行き先と触れ合い
時刻は14時20分。扉の向こうで玄関の施錠が出来た音を確認した。
目線を下げると見える、飯塚さん…もとい友梨ちゃんの助言の元に整えた服がなんとなく気恥ずかしい。
マオカラーの白のスキッパーブラウスはカーキのワイドパンツにインしてウエストのリボンを結んだ。その上にゆったりとしたアイボリーのニットカーディガンを羽織り、パンプスは歩くことを考慮して少し低めのヒールを選んだ。オフホワイトのショルダーバッグに鍵を戻して深く吸った息を吐き出してからエレベーターに向かう。
一昨日、友梨ちゃんとの会話が盛り上がりすぎて、もういっそ私の服を見ながら選んで貰おうと我が家に来てもらい、チェスト内の然程多くもない中からコーディネートしてくれたこの格好。奏太や私の話をしながら、折角だから夕飯を食べていって貰おうと思ったのだけれど、もうすぐ奏太も来るよと伝えたら「さすがに心の準備が出来てない無理!」と慌てて帰宅してしまった。今度改めて何かお礼をしようと思う。
入り込んだ箱がどんどん階数を下げて一階に辿り着いた。エントランスを抜けて周りを伺うと人影に気付いたらしい相手が軽く手を振ってくれた。その傍らには見慣れないものが。
「如月さん、おはようございます」
「おはようございます……今日は車なんですか?」
歩道沿いに駐車された黒の軽自動車。すぐ隣に立っているあたり、恐らく新堂さんが乗ってきたものだろう。
「ちょっと格好悪いことにレンタカーですけどね。どうぞ、乗ってください」
「失礼します…」
助手席のドアを開かれ、おずおずと乗り込んだ。自分で運転できることもあり、誰かの助手席に座るなんてかなり久々だ。
エンジンが掛かったままの車内ではなんだか聞き慣れた音楽が流れている。座席に着いてシートベルトを締めると、運転席側の扉が開き隣に並んだ。
「これ…この間のレッスンの時の録音ですか?」
「え?っあ…あー…そうです…ちょっとでも何か改善できればな、と…しまったな、如月さんが来る前に変えるつもりが…」
言いながらBluetoothで繋いでいたらしい携帯型の音楽プレイヤーを操作すると音が止んだ。
「別に流したままでも構いませんよ?」
「や…こんなとこでも聴いてるなんてどれだけ必死なんだって感じじゃないですか、先生の前でってのもさすがに恥ずかしいですし」
バツが悪そうに手元を操作しながら曲を変える様がなんだか。
「あ、笑いましたね…」
「すみません、なんだか可愛くて」
クスクスと思わず漏れた笑いに、わざとらしく不満げな声が返ってきた。ハンドルに前のめりに上半身を預けながら向けられたその頬が少し赤い。
「……俺なんかより、今日の如月さんのほうがよっぽど可愛いです」
一瞬、何を言われたのか頭に入ってこなかった。少し上目遣いに見つめるその眼差しと交差してしまった。
「──は」
「いつものパンツスタイルも先生って感じで格好良くていいですけど、今日は服も髪型もめちゃくちゃ似合ってて凄く可愛い」
本職の授業の時は大体スラックスにトップス、それに今の時期はカーディガンやジャケットと言うどこか事務職のような格好で、そのままの流れでレッスンに向かうことが殆どだ。レッスンだけの日にはもっとラフにTシャツなんて時もある。それに比べれば確かに着飾っている部類だとは思うものの。アドバイスをくれたのがプロのメイクさんと言うこともありヘアアレンジやメイクも非常に参考にさせて貰いました。
そうだ、この人のこの攻撃力を忘れていた。全く、営業トークも大概にして頂きたい。ふ、と薄く微笑んだ口許をもう見ていられずバッと俯いた。今度は私が笑われる番になってしまった。
「とっところで!今日はどこに行く予定なんですか!?」
あからさまでも不自然でもとにかく話題を変えたくてここ数日の疑問を口にしたら叫ぶような音量になった。
「え、あれ…お伝えしてませんでしたっけ?」
何となく先程の雰囲気が消えた気がしてそろりと頭を戻した先で、猫のように丸くなった目が驚きと困惑を示している。頷いて肯定を返すと考えを巡らせ視線が上を泳ぎだした。
「うわホントだ言って、ないな…どんだけテンパってたんだよ俺…」
いつかのように手のひらで額を覆い呟いたそれは全部は聞こえなかった。
「すみません、すごいグダグダですね俺……」
ため息を漏らし、困ったように笑う。さっきみたいに攻められるよりもこっちの新堂さんのほうがずっと安心する。
「じゃあ…折角なんで行き先はお楽しみってことで」
気に入ってくれると良いんですけど。と笑って。
何だろう、この醸し出されるくすぐったい程のデート感は。
サイドブレーキを解除し踏まれたアクセルは緩やかで、やっぱり車の運転て性格が出るよなぁなんて、現実逃避のように考えていた。
少しのドライブの後に辿り着いた、予てよりの疑問の、お楽しみと伏せられてしまったその場所は。
「………っ!!」
天国?と思わず呟いたら、新堂さんが隣で軽く吹き出した。でもそんなことも気にならない。引っ越してから一度は行きたいと思いながら足を踏み入れたことのなかったここは。
ガラスの扉越しに、みゃう、と耳に心地好い声があちこちから聞こえてくる。定番の土鍋で丸くなっている子が見える。壁に備え付けられた足場を軽やかに登っていく足音さえ愛しい。
「ご実家で猫を飼ってるって奏太が言っていたので好きかなと思ったんですけど…予想以上に喜んでもらえてよかったです」
私は今、猫カフェと呼ばれる空間でときめきにうち震えていた。
「めちゃくちゃ嬉しいです…!えっこの子達触って良いんですか!?」
「大丈夫ですよ~、でも無理やり抱っこは止めてあげてくださいね」
店員さんからいくつかの説明を受けて、幸せ空間の敷居を跨いだ。
指定されたロッカーに、荷物と一緒に着ていたカーディガンを仕舞う。爪が引っ掛かって猫が怪我をしたら大変だ。カメラ代わりのスマホを手にしゃがみこんだ。
予約制なのか他のお客さんは数える程度で、猫たちがまばらに寛いでいる。そんなに簡単に近寄ってこないのは分かっているので、中に入る前にあらかじめ武器を調達しておいた。
「うわ、めちゃくちゃ寄ってくるんですね、おやつの威力すごい」
「猫さんはこれ好きですからね、あはは待って待ってまだあるから急がないで」
夢中になって食べている一匹の背をそっと撫でたら、懐かしさのあまり感動してしまった。しばらく会っていないけれどラックは元気だろうか。
和やかな気持ちで愛でていたら、突然肩に何かが降った来た。
「え」
「俺のですみません、嫌じゃなければ着ていて下さい」
「あ…ありがとうございます」
掛けられたのは新堂さんがさっきまで羽織っていたシャツだった。薄着になったのを気にしてくれたのだろう。
まだ体温の残るそれにドキマギしている間に、食べるものがなくって猫たちは案の定散らばってしまった。
暖房が効いているとはいえ少し心許なかったのでありがたく袖を通させて貰うと、背の高い新堂さんのものはやはり大きくて指先も出なかった。
気恥ずかしさを誤魔化すように、先程一目惚れしてしまった茶トラの子に袖口を折り込みながら近付いた。
ちょっとご年配なのか、すでにぷうぷうと鼻を鳴らしながら眠っている。そっと顎のラインを撫でたらコテンと首を擦り寄せてきて一人身悶えた。
と、そういえば一人で楽しんでしまっているけれど新堂さんは。
ハッとして辺りを見渡せば、床に胡座をかいたその膝で大きめの猫が丸まっていた。額を撫でるその顔が優しくて少しぼうっと眺めてしまって、私の手が止まっていたのか尻尾で催促されて慌てて目を逸らした。
「はぁ…可愛かったです…」
あっという間の一時間を終えて、コインパーキングまで歩きながら余韻を噛み締めていた。
「これは通ってしまう人の気持ちがよく分かりますね…ああでもうちの子に怒られちゃいそうです」
にやける顔を抑えられないままでいると、そうですね、と肯定が返ってくる。
「連れてきて下さってありがとうございました、私一人で楽しんじゃって…新堂さんはつまらなくなかったですか?」
「俺も動物は好きですし、猫も可愛かったですし、十分楽しみましたよ。ああでも…猫に向ける自然な笑顔が可愛くてちょっと悔しかったな」
「は?」
「あ、鍵開けて入ってて貰って良いですか?精算してきます」
もう間近に見える車のキーを手渡され、思わず新堂さんと手のひらを2度見比べてしまった。
とりあえず言われた通りに車に向かい、運転席側からエンジンを掛けて助手席に座る。サービスが過ぎる言葉にちょっとだけ頭を抱えていたら反対側のドアが開いた。
「お待たせしました。エンジン掛けておいてくれたんですね、ありがとうございます」
時刻は現在16時過ぎ。夕食にはまだ早いし中途半端な時間だ。新堂さんも同じことを考えていたのだろう。
「食事にはまだ早いですしちょっと連れていきたい喫茶店があるんですけど如月さん珈琲好きですか?」
動き出した車体の向かう方向は明確なようだった。