足元が覚束ない
「責任を取る」なんて、言われる機会はそうそう無いとは思うけれど、しかしながら私は実際にそれを聞いたことがこれまでに2度あるのだからおかしな話だ。尤も、一度目は私に宛てられたものではなかったけれど。
臨時的に舞い込んだ、歌唱指導という仕事を重ねること数回。初日から1ヶ月経った今、二度目を投げ掛けた相手とはその度に帰路を共にしていた。私の仕事柄、高校生相手だと平日の授業は放課後の時間帯なので、その後でのレッスンとなるとどうしても終わる頃にはすっかり夜と呼べる時間になってしまうのだ。こんな時間に一人で帰すわけにはいきませんから、との笑顔を添えて彼はまた隣に並ぶ。
別にこの関係の名目に沿った何かをするわけでもなく、ただただ穏やかに世間話を交わしながら一緒に歩くだけ。
もういっそ恋人なんて名称にこだわる必要もないのでは?そう思う反面で、思い出すのはレッスン初日の別れ際の一件だ。
時間にして恐らく5秒もないはずなのに不意に見せられた"男性"が心の片隅に残っている。
一方で、その一瞬が幻かと思うほど新堂さんは優しい。
強引に距離を縮めることもなく、極めて紳士的に、私が意識的に作り出したラインを越えること無く、けれど傍にいる。私にしては珍しいことに緊張の中でどこか気を許してしまっている瞬間が確かにある。
「責任を取る」なんて、私が何より嫌いな言葉なのに。
本業である音楽教室での授業を終え、駅までの道をとぼとぼと歩く。無意識に漏れたため息はもう何度目だろう。
明日から各個人でのレッスンに切り替わる。最初は…新堂さんだ。別に構える必要はない。私は私の仕事をすればいいだけ。分かっているのにどうにも落ち着かないのは、彼の真意が見えないからだ。
もう分かんない…小さく呟いたその時。
「あれ…如月さん?」
後ろから声を掛けてきた相手は。
「あ…中谷さん、お疲れ様です」
キャップを被り、マスクを着けたその目元が微笑んだ。
「よかった、こんな格好だから気付かれなかったら不審者まっしぐらでした」
「中谷さんも特徴的な声ですから、まず音で分かりますよ」
「ああなるほど、流石ですね。声で分かる、ならまだしも、音で分かるって言うのは如月さんくらいですよ。如月さんも仕事帰りですか?」
はい、と肯定を返し、中途半端に振り返っていた身体ごと向き直る。如月さんも、と言うことは中谷さんも仕事だったのだろう。声優さんもインターネットで調べればすぐに顔が出てくる時代だし、多少の変装?は必要なようだ。
「ご自宅はこの辺りなんですか?」
「いえ、これから電車で帰ります」
「じゃあ駅までご一緒していいですか?」
え、と見上げたその目線が新堂さんより少し低い、なんて。不意によぎったそれに戸惑った。まだ1ヶ月、その間に新堂さんを見上げる角度を記憶するほどに近くにいたと言うことなのか。そもそも何を比べているんだ。
「このまま別れても送っても匠馬に恨まれそうですけど」
心に思い浮かべてしまった人を正しく話題に持ち上げられ、イタズラっぽい笑顔にどう返せばいいのかわからない。
動揺を隠すように乾いた笑いで応え、進行方向に右足を踏み出す。
「…中谷さんも電車ですか?」
「いえ、俺はこの駅の反対側に家があるんで。こっち側のスーパーの方が安いんですよね。だから帰りに買い物に寄ることが多いんです」
そういえば、手に提げられているのはエコバッグだ。マジックテープ式の蓋がされていて中身を伺い知ることは出来ないけれど膨らみ具合からお総菜の類いではなく野菜等の食材のように見える。
「お料理されるんですか?」
「まあ、簡単なものばっかりですけど。結構作るのが好きなんですよ」
今のところ料理をするような企画はまだ来ていないとのことだったけれど、このイケメンさんがお料理もできるとなれば、本当に世の女子は放っておけないだろうな。
少しだけ経年を感じる駅舎の明かりを近くに浴びながら、じゃあここでと頭を上げたその時、立ち止まり、遮るように言葉が落ちた。
「………匠馬、困らせてしまっていますか?」
「え…」
すみません。少しばかり気まずそうなそれ。
どうやら私が話を逸らしたのは分かりやすくバレバレだったらしい。真剣に見つめられて、その視線に耐えかねて俯いた。
「………困らせて、というか…どうすればいいのか分からなくて」
あの日の傷なんてとっくに治っている。うっすらと赤く残る線はファンデーションで消えるし、背中なんて自ら晒さない限り他人にはおろか自分にも見えない。
優しくされるのが後ろめたく思えて、明日からのマンツーマンでのレッスンでまたあの穏やかな眼差しを向けられるのが心苦しい。この不毛な関係を終わらせればいいのだろうけれど、彼が納得できるだけの理由をまだ探せていない。
「アイツも馬鹿みたいに真面目だからな…」
ふぅ、と一つため息を溢して。
「主導権は如月さんにあるんですから、好きに振り回してやったらいいんですよ。如月さんが我儘を言おうが迷惑を掛けようが、それを望んだのはアイツなんですからそれに文句でも言ってくるようなら教えてください。俺が制裁を加えておきますから」
「いや、そんな」
「その上で如月さんが匠馬のことを迷惑だって思うなら、俺と新と奏太、3人掛かりででも何とかしますよ。だから如月さんは堂々と偉そうにしていてください」
心強い言葉で励ましを貰っているはずなのに、眉を下げたままでしか笑みを現せなかった。
そして、翌日。
「今の跳躍して下りてきた音が少し揺れますね。ちょっとだけ意識して歌ってみてくれますか?」
昨日の中谷さんとの会話を消化しきれないまま、平常心と唱えながら基礎練習を済ませ、曲はひとまず脇に置いて発声を行う。普段の喋り声と歌声とでは響き方が異なるそれは、どちらにせよやはり耳心地がいい。
「揺れるって言うのはどういう…」
「本来の音より着地点が少し低いんですが、すぐにご自身で調整しているのでそれが逆に不自然に上がったように聞こえてしまうんです。鳴っている音をよく聴いて、もう一度いきましょう」
「分かりました。宜しくお願いします」
最初のレッスンでも思った通り、新堂さんは耳がいいのか勘がいいのか、こちらの意図をよく理解してわりと難なく調整してくれる。録音した声と音を比較すればその差を飲み込んでくれる。生徒として非常に優秀だ。
生徒としての時間はちゃんと教わる姿勢を向けてくれるから、私も変に構えずに済む。こうやってハーモニーディレクターの鍵盤を叩いていれば落ち着いていられる。
調を変え、パターンを変え、発声を終えると今度は本題だ。音源とは違うチューニングで伴奏を奏でることで耳を鍛えていく。時折恐る恐る私の声も交えて歌っていれば一時間半なんてあっという間で。
「では、今日もお疲れ様でした」
「ありがとうございました!」
綺麗な礼と挨拶を皮切りにして、私にとっての試練はここから始まるのだ。
パイプ椅子は折り畳み壁際に立て掛ける。広げていた楽譜をひとまとめにしてお気に入りのクリアファイルに仕舞って、譜面台を元あった位置に寄せた。長机の脚を畳んで移動させていた新堂さんも身支度を終えたらしい。
コートを羽織り、楽譜を片手に肩に掛けたバッグから薄手のストールを取り出したところで、さっきまでとは異なる柔らかな瞳と交わってしまった。なんとも言えないその居心地の悪さを拭いさろうにも、その原因は容赦なく私に甘さを降り注いでくるのだ。
「如月さん、よかったら次の休みに2人でどこか出掛けませんか?」
優しさから一つ踏み込んだその台詞に、手にしていた楽譜の束がファイルから抜け落ち床にばらまかれた。
「えっ、ああ!」
慌ててしゃがみこむと、それに倣い新堂さんも楽譜を拾い始めた。手を伸ばした先の最後の一枚を、私よりも大きい手が同じように摘まみ上げる。決して私には触れないように、数cmだけ離れて。
「やっぱりみんな一緒の方がいいですかね?」
「いえ…えっと……っ」
額がぶつかってしまいそうな距離にじわじわと顔が染まっていくのが分かる。こんなのもう身が持たないと逃げるように立ち上がるとそのまま追いかけてくるのは昨日感じた、覚えてしまった目線だ。にこりと少し細められたその目。
「俺とデート、してくれますか?」
頬が熱いのは意図的に塗り変えられた雰囲気に飲まれたせいだと自分に言い訳をしながら、それを誤魔化すように小さく頷いてしまった。