに駅の名前は全部覚えていた。
自分の記憶とアナウンスの音声が合っていることを一駅着くたびに確認して安心感を覚えながら、列車は一駅一駅、目的地へと近づいていく。
私は胸が熱くなった。早朝であるのに眠気もない。
退屈な日々を溶かすように、やり過ごすように、海岸までの道順を覚えて今日この時まで準備を続けてきた。人間目的があれば自然と頑張れてしまえるものなのかもしれない。
何回か乗り換えて、段々と空気が変わっていくのを、それだけの旅路をめぐってきたのだと思いながら、昼前には列車の改札を抜けてバスに乗り換えた。
「ここのバス、一時間に一本しかないんだって」
そう真美に言われて思わず私は笑ってしまった。とんてもない田舎までやってきたものだ。
「それは乗り過ごしちゃったら大変ね」
「本当、ここで暮らす人たちは私たちの知らない苦労をずっとしてきたのね」
「でも、ここのバス停に座ってずっと日向ぼっこするのもいいかも」
「郁恵はのんびり屋さんね」
「そうかな?」
「でも、それくらいの方がいいのかもね。焦って何かをしようとしても、うまくいくとは限らないし」
ちょっとだけ情緒的なやり取りだなと思った。真美にはそういう事があったのかもしれない。それだけ私たちは遠いところまで来てしまったことを実感していた。
バスに乗り込んだが、客人は私たちだけみたいだ。
「目的地に着いたらピンポン鳴らさないといけないのかな?」
バスに乗るのなんて久々だ、なんだか不安になって来たので私は真美に聞いた。
「降りるところは終点だから、鳴らさなくても平気よ」
そういえばそうだった。そんなことを打ち合わせの時にも話した気がする。緊張やら焦りですっかり頭から抜けていた。
バスが舗装された道路を走る。よく揺れる車内で酔わないようにするので必死だった。
「もうすぐだね」
やがて訪れる旅の終着を告げるように、真美はそう言って私の手を握った。それだけで私には真美が”ここにちゃんといるよ”と伝えてくれているような安心感があった。
このお話を書きながら、その昔やった片岡ともさん脚本のナルキッソスのことを思い出していました。
とても懐かしいノベルゲームですが、ナルキッソスの最初のボイスなしをプレイした時の衝撃は今でも覚えています。
その後、ボイスありでまた違った印象を持ったナルキッソスと出会い、Side2ndでは登場人物の掘り下げがあって、その過去に深い感傷を抱いたのを覚えています。
今回の物語で私は、私なりに伝えたい、伝えるべきメッセージを引き下げて、どううまく書き記すのがいいのか、その都度考えながら書いていきました。
後のお話からまた遡ってこの辺りの話を読んでいくと、また違った景色が見えてくる、そんな仕掛けを用意しています。
長い作品ではありませんが、その辺りも楽しんでもらえればいいなと思っています。
それでは第四話に続きます!!