その発端
少々切なめなお話になる予定です。
最後までお付き合い頂ければ幸いです。
───────────────────────
アノニム
───────────────────────
日本を中心に活動するシンガーソングライター。
動画サイトにて初投稿後瞬く間ににその人気を広めた。
同日同時刻に投稿された、処女作である「風花」「花嵐」の2曲はそれぞれ女性目線と男性目線で綴られた失恋ソングで男女双方から強い共感を得ており、総再生数は2曲共に5000万回を越える。(〇月〇日現在)
しかしアノニム(=匿名)と言う名を体現するように曲以外では一切表に出てくることはなくそのプロフィール全く不明。動画内では静止画のイメージイラストと歌詞が表示されるのみ。音域の広さから性別すら判断がつかず、ファンの間では憶測が飛び交っているが声音の柔らかさから女性と言う説が有力。
バラードからロックまで幅広い曲調を歌い上げることから、変幻自在のカメレオンボイスとの異名をつけられている。
SNSも利用しておらず長く動画サイトのみでの活動だったが、多くのファンに熱望され20XX年アンネエンターテイメントにてCDを発売。
その際、一切の情報を公開しないという条件の元の契約とし、レーベルも沈黙を徹底している。
アニメソング(声優も含む)を主とするレーベルからデビューしていることから、アニメ業界に何らかの繋がりがあると推察される。
唯一直接の繋がりがあるとおぼしき動画内とCDジャケットのイラストを手掛けるラク太もその詳細は分かっていない。
───────────────────────
Anonymous Song
「昨日の夜に上げた新曲早速伸びてるみたいだね、SNSも大騒ぎ。人気者は凄いよねー…って聞いてる?そこのカメレオン」
「カメレオンって言うな!何だかなぁ…何でこんなに騒がれるようになったんだか」
両手に持ったオムライスをテーブルに置いて席に着くと、すかさずもう一人の手がスプーンで半熟に焼けた卵を掬った。
一緒に住んでいるわけでもないのに当然のように我が家で昼食を摂る姿はもう見慣れたものだ。
別に示し合わせた訳でもないのに、互いの職業柄まず防音設備を最優先とし物件を探したら偶然にも同じ建物に辿り着いた2つ隣の部屋に住む双子の弟。
親にはいっそ一緒に住んだら?と言われたけれど、ここ以上に条件のいい部屋はなかったし、1LDKに2人は窮屈だろう。そうでなくてもこの歳になって弟と二人で住むなんてごめんだ。
それにここは一室をピアノなどに占領されていてただでさえ狭い。
「今回の曲もヤバイ!恋愛ソング泣ける!アノニム神っ!!…ってさ、相変わらず凄い反響」
「まあ…ありがたいことだけど」
作詞作曲も歌うのも、最初は完全に単なる趣味だった。
あの2曲が完成したときに、目の前の男…奏太に面白半分に事後報告で投稿された結果異様な広がりを見せてしまい調子に乗ったのも事実。当時は単なる大学生だったはずなのにあれよあれよと名前が一人歩きしてしまいこの有り様だ。
「そっちこそ、ラク太のイラスト素晴らしすぎ!とか言われてるよ」
「マジ?今回はちょっと変えてみたんだけど評判良いなら良かった」
奏太の絵だって趣味の域を出ないものだったのに、曲の雰囲気に妙にマッチして新曲の度にセットで無くてはならないものになってしまった。ラク太と言うふざけた名前は実家の愛猫ラックから借りたらしい。向かいの家で産まれたのを譲り受けてきた、大きくて丸い目が訴えかけてくるのが堪らなく可愛い我が家のアイドル。ちなみに棚じゃなくラッキーのラックです。
アノニムもラク太もその正体を知るのはお互いの他にはとアンネの社員であるいとこの鷹志兄ちゃんとその社長のみ。振り込みがあるから本名を見たことのある人くらいは他にも何人かいるだろうけれど、アノニムとの関連は把握していないはずだ。
「ん、ご馳走さん。俺はそろそろ行くけど、お前は俺の名前で入れるようにしとくから。頼むからちゃんと来いよ来てくださいお願いします」
「はいはい、すっぽかしたりしないから。行ってらっしゃい」
今日は、声優・如月奏太の出演する新作アニメの製作発表の日だ。19時からインターネットや動画サイトで生配信されるそれに、奏太は初主役として参加する。まだ早い時間だけれど打ち合わせやらメイクやらで製作陣営は忙しいらしい。
奏太に歌唱レッスンを頼まれたのはアイドルモノのそれの主役に決まってからだ。もともと下手ではなかったけれど、念願の主人公と言うことで奏太はそれはもう張り切った。
音楽教師の資格を持つ双子の片割れを思い出し、ピアノのあるこの部屋でどんどん歌唱力を伸ばしていった末に、その歌がプロデューサーの目に止まってしまった。
オーディションの時との差を指摘され、どんな練習をしているのかを聞かれ、馬鹿正直にレッスンのことを話してしまったおかげで白羽の矢がこちらに向かった。
アイドルは四人組。是非他のメンバーのレッスンもしてやってほしい、と。
もちろん、光の速さで断った。歌なんて歌ってしまったら声で気付かれる危険がある。
身バレ、ダメ、絶対。
しかも結構熱心なアノニムのファンが中にいると聞けば尚のこと。
──ふざけんな絶対に嫌だやらない!
──歌唱指導って言っても俺にしてる発声練習とか指摘とかそんなんだから!歌う必要はないし!
──バレたらどうしてくれんの!
──万が一そんなことになったら絶対に俺が何とかするから!大丈夫だから!!
──歌唱指導っていうなら鷹志兄ちゃんとこの遥奈ちゃんが適任!遥奈ちゃんプロだし!
──遥奈ちゃんに頼むと鷹志兄ちゃん怖ぇし!俺が教わってんのはお前だから、なあ頼むって!
──いーやーだっ!
──お願いします!
──嫌だって!
──そこをなんとか!
そんな攻防の末、奏太のメンツも有るし断りきれず。
とりあえずお試しで今日は見学して生の声を聞いて、明日の初回のレッスンだけでも!とのゴリ押しに観念したのは結局こちらだ。
はあーー、と深く溜め息を落とし、汚れた皿をシンクに運んで洗剤とスポンジを手に取った。
なんだかんだ言って、押し付けられた楽譜をチェックしてしまっている時点で奏太に甘いのは自覚している。
泡をお湯で洗い流して水切りかごに重ねて少し乾かしている間に、お湯を沸かしてマグカップにスティックの粉末コーヒーを開けた。すぐに沸くことでお馴染みの湯沸かしポットは程なく水を沸騰させてその完了を知らせてくれる。お湯を注がれたコーヒーはインスタントながらも美味しくて気に入っている。そこ、安上がりとか言わないこと。
スプーンでかき混ぜて溶かしてから先程洗った食器の水気を拭い棚に片付けたら一段落だ。LDKとは別にあるもう一部屋の扉を湯気立つマグカップと一緒に開いた。
本来なら寝室となりうるであろうここは作業部屋だ。角に備えられたアップライトのピアノとパソコン、レコーディングマイクや録音機材その他諸々に占拠されているせいでベッドやチェストなどの家具はリビングにある。クローゼットは細々とした機器や楽譜で溢れ、申し訳程度にあまり使わないコートやスーツが掛かっている。
ピアノの隣にある小さい作業机のコースターにコーヒーを置いて椅子に腰を下ろし、閉ざされていた蓋を開けると白黒の見慣れた光景が露わになった。譜面台に立てられたままのその楽譜はまだメロディの欠片すら公表されていないものだ。もう暫く口外無用のそれを託されてしまった時点で腹は括った。こんな秘匿性の高い曲を弾くためにこの部屋を選んだ訳じゃないのだけれど。
ふう、ともう一つ溜め息を吐いて五線譜に描かれた音符に倣い鍵盤を叩いた。
春から始まるこのアニメは、新人アイドルがその実力を徐々に現して登り詰めていく話──ではなく、既にMorionとしてグループの名を馳せはじめていた最中、メンバーの一人・愛斗が突如失踪してしまうところから始まる。
前触れもなく起こったセンターの不在に動揺し、活動は停滞。愛斗の行方を探しながらもいよいよ解散を考え始めていたところに、ストリートライブをしていた愛斗を見つける。しかしそれは愛斗ではなく、愛斗の双子の弟である結斗だった。結斗もまた愛斗の居場所を探し、各地を回っていた。結斗はリーダーの拓海や啓介、涼二と共に愛斗の代わりにMorionの一員として歌いながら愛斗失踪の謎に身を投じていく───
と言うサスペンス要素も含んだストーリーらしい。
アイドルモノなのか?と言う疑問はさておき、第一話の時点で人気アイドルとして歌っている設定なので、ある程度の歌唱力が必要になる。その為、キャストもそこは定評のある面子を揃えていると聞いた。なら歌唱指導なんて必要ないのにと諦めがましく思ったのは記憶に新しい。
そのなかで奏太は結斗と愛斗の二役を演じることになっている。
記者やカメラマンを集めたこの製作発表の会場の一番後ろの壁の隅に背を預け、緊張の面持ちの奏太を眺めていた。
まだ若手と呼ばれる歳の奏太とさほどキャリアの差がない他のキャストもまた、着々と進む話に談笑しながらもどこか表情は固い。
結斗/愛斗 役・如月 奏太
拓海 役・新堂 匠馬
啓介 役・神田 新
涼二 役・中谷 義正
それぞれのキャラクターの立ち絵と共にスクリーンに写し出された名前。そのなかに自分と同じ名字があるのが何だか不思議な気持ちになる。しかも双子の役って、つくづく妙な縁を勝ち取ってきたものだ。キャラクターと違い、こちらは二卵性だけれど。
残りのメインキャスト、新堂さんも神田さんも中谷さんも名前は随分広まってきた方々だ。特に一番歳上の中谷さんはその甘い顔立ちも相俟って結構な人気を集めているらしい。
この4人が、明日から生徒になる。全くもって気が重い。
ありがとうございましたー!とキャスト一同が壇上から姿を消し、客席側の面々は三々五々解散していく。その最後尾からスタッフに声を掛けると、奏太が話を通しておいてくれたお陰でそのまま舞台裏に案内された。
薄暗いなかをキョロキョロと探していると、斜め後方から自分の名前が飛んでくる。
「────風歌!」
振り返った、その時。
スローモーションのように、こちらに倒れてくる何かが見えた。叫ぶような奏太の呼ぶ声。危ない!と言う誰かの悲鳴。
間もなくぶつかってきたそれは私を巻き込み派手な音を立てて床に倒れた。