狐 其の二
隣の部屋にやって来た。狐坂の部屋だ。俺と同じ間取りをしている。本来ならば女の子の部屋だぁ、とか、同じ間取りなのに住んでいる人がいればこうも違う風景にみえるのか、とか感想が出てくるのだが、こうも毎回、毎日のように部屋に来ると自分の部屋の動揺に見飽きた風家になってしまった。
「それで、その黒光り丸はどこにいたわけ?」
俺の質問に狐坂は玄関から震えながら「そこら辺にいました」と指を指した。
狐坂はどうやら黒光り丸の事が本当に大嫌いらしく玄関から部屋に入れないらしい。自分の部屋だというのに情けない話である。
狐坂が指を指したところを探すがそれらしき物は見つからない。まぁ、そうだよな。彼らも生きるために必死なのだ。そうやすやすと駆逐されたら困るはずだ。
「おーい、本当にこの辺なのか? 見つからないんだけど」
「おかしいですね… 確かにその辺から出てきたんですけど」
いくら探しても見つからないので俺は少し狐坂のことを揶揄うことにした。
「全然見つからないぞ、って、おい! お前の足元に黒光り―「ぎゃああああ! ど、どこですか!?」
実に滑稽であった。先程まで恐ろしくて部屋の中に入れなかった奴が靴を脱ぐことも忘れ、敵地の真ん中に装備無しで突撃してきたのである。
いや、装備はあった。抱き着いている俺のことだ。狐坂は抱き着きながらガタガタと震えている。それに今にも泣きだしてしまいそうだ。
これは少しばかり悪いことをしてしまったなと罪悪感に苛まれた。
「冗談だよ、冗談。そんな真に受けるなよ。
それに室内は靴を脱ぐのがマナーだぞ」
そう言った瞬間、飛んできたのは平手打ちだった。
「い、いてぇ。
そんな怒るなよ。悪かったって」
「こ、こんな時に冗談を言うのは止めてください」
狐坂はそう言いながら俺の胸をポカポカと叩いてきた。うわぁ、すげぇいい匂い。どんなシャンプー使ってんだろ。
俺の罪悪感は女の子のシャンプーで打ち消されるほどしょぼいものだった。
とまぁ、いろいろ満たされたので作業を再開することにした。まず狐坂を宥めて再び玄関へ配置。その後は右手に殺虫スプレー、左手には新聞紙を丸めたものを装備した俺は黒光り丸を退治する為獲物を探した。
捜索を始めて五分、とうとうその忌々しきものの姿を発見した。奴は机の周りに置かれた雑誌の下から姿を現した。
勝負は一瞬で決めなければならない。俺はすぐさま右手に構えていた殺虫スプレーを放った。直撃した黒光り丸は苦しんでいるようだった。だが、このまま放っておけば黒光り丸は死にかけとは思えない速度でその姿を眩ます。
そうなると更に面倒なので、左手に構えていた新聞紙で止めを刺した。黒光り丸は潰れて絶命したが、念には念を入れて、もう一発ずつ殺虫スプレーと新聞紙のコンボを食らわせた。完全にオーバーキルなのだが、黒光り丸に限ってはやりすぎるということはないだろう。
とりあえず一仕事終えた俺は狐坂に任務を完了したことを報告した。
「とりあえず、終わりましたよー
これで依頼されていた黒光り丸の退治は終了です」
その言葉を聞いた狐坂は安堵の表情を見せた。
「本当に、本当にありがとうございます!
助かりました!」
狐座はそう言ってニコリと笑った。とても可愛らしい笑顔だ。この笑顔も好きなのだが、俺が好きなのは狐坂が青ざめる表情が好きなことにさっき気付いた。もしかしたらSっ気に目覚めたのかもしれない。
そう思った俺は再び狐坂にイタズラを仕掛けることにした。
「いやー、これはお安い御用だよ。
でもさ、黒光り丸って一匹いれば百匹いるっていうよね」
俺がそう言うと狐坂の顔がどんどん青ざめていく。科学の実験をしているみたいで面白い。
「あ、ああああ、あの、そ、その話本当ですか…?」
「本当かどうかは定かではないけど、昔から言われていることじゃなかったかな?」
「そ、そうでしたね。五百年前からそう言われてました」
「そんな無理して妖怪の振りしなくていいんじゃない?」
忘れたころにやってきた妖怪設定を俺は否定した。だって、そりゃ、信用できないもの。さっきまで半信半疑と言ったが、実際の所九割嘘だと思っている。残りの一割はそうだったら面白いなという気持ちがあるだけで、元から狐坂のことを妖狐だと思ったことは無い。
しかし、このことを言うと狐坂は怒るのだ。さっきまで顔を青ざめていたくせに今度は頬を膨らませて怒っている。何と喜怒哀楽の切り替えの速いやつなのだろう。意外と器用なのかも。
「またそんなこと言うんですか!
だから、私は妖狐なんです! これでも五百年から生きているです!」
「じゃあ、証拠は?」
「そ、それは…」
狐坂はそう言って言葉を濁した。
御覧の有り様だ。これで「私は妖怪です。信じてください」なんて言って信じる奴がいるとすれば詐欺師にとっては格好の獲物だ。
何故、狐坂が自分のことを妖狐だと言い張るのか理由は分からないが、彼女なりの理由があるのだろう。
「と、とにかく、今日は涼真さんの部屋に泊まってもいいですか?」
「どうしてそうなる」
「だって、部屋の中に百匹もいるって考えたら怖くて…」
「そんなの俺の部屋だって一緒だよ。
こんな古いアパートだから黒光り丸がどの部屋に居てもおかしくないだろ?」
「ですが、一人でいるより二人でいた方が気持ち的な問題でいいかなって。
それに私じゃおぞましい物体を退治できませんから…」
狐坂はそう言うが俺は気が進まない。狭い部屋なので寝る場所を確保しなければならない。
狐坂が男なら自分が布団で寝て、どこか適当な床とかで寝させるのだが、そうはいかない。
俺は狐坂の方をチラリと見た。今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを見ている。そんな良心の呵責に訴えるような顔をしないでもらいたい。
「はぁ…、分かったよ。
今晩だけだぞ」
狐坂の熱烈なアピールに負けた俺は渋々了承した。
「本当ですか!?
ありがとうございます!」
「もう、夜も遅いんだから静かにしろよ。
じゃあ、俺は部屋に戻るから準備が終わったら来いよ」
そう言って狐坂の部屋を後にしようとしたら狐坂に腕を掴まれた。
「なに? まだ何かあるの?」
「当たり前です。
私の準備が終わるまでそこで待っていてください」
ため息しか得ない。図々しいにも程がある。きっと黒光り丸の存在が恐いのだろう。だとしても、たかが、虫一匹程度でどうってことはないだろう。
しかし、彼女はそうはいかないみたいだ。自分の部屋なのにおっかなびっくり歩いている。まるでお化け屋敷に入っているみたいだ。
寝間着のような着替えを取ってこっちに来るまで、およそ十分かかった。ん? 待てよ。寝間着? いやいや、そりゃ寝る時に着る物だから疑問に思うことはないのだが、それを持ってくるということは俺の部屋で着替えるということだろうか? それに下着らしきものがチラリと見えた。つまり俺の部屋で風呂に入るということだ。
おいおい、勘弁してくれ。六畳一間の部屋だぞ。脱衣所と呼べるものは無いに等しい。シャワーの音だって聞こえてくるんだぞ。同じ間取りの部屋に住んでいる狐坂もそれぐらいは分かっているはずだ。なんだ、もしかして俺のことを試しているのか? いや、それはないだろうな。きっと狐坂は全面的におれのことを信用信頼しているのだろう。
「涼真さん? りょ~まさ~ん」
狐坂が俺の眼前で手を振ってきた。その行動により俺は我に返った。
「考え事でもしていたんですか? 呼びかけても全然返事内から無視されているかと思いましたよ」
「あぁ、すっごい考え事してた。
準備終わったんなら部屋に行くか」
俺はそう言って狐坂の部屋を出た。狐坂も自分の部屋なのに逃げるようにして部屋を後にした。