8 新たなる訪問者
桜の花はとうの昔に散り、気づけば春の大型連休も間近に迫っていた。
新入生の部活勧誘が解禁されてしばらく経つのに、誰一人見学希望すら訪れる気配のないゲーム研究部の部室へ向かう途中、幸司に呼び止められた。
「おい、翔。ちょっといいか?」
振り返ると、制服のブレザーを脱いでカッターシャツ姿になった幸司がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。今日は春とは思えない暑さだった。
「何?」
「お前さ……、VRチャットのアバター変えたか?」
予想外の質問に、僕は少々面食らった。
「何を突然言い出すかと思ったら……、そんなことしてないよ。あのアバター、かなり気に入ってるんだから」
「だよな。だったらもしかして……翔のアカウント、他人に乗っ取られていないか?」
「えっ、どういうこと!」
幸司は言った。「俺、昨日の夜、寝付けなくて、仕方ないからVRチャットで、フリートークのチャットルームを眺めてたんだ。そしたらたまたまお前のアカウントを見つけたんだ」
「僕のアカウントを?」
僕たちの使っているVRチャットは、知り合いだけが参加を許されるプライベートなチャットの他に、不特定多数の人たちが自由にチャットに参加できるフリートーク機能がある。しかし、僕は身に覚えがなかった。
「僕、昨日はチャットなんかをしてないよ。似たアカウント名と勘違いしたんじゃないの?」
VRチャットアプリで使用するアカウント名は唯一無二だが、ユーザが増えるほど、語尾に謎の数字がつくなど、似たような名前がどうしても増えてくる。
「俺も最初はそう思ったんだ。だって、お前が必要もないのに赤の他人とチャットすることなんて、まずないだろ」
やんわりとコミュ障だと指摘されているような気がして、頷くのに少し時間がかかった。「……うん、まあそうだね」
「だろ。でも何度アカウント名を見返しても、やっぱりお前のものだったんだ」
「そんな……」
もしそれが本当なら、ネット上における僕の人格が、他人に奪われ破壊されたという、想像するのも恐ろしい事態だ。
しかし、VRチャットのアカウントで使用しているパスワードは充分長いものだし、他のウェブサービスで使い回しもしていない。それに、二要素認証だって有効にしている。そう簡単に乗っ取られるとは思えない。何かが引っかかる。
「幸司、そのアカウント、具体的にそこで何をしてたの?」
「俺も気になって、お前のアカウントが居るチャットルームに入ってみたんだけど、普通に他のアバターと会話をしてただけだった」
「他のアバターに罵詈雑言浴びせかけて炎上したとか、僕の個人情報をばらまいてたとかは?」
「俺が見た限りでは、そんな感じゃなかった。和気あいあいとした雰囲気で、結構ユーザが集まってて、お前のアカウント、相当人気だったぞ」
「……何それ?」
僕のアカウントが悪用されていないようで少し安心したが、それでは、乗っ取った犯人の意図がわからない。気味悪さは逆に増した。
「さっき幸司は僕に、アバターを変えたのかって、訊いたよね。その時は、いつもの僕のアバターじゃなかったって事?」
「金髪で……結城さんのアバターみたいにドレスを着た女の子のアバターだったな」
――なっ!
口から出かかった叫び声を、僕はぐっと堪えた。
「特に悪さをしている様子はなかったから、もしかして乗っ取りじゃなくて、実は翔自身が演じてる可能性もあったから、その時は見てるだけで声をかけなかった……」
幸司は続けてその時の状況を詳しく説明してくれたけど、頭の中にはほとんど入ってこなかった。
僕のVRチャットアカウントを乗っ取った犯人は明白だ。
「ちょっとごめん。今日用事を思い出したから、部活に行けない」
僕は幸司の話を遮ってそう伝えると、部室と反対方向へ向かって、早足で歩き出した。
廊下に誰もいないことを確認して、僕はスマホを取り出そうとしたが、
「熱っ!」
危うく取り落としそうになった。画面を見ると、普段のこの時間ならまだ半分以上残っているはずのバッテリーが、今は残り二割を切っていた。
それもそのはず、それは僕が四月の初めに作りかけて以来、ずっと放置していた自作ゲーム『魔界迷宮』が実行中だったからだ。もちろん僕はそれを起動させてはいない。
「リリアーヌさん」
呼びかけると、リリアーヌさんはちょうどゲーム内の落とし穴を飛び越えたところだった。いつもは頑なにドレスしか着ない彼女だったが、なんと今は、以前僕が作ってあげた、Tシャツに短パン姿だ。
彼女は僕の顔に気づくと「きゃっ」と小さく悲鳴を上げ、物陰に隠れて、顔だけこちらに出してきた。
「と、突然どうしたの、カケル?」
「どうしたの、じゃないよ。リリアーヌさんは何をやっているの? しかもそんな格好で……」
「見てわからないの、運動よ。さすがにドレス姿じゃできないでしょ……」
僕に半袖姿を見られたのがよほど恥ずかしいのか、リリアーヌさんの顔は真っ赤だ。
「運動? 僕が作ったゲームの中で?」
「ずっとあの寝室の中に居て、ご飯食べてるだけじゃ体が鈍っちゃうから。それに体型も維持しないと……。それで、あの『アプリの扉』を探してたら、たまたまここを見つけたの。体動かすのにちょうど良さそうなアスレチック施設だと思ったから挑戦してたのよ。でも、ちょっと簡単すぎるわ、これ。カケルが作ったっていうのなら、今度はもっと骨のあるものにしてね」
まさか、以前ソンジュンから言われた事を、リリアーヌさんからも言われるなんて、思ってもみなかった。……って、今の議題はそこじゃない。
「リリアーヌさん、勝手に僕のスマホの中を歩き回らないでくれるかな」
咎めるような口調で伝えたが、リリアーヌさんは言い返してきた。
「ずっとこの中に居て暇で暇でしようがないんだもの。良いでしょ別に、減るものでもあるまいし」
――減るんだよ、バッテリーとかギガとかが!
少し頭にきたので、つい強い口調で問い詰めてしまった。
「リリアーヌさん、昨日の夜、もしかしてVRチャットアプリを使った?」
「VRチャットアプリ? 何それ」
「他の人が操作するアバターとおしゃべりができるアプリだよ」
「ああっ、そう言えば」リリアーヌさんはポンと手を叩いた。「カケルが寝た後、『アプリの扉』を探してたら、賑やかなところを見つけたわ。それの事かしら? 久しぶりにいろんな人とお話ができて楽しかったわ」
「リリアーヌさん……、君の今の立場、ちゃんとわかってる?」
「あたしの立場?」彼女は首を傾けた。
「リリアーヌさんはこことは違う異世界から来た王女様で、国を乗っ取った悪い宰相にも追われているんでしょ。そんな君の存在が他人に知れたら、大騒動になるだろ」
「それくらいわかってるわよ。あたしの身分だってちゃんと偽ったし、異世界をほのめかすようなことは一切口にしてないから。普通におしゃべりを楽しんだだけ」
「いや、それでもチャットはまずいよ」
「どうしてよ?」
「……」
眉間に深い皺を寄せるリリアーヌさんの顔に、僕は言葉を詰まらせた。
リリアーヌさんは先ほどよりも落ち着いた声で言った。
「ねえカケル。この世界に来た時、貴方はいろいろお世話してくれて、そのことはとても感謝してる。けど、そろそろ限界だと思うの」
「それは……、どういう意味?」僕は唾を飲み込んだ。
リリアーヌさんは答えた。「そもそもあたしがこの世界に来た一番の理由は、お兄様を探すことで、確かにカケルは学校とかショッピングモールとか、いろいろ探してくれた。でも、お兄様の気配は感じられても、見つけることはできなかった。だからもっと大勢の人の協力を得るべきだと思うの」
「でも、そんなことをしたら」
「あたしだってできれば、自分の国のごたごたに、この世界の人たちを巻き込みたくはないわ。でも、時間がないの。いつオデロンがあたしを追ってこの世界にやってくるかわからない」
「時間はあるよ。お兄さんのことだって、この街のどこかにはいるはずなんだ。焦らなくとももう少しで見つかるよ」
「ねえカケル……」リリアーヌさんの声音が突然低くなった。「貴方はどうして、頑なにあたしが他の人と接触するのを避けようとするの?」
僕の心臓はドキリと跳ね上がった。「それは……」
「カケルは周りが混乱するからっていうけど、本当はあたしに言えない別の理由があるんじゃない?」
リリアーヌさんが執拗に問い詰めてくる。背中からどっと冷や汗が噴き出した。
「そ、そんなことはないよ……」
「ねえ、カケル。あたしをここに閉じ込め……」
――やめて!
リリアーヌさんの僕を非難する声と、悲しそうな視線に耐えきれず、僕は咄嗟にスマホをマナーモードに切り替えると、そのままズボンのポケットに突っ込んだ。
冷静に考えれば、リリアーヌさんが全面的に正しい。手伝ってくれる人を増やした方が人探しは格段に楽になる。リリアーヌさんの存在を信用できる人たちだけに明かせば、混乱も少ないだろう。
でもこれまで、ずっと僕はリリアーヌさんの力になれてきたのだ。今更、他人の協力を仰がなくとも、リリアーヌさんのお兄さんのことだって僕が何とかしてみせる。
――リリアーヌさんには、僕が必要だ。
――僕だけが必要だ……。
「横井翔……」
突然横から声をかけられ、いつもの僕なら驚いて飛び退く所だろうが、虫の居所が悪い今は、声がした方へ顔だけ向けた。
生徒会副会長の鴻池さんが立っていた。普段は万年不機嫌そうな表情を浮かべる彼女だが、今日は雰囲気が違う。とても弱っている様子だった。
「何か?」
愛想なく答えると、鴻池さんは怯えたリスのように身を縮めた。何時もの彼女からは想像できない反応だ。
「じ、実は会長の様子がおかしくて……」
「そりゃ、いつもの事でしょ」
と皮肉を言い残して、そのまま立ち去ろうとしたが、鴻池さんは逃がすまいと、僕の腕をぐっと掴んできた。
「今日は特に様子がおかしいんです。会長と親しい貴方なら何かわかるかと」
「まったく親しくない、むしろ敵だと思ってるくらいだ」
「お願いですから、ちょっと見てください」
鴻池さんに無理矢理引っ張られ、仕方なく生徒会室にやって来た。いつもボディーチェックを受ける前室を通り抜け、生徒会執務室の扉をそっと開ける。
「妹よ! ああ妹よ! 妹よ!」
名句を侮辱するようなことを叫びながら、マイケルは両手で頭をくしゃくしゃに書きむしり、生徒会長の机の周りをぐるぐると歩き続けていた。
「朝から授業にも出ず、ずっとあんな感じなんです」
「うん、あれはきっと禁断症状だ」
と、隣で同じように扉の隙間から様子を窺う鴻池さんに言ってやった。
「禁断症状?」
「ああ、その原因を知ったら、いくら鴻池さんでも、マイケルに絶望すると思うよ」
「わたしが、会長に絶望することなんてありえません!」
鴻池さんはきっぱりと言った。
「だったら彼に、『今度、大星ショッピングモールの二階、書店の反対側にあるお店に一緒に行きませんか?』って、誘ってみるといいよ」
「それはどういう……?」
鴻池さんの質問には答えず、僕は扉から離れた。
インモラルな欲情に捕らわれた最悪の生徒会長に構っていられるほど、僕は暇ではない。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
高校を出てバスに乗る。
座席に座り、新緑に包まれる街並みを眺めていると、さっきまでのイライラした気分は失せていき、だんだんと冷静さが戻ってきた。
――さっきの会話の終わり方はさすがに不味かった。リリアーヌさん、相当怒っているだろうな……。
落ち着いてもう一度話し合うべきだと思い、自宅最寄りのバス停で降りた後、スマホのマナーモードを解除した。すぐにリリアーヌさんの怒号が豪雨のように降り注いでくるかと思ったが、スマホからは何も反応がなかった。画面を見ても彼女の姿は見えない。何かのアプリの中へ行ってしまったのだろうか?
もしかして、VRチャット? ……あれだけ言ったのに。
再び、腹立たしさと、それと同じくらい、胸が締め付けられるような痛みがこみ上げてきた。
VRチャットのアプリを立ち上げようと、アイコンに指を伸ばす。その時、前方から自動車の大きな急ブレーキ音が響いてきた。
はっと顔を上げると、急停止した白い乗用車の前を、初夏に近い気温だというのに、頭から足まですっぽりと黒い布で覆った老婆が立っていた。運転席の窓から男が顔を出し、「おい婆さん、あぶねえだろ」と怒鳴りつけると、自動車は老婆を迂回して急スピードで走り去っていった。後続の自動車も次々に老婆を避けていく。
一方、取り残された老婆はその場で、田舎から上京して初めて渋谷のスクランブル交差点を見た人のように、驚愕に満ちた表情でしきりに周囲を見渡していた。
さすがに見ていられなくなった僕は、老婆に近づき、彼女の肩を掴んで歩道に引っ張ってやった。
「お婆さん、車道に突っ立ってたら、危ないですよ」
老婆はゆっくりと顔を上げ、深い藍色の瞳をこちらに向けた。
その瞬間、僕は何とも言えない不思議な感覚に襲われた。……老婆の周りだけ空気というか世界が違っていた。
――この雰囲気、以前にもどこかで……。
「どうも、御親切に。このあたりは初めてで、右も左もわからなくて」
と、老婆は言った。すると、ずっと静かだった僕のスマホから、リリアーヌさんの叫び声がした。
「も、もしかしてその声、ばあや!」
口を大きく開けた老婆が、僕が手にするスマホへ視線を向けた。
「あっ、いや、これはその……。ただの空耳です」
僕は咄嗟に誤魔化そうとしたが、老婆は震える腕をこちらへ伸ばしながら、口を開いた。
「まさかその声は、姫様……リリアーヌ姫様!」
「やっぱり、ばあやなのね!」
「えっ!」
今度は、僕が驚愕で目を丸くする番だった。
――二人は知り合いなの?
「姫様の声は聞こえるのにお姿が見えませぬ。何処においでですか?」
「ばあや、ここよ、ここ!」
僕は、いつの間にか画面に姿を現したリリアーヌさんと、目を輝かせてこちらへ近づく老婆へ、何度も視線を交互させた。
――この老婆もリリアーヌさんと同じ世界から来たということか!
老婆は、あまりの超展開に呆然とするしかない僕の手からスマホをひったくると、食い入るように画面を見つめた。
「おおっ、そこにいらっしゃるのは本当に姫様。こんなに早く再会できるとは、思ってもいませんでした。よくぞご無事で」
「ばあやこそ、無事だったのね。本当に良かった」
「しかし、姫様は一体どうしてこのような小さな箱の中にいらっしゃるのですか?」
「それがちょっと、いろいろあってね……」
「まさか。この男が魔術で姫様を捕らえていたのですか!」
「い、いや……僕はそんなんじゃ」
食い殺さんばかりの恐ろしい表情で僕を睨みつける老婆に恐怖して、思わず一歩後ずさった。
「よくも姫様をこのようなめに遭わせてくれたな、外道め。覚悟せよ!」
「待って、ばあや!」
拳を振り上げた老婆を、リリアーヌさんの声が止めてくれた。
「違うの、これは不幸な事故なの。それで、あたしを助けてくれたのはそこにいるカケルなの」
「なんと」老婆の皺だらけの拳がゆっくりと下がっていく。「それは本当ですか、姫様?」
「あたしがばあやに嘘を言うとでも?」
「これはとんだ失礼を」老婆の態度は一転、身を縮め、畏まった口調で言った。「私奴は、リリアーヌ姫様が生まれた時よりずっとお世話させていただいております、ドロテと申します。この度は姫様が大変お世話になりまして。何とお礼を言っていいのやら」
「ま、まあ困ったときはお互い様ってやつで……」
僕はまだ緊張したまま答えた。
「なんと、異世界にも聖人の如き素晴らしい心をお持ちの方がいらっしゃるなんて。姫様がこのような方に出会えて、ばあやは嬉しくて嬉しくてしようがありません」
ボロボロと涙をこぼし始めたドロテは、両手で顔を覆った。
「ちょっとばあや、いくら何でも大げさすぎよ」
「何が大げさなものですか。まさか姫様が異世界にて、立派なご伴侶様と巡り合ったのです。喜ばずにはいられますまい」
「は、伴侶……」僕の心臓はドキリと高鳴ったが、リリアーヌさんは呆れたように肩を竦めた。
「あたしとカケルはそんなんじゃないわ。ただの……友だちよ」
「そ、そうなのですか。カケル殿?」
目が赤く腫れたドロテはこちらへ振り返った。
ややあって、僕は頷いた。
「あっ、うん……」
「そうですか」ドロテは心底がっかりしたように肩を落とした。「老い先短いばあやに唯一残された願いといえば、姫様の結婚式を見ることなのですよ……」
「ばあや。老い先短いだなんて言わないで」リリアーヌさんが悲しい声で言った。
「いいえ姫様。残念ながら人には限られた寿命があるのです。ですから、早く赤ちゃんの顔をばあやに見せてくださいな」
「唯一の願いじゃねえじゃん!」「唯一の願いじゃないじゃない!」
すかさず僕とリリアーヌさんは同時に突っ込みを入れていた。
「ごほん」と、リリアーヌさんはわざとらしく咳をしてから、ドロテに向けて言った。「そ、そんなことよりもばあや、どうして貴女がここにいるの? あっちで身を隠して、あたしがお兄様を連れて帰ってくるのを待っていたんじゃないの?」
するとドロテの表情が険しくなった。
「実は姫様、事態が変わったのです。それを伝えるために、姫様を追って、ばあやもこちらの世界にやって来たのでございます」
「事態の急変って、何が起こったの?」リリアーヌさんの表情も自然と固くなる。
ドロテは微かに震える声で言った。
「反国王派が……、オデロンがこちらの世界に攻め込んでくるのです」