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夜の帰り道







「そうだ、せんせーはアノニムって知ってます?」


机に並べられたお皿のほとんどが空いて、そろそろいいほろ酔い加減でお茶に切り替えようと思っていた矢先、そんなふわふわした状態を吹っ飛ばしてくれたのは神田さんの一言だった。飲み物を含んでいたら惨事を起こしていたに違いない。


「…アノニム、ですか」


「ネットで有名な正体不明の歌手なんですけどねー、俺めっちゃファンなんです。あんな風に歌えたらなぁ」


お酒が回っているのか間延びした口調で落とされた爆弾に、回答に窮してしまう。

そう言えば誰かアノニムのファンがいるとは聞いていた気がする。神田さんだったのか。知ってると言うか本人ですがそんなこと口が裂けても言えない。奏太が笑いを堪えているのが見える。アンタだって無関係じゃないでしょうが!


「ああ、新は結構ずっと追いかけてるよな」


「そうなんですよぉーこないだ出したバラードとかめっちゃ綺麗でエンドレスでリピートですよマジで。早くCD出ねぇかな。ねえせんせー俺もアノニムみたいになれます?」


居たたまれない、非常に。照れればいいのか青ざめればいいのか、どちらかとう言うと今は後者だけれど。


「えっと…一応聴いたことはありますけど、流してただけなのでなんとも言えませんが…私は神田さんのちょっと癖のある歌い方いいと思いますよ?」


作っている途中で確認することはあっても完成したものを自分で聴くなんて数える程度だから嘘は言っていない。


「せんせ、やさしー。でもなぁアノニム好きなんだよなーあんな歌俺もほしいよなぁ早くCD出ねぇかなあ」


もはや独り言のように、机に突っ伏しながら呟いているそれに、焦りを通り越して心配になってくる。いよいよ酔いも深まってきているのではないだろうか?お水でも頼もうと思っても注文用のタッチパネルが遠い。


「新堂さん、あの…」


「え、」


「明日も皆さんお仕事ですよね?神田さんにお水をお渡ししたいんですが、注文をお願いしてもいいでしょうか?」


見上げた先で何故か新堂さんが少し固まったように見えた。

声を掛けた時に腕に触れてしまったのが馴れ馴れしかっただろうか。


「水…ですね。如月さんもいりますか?」


「あ、じゃあお願いします」


「分かりました。水とか頼みますけど欲しい人ー」


向かいのメンバーにも聞いてくれるあたり気が利く方だ。奏太は私と違ってザルなのでケロッとしているけれど、欲しいっす!と手が上がった。中谷さんもまた「俺もいる」と一言。


「…結構いい時間だしな、新もこんなだし一息吐いたらそろそろお開きにするか」


「ですね」








斯くして、お店側が忙しい時間帯だったこともあり、水が届くまでの間で神田さんが沈没してしまった。声を掛けても身体を揺すっても目を覚ます気配がないので、罰ゲームと称して中谷さんにお姫様抱っこをされた写真をこれでもかと撮られていた。次回のレッスンでは弄られまくっていることだろう。合掌。

ひとふざけして。個室から出て各々靴を履きながら、中谷さんが神田さんの腕を抱える。


「タクシーに放り込んでも起きなそうだし家まで付き合うか…奏太手伝って」


「了解っす。てことで匠馬さん、コイツのこと頼んでいいですか?」


滅多なことを言い出した人物は確か同じ建物に帰るはずなのだけれど。頼まれた相手はにこやかに了承の意を示していた。


「ちょ…っ、奏太」

「風歌ちょっと」


何を言い出すんだと発した声は見事に重なって掻き消される。出入口までの歩みを止められて、中谷さん新堂さんと少し距離を取られた。


「よく聞けよ。俺がここに来る前に匠馬さんに聞かれたのは2つ。お前の酒の許容量と家までの時間な」


「は?」


一瞬なんの話をされているのか分からなかった。


「そこそこ弱いことと、家までは徒歩圏内って伝えてあるから」


確かにそんなに強くはないけれど、足取りが不安なほどに飲むつもりもないし、その辺のペース配分は心得ている。奏太だってそれくらい知っているだろう。

というかどんな個人情報を漏らしているんだ。


「言っておくけど匠馬さん普通に酒飲めるからな。俺と同じマンションに住んでるのは知らないし、今日お茶だったのは確実にお前のためだと思う」


「え…」


「おとなしく送られとけ。で、今日の非礼を死ぬほど詫びろ。せめて茶でももてなしておけよ」


──ま、多分家には入らないと思うけど。


最後の呟きは私の耳に届くことはなかった。


















奏太と話している間にさっさとお会計まで済まされていて、こういうのは年上に出させておいて下さい、と私が出した財布は開かせてもくれなかった。中谷さんと新堂さんで支払ってくれたらしい。そうして隣でアスファルトの道を進む人に申し訳なさしか湧いてこない。

徒歩圏内と言えど私の家までは歩いて20分は掛かる。最寄駅は呑んでいた店付近の駅よりまだ近くにあるけれど、乗り換えや電車の待ち時間を考えると歩いた方が断然早いのだ。


「すみません新堂さん、無駄に歩かせてしまって…帰りが遠回りになるんじゃありませんか?」


「いえいえ、店のなか暖房で暑いくらいでしたし、風も気持ちよくていい散歩ですよ。それに俺も方向は一緒です」


嘘ではないのだろうけれど、これが優しさと気遣いの賜物だと分からないはずもなく。私のせいでお酒も我慢させていたようだし、奏太の言う通り何かしらお詫びがないと気が咎めて仕方ない。


「次からは奏太に押し付けてくださいね、同じマンションに住んでるので辿り着く場所は一緒ですし」


「同じマンションって、一緒に住んでるんですか?」


「いえ、二つ隣の部屋です。似たような条件で探していたら偶然同じ物件を選んでいたみたいで」


先に釘を刺しておかないと奏太はこの関係に乗じて新堂さんに任せっぱなしになってしまうだろう。このレッスンが終わるまで半年もないのであと何度こんな機会があるか分からないけれど、これで新堂さんも私に気を遣うこと無く飲み会をエンジョイできると言うものだ。


と、不意に会話が途切れ右隣を見上げると、頭一つ以上高い位置にあるその表情は何かを考えているようで。


「新堂さん?」


「奏太って…最近引っ越したりしてないですよね?」


「え?はい、ここ数年はずっと同じところですけど」


「なら俺も目的地はほぼ一緒です」


「と言うと…」


「俺、奏太と同じマンションの隣の棟に住んでるんですよ。あそこ、駅からは遠いですけどその分結構家賃は安いし、部屋としての条件はいいから若手の同業者とか結構いますよ」


わりと広めの1LDK。そこそこ陽当たりもよく、しっかりとした防音がなされていて窓を締めきっていれば隣人の生活音さえ滅多に聞こえない。難点はどの路線の駅からもやや遠いことだ。バスもなく車や自転車がなければ少々不便な立地だけれど、そのお陰で学生や若年層の一人暮らしに嬉しい良心価格。


奏太が専門学校を卒業して家を出るタイミングで、私も録音機材なんかに溢れた自室をどうにかしたくて一人暮らしを始めた。まあすぐ近くに見慣れた顔がいたのは想定外だったけれど。

以前から結構人気があるらしく、築年数は長くないにも関わらず隣に2号館が建設されたのは私が入居する一年前のこと。


奏太のヤツ…新堂さんの自宅は絶対に知っていたはずだ。初めから気兼ね無く新堂さんに押し付けるつもりでいたのだろう。


うちの馬鹿が図々しく本当にすみません。これからは遠慮無くあの馬鹿にふざけんなって言ってやってください…!


「なら、これからも如月さんを送るのは奏太じゃなくて俺に任せてください」


いつも帰り着く建物をそろそろ視界に捕えながら、そう口に出したつもりが、その前に真逆な言葉が降ってきた。


「同じ場所なら如月さんも気にならないでしょう?」


「え…、でも、ご面倒をお掛けするわけには…」


「俺がそうしたいんです。奏太にも任せたくない」


歩いていた足が止まり、つられて私も立ち止まる。 あともう数歩でマンションの敷地内で、その明かりに照らされた真剣な表情がにこりと緩んだ。


「今日はありがとうございました、ここまでで大丈夫ですか?」


「あ…」


ふと来た道を振り返れば新堂さんの部屋がある棟は通りすぎて、わざわざこちら側の棟の入口に程近いところまで来てくれていた。

今日は本当に何一つ、この人に報えていない。


「あ、の…!よかったらお茶、とか…」


「え?」


「いえあの諸々のお詫びも兼ねてその、大したものはお出しできないですけどご迷惑でなければ、なんて」


ただ責任感からこれほどに手を煩わせておいて、大した持て成しも出来ないくせに。

早口に言いきって、楽譜の入ったトートバッグのストラップを握りしめ、数秒。反応がない。

チラリと頭を上げると、その目線の先では手のひらを額に当てて固まっている人が。


「あの…?」


「……いえ、気持ちはとても嬉しいですが、今日は遠慮しておきます」


ふーーー、と細い息を吐いて落とされた手のひら。交わった眼差しがどこか厳しい。どうしよう、この期に及んで何か不快にさせてしまっただろうか。


「…好きでもない男を、こんな時間に部屋に誘ったら駄目ですよ。こうやって、」


何の警戒もない手を、私よりも遥かに大きいそれが掴み軽く引っ張るように力を込める。踏鞴を踏んでよろけた肩をもう一方が支えた。


「俺みたいに良からぬことを考えるヤツもいるんですから」


触れていたのはほんの一瞬で、パッと解放された時には既に距離が出来ていた。


「ほら、風が出てきて冷えますしエントランスに入って。今日は如月さんも疲れたでしょうしゆっくり休んで下さい」


「え、あ…はい…」


何が起こったのか咀嚼しきれず、呆然と促されるままに建物に足を踏み入れる。


「おやすみなさい、また次のレッスンも宜しくお願いします」


後ろ姿を眺めながら呟いた。


「なに、いまの…?」








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