聞きたくない、聞きたい
ものすごい勢いで改札を抜けてきたその人は、息を乱しながら私たちの前に止まった。
「如月、さん…っ」
「他の人の迷惑になるから駅で全力疾走するんじゃねえよ」
少々強めに頭をはたかれて新堂さんの被っていたキャップか少しずれた。イテッと小さく聞こえた。
「少しは冷静になれたか?」
「すみません…ありがとうございます」
どこか必死な眼差しが、言いながら数秒伏せられて少し落ち着いた気がする。
「じゃあ俺はこれで。如月さん、容赦なくボロクソに言ってやって下さい、弁解の上で振られるならそれまでなんで遠慮なくどうぞ。匠馬は…まあ精々ガンバレ」
「もうちょっと希望のあること言ってくださいよ!」
新堂さんの抗議を受け流して、中谷さんは手を振りながら逆の出口へと抜けていった。そういえば反対側にご自宅があると言っていたっけ。
全く、と呟いてから脚がこちらへ向き直った。
「…今朝は無事に帰れましたか?」
私のことを見つめている気配はするけれど、目を合わせられずに泳がせるしか出来ない。
「多分道が分からないだろうって姉から聞いてたんで」
「あ、えと…すぐにタクシーを拾って帰ったので…」
「そうですか…ならよかった」
駅の蛍光灯に照らされて出来た影が動いて私の影と重なった。私より大きい手に掌を取られ、外気に冷やされた指先にじんわりと温度が伝ってくる。
「昨日のこと…俺は、了承してませんから。みっともなくても情けなくてももう何でもいい。ちゃんと話をさせて貰えませんか」
お願いします。
縋るような瞳に射貫かれて、観念する他に道が見つけられなかった。分かりました、と小さく答えて覚悟を決めた。
「ありがとうございます…落ち着いて話したいのでとりあえず移動しますね」
繋がれた手はそのままに、電車を待つ時間が惜しい、とタクシーで辿り着いた先は見慣れたマンションだった。しかも私が住んでいる方の棟だ。さすがに自宅に迎える準備は色んな意味で出来ていない。
「え、あの…」
狼狽えていたら、目の前にしたのは私の部屋を通りすぎた2つ目の扉だった。躊躇いなく鳴らされたインターフォン。応対したのは当然よく見知った人物で。
「無事捕まったんスね、うちに来たってことは全部バラすってことでいいんですか?」
「ああ、そのつもり。悪いけど証人ってことでよろしく」
ここに来た意味も会話の内容もさっぱり分からない。これから何が起こると言うのだろう。不安なままに奏太を呼ぶと、厳しい目に睨まれた。
「風歌お前、あんな去り方しておいて、やっと寄越した連絡が晩メシ自分でどうにかしろってそれだけかよふざけんな!もうちょっと何かあんだろうが馬鹿!」
「えっ、ご、ごめん」
「ったく…とりあえず中入って下さい」
促されるまま、ローテーブルの前に腰を下ろした。ここにきた回数はさほど多くはないけれど、見知ったレイアウトは相変わらずだ。
正方形のそれの隣の面に新堂さん。奏太は少し離れて胡座をかいている。
「まず確認したいのが…昨日の言葉は一昨日の俺と奏太と新の会話を聞いていたから…ですか?」
一昨日の会話…認めたくなかった自分の気持ちをはっきりと自覚させられた一連のそれ。あの時は私の存在に気付かれるようなことはなかったはずなのに。
「昨日控え室に来て下さった時に、新がレッスンを怖がってたってことを如月さん本人が知っているのにあれ?って思ったんです。そんな話、つい最近したなって…それがいつだったかを思い出したら…」
まさかあんな些細な会話でバレるなんて。動揺が顔に出てしまっていたのか、やっぱり、と呟いたのが分かった。
眉を寄せたまま、その視線が奏太を捉える。一度互いに頷き合って、整えるように細く息を吐き出して。
「……俺はずっと、如月さんの…アノニムのファンでした。アノニムと言う名前が付く前から」
「な……、は?」
予想もしなかったところから突然矢が飛んできて間抜けな声が口から漏れた。どうしてここでアノニムが出てくるのか、しかも私がそうだと断定されて。アノニムの名前がつく前から?
説明を求めて思わず奏太を見やる。
「あの2曲、俺は好きだったし素直に凄いって思った。けどそれが一般論なのか分からなくて、でも周りに広めてみたくて、ネットに上げる前に誰かの意見が欲しくて聴かせたのが匠馬さんだったんだ。メンバーにアノニムのファンがいるって言ってあっただろ?」
確かにそれは事前に聞いていた話だけど、じゃあ新堂さんは最初から私のことを全部知っていたと言うことか。
「でっ…でもアノニムのファンって神田さんのことじゃなかったの?最初の飲み会でそんな話してたでしょ!」
「俺と新、あれが初対面だって言わなかったっけ?それなのに新がアノニムが好きだなんて知ってる訳ないだろ。まあ誤魔化すのにちょうど良いとは思ったけど」
堂々の開き直り発言に言葉がでない。
「口止めされる前にバレてたことだからどうしようもなかったし、でもアノニムの正体を知ってる人が生徒にいるなんて分かったら風歌だってやりにくかっただろ?」
「それは、そうだけど…」
最初は「歌:匿名」と記載して動画サイトに上げられたそれ。奏太から事後報告で連絡がきて怒りはしたものの既に結構な回数が再生されていて、SNSでもチラホラ話題に上がっているのを見掛けてしまい今更取り消せなくなった。あまりに愛想がない名前だけは匿名をそのまま英語にしてアノニムに変えた。
あの自分の感情を書き殴っただけの曲に共感が集まり、そうかこれでいいのか、と慰められたのも確かで。
けれど予想を遥かに越えて盛り上がりだしてしまった手前絶対に自分のことを表に出したくなくて、一切私の存在を明かさないことを条件に奏太の奇行に目を瞑ったのだ。
「俺は」
奏太の言葉を引き継ぐように反対側から声が上がる。
「その頃ちょうど情けないことに…失恋を引きずってて、そんな時に奏太に聞かされた双子のお姉さんが作ったという歌に目を覚まされた気分でした。とても同じ人が歌ってると思えない声で、同じ人が同時に作ったとは思えない歌詞で。自分の中で燻っていた仕事があれば恋愛なんて必要ないって気持ちとどうしてって嘆く気持ちが混在する矛盾を肯定してくれた…大袈裟に聞こえるかもしれませんが、あの2曲に俺は救われたんです」
それはきっと昨日和紗さんから聞いたあの件なんだろう。じゃあいつの間にか立ち直っていたというその理由は。
「アノニムは俺にとってずっと憧れの人でした。初めて如月さんに会った制作発表の日は浮かれてたし緊張してたし…あの時の『責任』は正直その場の勢いでした。それは認めます、でも」
真剣な瞳に射貫かれ、逸らせない。
次々と出てくる思いもしなかった新情報にまだ心が追いつかないのに、今まで恐らくお互い意図的に避けていた核心に触れようとしているのを止められない。
「実際に話してみれば憧れの人は普通の女の子で、真面目で穏やかで、厳しくて真摯で…初日のレッスンを終えた頃にはもうこのまま本気で責任を取るのもいいなと思ってました。奏太に一番の地雷を踏んでると教えられた時には責任なんて言ったことを後悔するくらいに…如月さんを好きになっていました、だから…っ」
言い募っていた言葉を不意に詰まらせて、正座の膝の上の拳にぎゅっと力が篭る。一度俯いて再度重なった視線は少し憂いて。
「だからこそ本気になってまた失うのが怖くて曖昧にしている内に無条件に会える日はどんどん終わりが見える……今度こそこのまま途切れさせたくなくて昨日のステージが終わったら俺は改めて如月さんに告白するつもりでした。でもこの関係のままじゃ責任のためだと思って信じてくれないだろうな、と。言うんじゃなかったって言うのはそう言う意味です。あの会話だけ聞いたら誤解されても無理はないとはいえ、言い逃げで先手を打たれるとは思いませんでした。でもそれがこんな情けない男が嫌いで振るなら仕方ないですけど、俺自身に理由がないのであれば納得できません」
これまでの勘違いしてしまいそうな滲み出ていた言動と、それでも尚それを踏み留めていたストッパーを解除したのは私だろうか。
怒濤のように吐露されていく今までの想いが、私の中で消化できずに渦巻いている。だって、なんて都合の良い話だろう。
「俺の言い訳はこれで終わりです」
気付かない間に何故か頬を伝っていた水分を伸びてきた親指が拭い、その手が下りて私の手のひらを掬い上げる。
指先が祈るように彼の額に触れた。
「如月さんが好きです…だから今度はどうか如月さんの気持ちを教えて下さい」
新堂さん、頑張りました。