転機
「風歌お前…せめてもうちょっと話を聞いてやれよ…」
「それ以前にそもそも俺ら初めましてなんだからそりゃ断られる結果しか見えねぇっつの落ち着け匠馬」
呆れた声が2つ続いた。
そうだ、メンバーは4人。新堂さんに気をとられていたけれどその向こうには三人とマネージャーさん二人、私の後ろの飯塚さん。この妙なやりとりをどんな心境で見守っていたのか。意味もなく恥ずかしいのは恐らく私だけではないはずだ。
「とりあえずまずは自己紹介しなさい。はいどーぞ」
中谷さんに背を押され、一歩前に出てきたのはまずは渦中の人。
「なんかもう色々すみません…新堂匠馬です……」
なかなかに整った顔には目に見えてしょんぼりと書かれているようだ。頭には大型犬の垂れ耳さえ見える気がする。ゴールデンレトリーバー的な。身長で言うなら一番高い新堂さんがなぜか小さい。
「うちの馬鹿がすみません、中谷義正です。よろしくお願いします」
中谷さんは優しげな雰囲気のイケメンさんだ。確か新堂さんと同じ事務所と聞いた気がする。しっかり者のお兄さんポジションと言ったところか。
「神田新、23歳です!よろしくお願いします!」
元気ににっこり笑っての挨拶は恐らくわざとだろう。もだもだした空気を払拭しようとしているあたり空気が読めるタイプだろうか。三人と比べると小柄で可愛らしい、少し高めの少年ボイス。歳上のお姉さま方にモテそうな感じだ。23と言うことは一つ年下だ。
「如月奏太でーす」
いや、アンタはいいよ知ってるよ。
「……初めまして、そこの奏太の双子の姉の如月風歌です。明日からしばらく皆さんの歌のお手伝いをさせていただくことになっております。それでえっと…とりあえず新堂さん、お願いですから頭を上げてください」
微妙な空気を手を鳴らして一掃してくれたのは高野さんだった。お会いしてからずっとめちゃくちゃ頼りになるお姉さまです、ファンになりそう。ともあれ、ようやく関係者全員が揃ったところで改めて今後の打ち合わせを、と言う運びになった。私がいた控え室はどうやらスタッフ側のものだったらしく、横の部屋がキャストの楽屋だそうだ。自分の荷物を手に長机の並んだ隣へ移動し(新堂さんに荷物持ちます!と言われたけれど断固拒否した)、私と奏太、反対に残り三人という配置で向かい合っている。
まずは私が全員の歌う音を聴かなければ指導プランを立てられない。そもそも曲ありきのレッスンなので、明日はそれぞれ確認してきてもらった上で一度歌ってもらうことになった。
今、季節は初秋。春アニメなので、レコーディングまでの猶予はそれなりに確保できる。細かな調整は始まってみないと分からないけれど。
「そんなに気負わなくて大丈夫ですので、とりあえずフルコーラス歌えるようにしておいていただけるとありがたいです」
「分かりました、よろしくお願いします」
ひとまずの流れを確認し終えたところで、問題がまだ残っている。新堂さんは今私の顔を見る度に罪悪感を刺激されているに違いない。頬に貼られた絆創膏には、赤黒い染みが浮かんでいる。不織布部分の広い、正方形のそれ。今はもう出血も止まっているはずなので外してしまっても問題はないだろうけれど、傷口を見せるのもそれはそれで彼の良心を抉るだろう。大体はかすり傷程度だったので消毒だけで済んだものの、一ヶ所多少深いものが出来てしまっていた。先程の血迷った発言は恐らくこれのせいだ。反射で否定してしまったけれど、意味を図りかねるし結局決着していない。
「それでその、さっきの件なんですが…」
自分から話題にするのは躊躇われて我ながら分かりにくい言い方をしたと思ったけれど、そんな心配は杞憂で新堂さんの指がピクリと動いた。
「怪我の件も着替えの件もどう考えても事故なんですし、新堂さんが責任を感じられる必要はないです。特にスタンドライトなんか完全に不可抗力ですよ?私は現状なんの支障もないですし、本当に…」
「でも」
机の上で緩く丸められていた手のひらにぎゅっと力がこもった。真剣に見据えられて初めてまともに目を合わせた気がする。
「もし今後何らかの支障が出てきたとしても、如月さん何も言わないでしょう?」
「それは…多分何も出てこないと思いますし…」
今日の一件で負ったものなんて、些細な切り傷と打ち身で出来た痣くらいだ。転んだときに変な力が入っていて後日筋肉痛が現れるかもしれないけれど、それ以上が起こるとは思えない。
「その傷…照明なんて埃とか汚れとかであまり綺麗なものでもないですし化膿して熱が出たりしたら…」
「そうなったとしたって精々数日のものです」
きちんと処置はしていただいたし、そもそも可能性は少ないと思う。けれど万が一何かがあったとしても仕事に差し障りがなければ確かにわざわざ教えたりはしないだろう。
と言うかどれだけ深刻に考えているんだ。真面目か。
「背中の傷も一ヶ所ちょっと深いものがありますから注意してくださいね。新堂の言うことも尤もですし、頬もですけど、まだしばらく消毒した方がいいと思います」
「えっ」
「え…あぁ……」
後ろで控えていた高野さんの発言で、新堂さんが更に頭を抱えて項垂れた。自分でも気付いていないことだったので別に黙っていたわけではないことを言い訳させていただきたい。なんかいつまでもヒリヒリ痛むなとは思っていたけれど。
ご自身がマネジメントするタレントさんを余計にヘコませましたけどいいんですか高野さん。
「奏太に…無理を言って指導をお願いしたことは奏太に聞きました。でも打ち合わせをする限り真剣に取り組んで下さるつもりなことは分かります。それを…」
痛ましげに眉間に皺を寄せて、新堂さんは席を立った。そのまま机を回り私の元に歩いてくる。椅子に座ったまま見上げていたのは一瞬で、すぐ隣で身を落とされて目線が重なった。
「わざわざ来てもらっておきながら傷を作ってしまって、勝手な言い分に聞こえるかもしれないですけどこのままじゃ俺の気が済みません。もしも今付き合ってる人とか好きな人がいないなら俺のこと考えてみてくれませんか?」
どうしてそうなった。責任を取るなんて言い出したときから思っていたけれど一足飛びすぎないだろうか。女の顔に傷を付けたからそれがどうしたというんだ。多少目立つ場所かもしれないけれど大して痕には残らないだろうし、女には化粧でどうにかすると言う必殺技もある。何よりそれを理由に弾くような男ならこっちから願い下げだ。
「何なら最初は荷物持ちとかアシスタントとかからでも、好きに使ってくれていいですし」
「…これから生徒になる方に手伝ってもらってどうするんですか……」
それよりも、今正に絶賛売り出し中・人気上昇中のイケメン声優さんがこんなこと言い出しては駄目なのでは。最近の声優業界がもはやアイドル的な盛り上がりで人気を博しているのは奏太を見ているから知っている。後ろにマネージャーさんがいると言うのに大胆なことを。
さすがにストップが掛かるだろう。そう思っていた。
「新堂さん……結婚する気なら早めに発表してくださいね。人気が出すぎると大変なので」
「えぇ!?」
予想外の返答に叫んだのは私だ。嘘でしょ、肯定的なのは何故だ。しかも気が早すぎる。まだ何の関係性も生まれてませんが。新堂さんの返事は、了解です、と一言。いやいやいや、こんなことに人生賭けないで下さい。
「いいんじゃない?」
断ってしまっても納得してくれなそうな新堂さんにどう返せばいいのか分からない。そんな沈黙を破ったのは奏太だった。
「いい機会だと思うけど、風歌にとって」
その言葉の意味を正しく理解したのは私だけだ。
中谷さんと神田さんが小さく首を傾げているのを尻目に、新堂さんは相変わらず私を見つめていた。
「それにお前、匠馬さんの声めちゃくちゃ好みって言ってたじゃん。心置きなく囁いてもらえば?」
「ちょ…、はぁ!?いつそんな…っ」
「こないだ俺がモブで出てたアニメ見て連絡してきただろ、めちゃくちゃいい声で好きな音って」
確かにこの間、アノニムの曲の編集を終えてあとはラク太のイラスト待ちで、パソコンを触る手を止めて奏太が出ていたアニメをチェックはしていた。奏太がイラストをメールで送ってきて、その返信にそんなことを書いた気もする。あれは新堂さんだったのか。本人を目の前にして今ここでバラす必要はなかったと思うけれど。奏太この野郎あとで覚えとけ。
一瞬きょとんとしてから嬉しそうに微笑むイケメンの眼差しが痛い。
「この声で良ければ何でも言いますよ」
「すみません本当に勘弁してください…」
直接なんて羞恥で死ねる。好きな声の響きなのは確かだし。
「難しく考えなくていいんです。試してみて如月さんが違うと思うなら振ってくれればいいですし、これから知っていく機会はいくらでもあります。俺のことが嫌じゃないなら、どうですか?」
正直、不安要素は捨てるほどある。
けれどこれから何回で終わるか分からないレッスンで顔を合わせるのは確実だし、どちらに転んでも気まずい気分になるのは間違いない。なら、それで納得できるというのであれば。
「わかり、ました…よろしくお願いします」
何も考えずに流されてしまえばすべて収まってくれる。
………どうしてこうなった。