鬼ごっこ
みゃあ、と仔猫の声がする。頬にぷにっと懐かしい感触。
ラック?あぁ肉球が気持ちいい。と意識が浮上して、けれどうちの子よりも高い鳴き声に否定がもたげる。そもそも実家に帰ってきた覚えもない。ならばここは、どこだ?
バッと目を開くとまだ記憶に新しい景色が広がり、サーっと血の気が引いた気がした。嘘でしょ?
「あ、風歌ちゃん目が覚めた?」
起き上がったその膝元でまだ小さい猫がじゃれついている。まだ2回しか会ったことのない人様の家で明らかに醜態を晒してしまったらしい。
「すみません!!私、とんだご迷惑を…っ!」
「全然、気にしないで。飲ませ過ぎちゃったかな…むしろごめんね。さすがに会ったこともない男に運ばれるのは嫌かなと思ってソファに寝かせたままで…旦那は隔離してるから安心して!」
と言うことは旦那様まで寝ている私に配慮して下さって別の部屋に籠っていらっしゃると。ただでさえ和紗さんには泣きついた上にご自宅にお邪魔して気安く接していただいたと言うのにもかかわらず。
あまりの罪状にひたすら謝りながら頭を抱えていると、和紗さんはカラカラと笑ってくれた。
まだ時間は午前7時を過ぎたところ。とりあえず洗面所とメイク落としをお借りして、そのまま寝てしまって悲惨なことになっているであろう顔面の現状からは抜け出した。今日の仕事は午後からだし一度家に帰って色々と整えなければ。
リビングに戻って和紗さんにお礼を告げると、旦那さんと共に朝御飯でも、と言ってくれる。何から何までお世話になりっぱなしで、今後安藤家に足を向けて寝られそうにない。
初めて顔を会わせる旦那さん──恵さんに挨拶と謝罪を述べていると、こんな朝早くにインターフォンが鳴った。僕が出るよ、と恵さんが玄関に向かう。
ややあって戻ってきたその隣には、一番会いたくない人が並んでいた。
どうして。相手にしてみれば親族の家だし、私がここにいることの方がおかしいのだけれど。
「え…っ、如月さん……!?」
「すみません!お暇させて貰います!また後日お礼に伺わせて下さい!」
ソファの足元に鎮座していた自分のバッグを引っ付かんで、俯きながらまだ状況を飲み込めていない新堂さんと恵さんの隣を足早に擦り抜ける。
えっ、なん、え?
そんな戸惑いの声をBGMに玄関を潜り闇雲に走り出した。
「この馬鹿早く追い掛けなさい!彼女、車でここまできてるから駅までの道もわからないはずよ」
頭を叩かれ弾かれたようにあとを追う姿に見つからないように。
「恵くん、匠馬が来ること知ってたの?」
「うん、仕事前に如月さんのことで話したいって連絡があったから。彼女と付き合い初めてから、匠馬くんのこういう件での相談相手は大体僕だったしね。和紗だってこうなることを予測して如月さんを呼んだんじゃないの?」
「まあ…ちょっとは。タイミングが悪かったら会えないかも知れなかったけど」
「…拗れてどうしようもなくなる前に、匠馬くんには頑張って貰わないとね」
そんな会話を露知らず。
指摘の通り道なんか分からなくて、でもまだ整理のつかない状態で、その上素っぴんでなんて絶対に顔を会わせたくなくて、運良く通りかかったタクシーに飛び乗った。自宅の住所を告げ、息を整える。走ったことと、心の準備の無いままの唐突な対面に早鐘を打つ心臓が痛い。
非常に失礼な退室をしてきてしまった。あとで昨日からのことを含めて平謝りは必至だろう。
存外近かった道のりは15分ほどで見慣れた家に到着し、料金を支払って自室に駆け込んだ。奏太はさすがにまだ家にいるはず。万が一にもひょいっと入ってこられないように施錠してチェーンを掛けた。
予告の無い、しかも早すぎる再会に動揺した脳のせいで手が震えている。
落ち着け。言い聞かせて大きく深呼吸を繰り返すこと3回。取り急ぎ、この後の仕事のために身の回りの準備が必要だ。
充電の途切れそうなスマホをコードに繋ぐと数件の着信が目に入った。それを見ない振りして、余計なことを考えないように無心でシャワーを浴びて着替える。
一刻も早くと家に戻ってきたので午後の仕事までまだ余裕は結構ある、というか午前中に予定がなければゆっくりカフェオレでも飲んでいる時間だ。
昨日の今日だし奏太も気にしているはず。新堂さんも奏太の部屋番号を知っているなら私の部屋の検討はついてしまう。
「とりあえず職場に向かうかなぁ…」
空きがあればレッスン室を借りて時間まで今取り掛かっている曲の続きでも作ろう。没頭できれば何も考えなくて済む。
そうと決まれば。少し腫れぼったい目を誤魔化すための化粧を施して、いつもの仕事用の鞄に白紙の五線譜を詰め込んだ。いつもピアノで音を確認しながらとりあえず雑に譜面を記入してからパソコンに起こし直すので、これがないと始まらない。
音を立てないように、そぅ…っ、と家を出て呼んでおいたタクシーで職場へ。
厭らしい話、アノニムの方の収入がそこそこあるため今日はその辺りは糸目をつけないことに決めた。
なかなか浮かばないメロディラインに苦心し、楽典の授業ではボールペンを忘れてテキストのページを間違えて教卓の角で肘をぶつけ生徒に心配されとボロボロだった。
今日の授業は1コマだけだし、あとはもう帰って静かに引きこもろう…とぐったりしながら建物を出る。
まだ明るい時間だ、帰りは電車で大丈夫だろう。少し肌寒いけれど教室内の暖房で火照った頬を冷やしながら駅までトロトロと歩く。
「…あ」
目前の駅舎を見つめて吐いた自分のため息と重なって一瞬気のせいかと思った聞き覚えのある声。考えたその数秒が鬼ごっこの勝敗を分けるとも知らず。
「如月さん、見つけた」
え?と思った時には手首を捕まえられていた。
「念のために言っておくと、俺は今日はオフで普通にスーパーに買い物に来てた帰りなんで待ち伏せしてた訳じゃないですからね」
「中、谷…さん……」
ここで会うのは2度目ですね。スマホ片手ににこりと微笑むイケメンがそこに。
「奏太と匠馬にもし見つけたら連絡してくれって言われてまして。約束もなく道端で会うとかどんな確率だよって思ってたんですけどまさかでした」
全員が揃ってる場で別れる宣言をしたのだから、まあ気にされていても当然かもしれない。ああ、やっぱりタクシーを使えばよかった。
「すみません、匠馬も仕事が終わってこっちに向かってるところみたいなので…結果がどうであれせめて説明だけでもいいので昨日の件を納得させてやってください。お願いします」
メッセージでやりとりでもしていたのだろう。走って逃げたところで私の運動能力の鈍さは事の発端の事故で知っての通りだし。
短い逃走劇だった。
小さく頷くと、ありがとうございます、と手が離れた。
「寒いですしとりあえず駅に入りましょうか」
すぐそこにある改札口まで向かいながら、中谷さんは再び口を開いた。
「昨日は追いかけようとする匠馬を止めるの大変だったんですよ。俺達にとっても期待度的にも大きな仕事だからさすがに抜けさせるわけにも行かなくて…匠馬の気持ちは分かるんで仕方ないとはいえ行かせられなかったことに申し訳ないとは思ってたんです」
風を避けるように駅の柱に背を預けると、頭上の線路に車両が止まる音が聞こえた。
「ただ、如月さんにとってはそれが迷惑にしかならないのかもしれない。けどお世話になった先生とあんな泣きそうな笑顔でお別れなんて俺達だって嫌です。ただのお節介かもしれない、それでも」
慌ただしく階段を掛け下りる音がする。あまり良くはない視力に今朝見たものと同じ服装が映った。
「今までの不満や文句は全部ぶつけて、あの馬鹿にちょっとだけそれを弁解するチャンスをやってあげてください」
恵さんと和紗さんは10歳差で付き合うまでかなりすったもんだあったと言う設定があったりします。