3 立ちはだかる問題
これまでにわかった事実を整理しよう。
まず、リリアーヌと名乗る女の子が、こことは異なる世界からやってきたこと。
そして彼女が今、僕のスマホの中に居る、ということだ。
「ねえ、カケル……」
何故? という疑問は取り敢えず捨て置く。今考えたところで答えが出るとは思えない。多元宇宙論が真面目に議論されているご時世、さもありなんと、リリアーヌさんと同じく僕も一度は受け入れることにした。
さて、リリアーヌさんはスマホの中に居ても、外界と接点を持つことができる。彼女はスマホカメラから取得された映像を見ることができるし、スマホのマイクで取り込んだ音声を聞くこともできる。彼女の話によれば、目の前に大きな窓枠のようなものがあり、そこから外界の映像や音が提示されるそうだ。
一方で、スマホの画面にはリリアーヌさんの姿が映し出され、スピーカーから声も聞こえてくるため、外からも彼女の様子を知ることができる。
「ちょっと、聞いてる?」
更にリリアーヌさんは、スマホアプリ内に存在するご飯を食べてお腹を満たすこともできれば、動物と触れ合うことができるし、物に当たれば痛みも感じる。つまり、スマホの中こそ現在のリリアーヌさんにとって現実なのだ。
「カケル!」
これ以上、無視はできそうにない。僕はスマホを取り出し、マイクに口を近づけて、囁くような小声で言った。
「喋らないで静かにしてと、さっき言ったでしょ」
「どうしてよ?」スピーカからリリアーヌさんの不満そうな声がした。
続いて僕の背後から、「ちっ」と舌打ちする音が聞こえた。顔を上げると、バス内の学生や会社員たちが一斉に、僕から目を離した。
「カケルってば!」再びリリアーヌさんの声。
「すいません、電話が……」
乗客たちに向かって頭を下げる。舌打ちした中年の会社員が、「電源切るか、マナーモードにしろよな、常識のねえクソガキが」と呟いた。
「あっ!」
その手があった! すっかり忘れていた。
僕はスマホをマナーモードに切り替える。リリアーヌさんの声がぴたりと聞こえなくなった。
やれやれ、と一息ついていたら、今度はスマホの着信音が聞こえた。僕のスマホはマナーモードに切り替えたばかりだ。別のスマホだろうと思った矢先、先ほど僕に向かって舌打ちしたサラリーマンは、悪びれた様子もなくスマホをいじり始めた。
高校前のバス停に到着し、大勢の生徒たちと一緒にバスを降りた。昇降口へ向かう生徒たちの流れから少し距離を取りつつ、スマホの画面を見る。待ち受け画面内のリリアーヌさんは、何か大切な物でも落としたかのだろうか? 切羽詰まった様子でしきりに周囲に視線を向けていた。
「どうしたの?」
スマホに向かって声をかけたが、僕の声に気づかないのか、リリアーヌさんは変わらず同じ動作を繰り返している。
「リリアーヌさん?」
もう一度声をかけたが、やっぱり反応はない。
――もしかして?
僕はマナーモードを解除して、再び呼びかけた。
「リリアーヌさん、大丈夫?」
今度は聞こえたらしい、彼女ははっと顔を上げ、僕の方を見た。
「そこにいたの? 突然カケルの声が聞こえなくなったから、びっくりしたわ」
どうやら、マナーモードにすると、リリアーヌさんの声が聞こえなくなるのと同様、外の声もリリアーヌさんに届かなくなるようだ。
「それにしても、さっきからあたしを無視して、酷いじゃない」
リリアーヌさんの頬がぷくぅとリンゴのように赤く膨らんだ。王女様はお怒りのご様子だ。
僕はすぐに弁明した。「無視したわけじゃないけど、満員のバスの中で、スマホで会話するのはご法度なんだよ。だから一時的にマナーモードで、リリアーヌさんの声が漏れないようにしただけなんだ」
「はぁ?」リリアーヌさんの眉間に皺が寄る。「でも、他の人が会話する声はたくさん聞こえたわよ」
「直接話すのは問題ないんだよ」
「じゃあどうして、あたしは駄目なの?」
一瞬、言葉に詰まった。僕はスマホに話しかけているのか、リリアーヌさんと直接話しているのか……?
「……スマホを使う時は、そういうルールがあるんだよ」言葉を濁す。
「不思議な世界ね」リリアーヌさんは諦めたかのように肩を竦めた。「まあいいわ。ところでカケルは今、どこへ向かってるの?」
「学校だよ。わかる?」
「それくらい知ってるわ。あたしも通ったことあるし。人がたくさん集まって一緒に勉強するところでしょ」
「学校の授業中はさっきと同じで、スマホを使っちゃ駄目なんだよ。だからまたしばらくマナーモードに……」
「それは……」
リリアーヌさんの表情が強張った。
そこでようやく僕は気づいた、マナーモードで外界から切り離された時、彼女は怖かったのだろう、と。
僕だって、外界から切り離された得体の知れない空間に、独りで放り込まれたら、いつまでも正気を保っていられないだろう。
不用意にマナーモードに切り替えてしまった、僕の浅はかさを後悔する。
「……わかった。マナーモードにはしないから、代わりに僕が良いというまで、喋らないでほしい」
僕の頼みに対して、リリアーヌさんは数秒の間を置いて、答えた。
「し……しようがないわね、カケルの立場もあるだろうし、我慢してあげるわ」
高圧的な言いようだが、彼女の頬は弛緩していた。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
授業中、リリアーヌさんはちゃんと約束を守ってくれて、ずっと喋らずにいてくれたのだけど、よほど暇だったのか、途中から「スース―」とスマホから寝息が聞こえ始めて、僕は肝を冷やした。しかし、午前中からうつ伏せ状態のままぴくりとも動かない生徒は珍しくなく、不審に思われることはなかった。
昼休み、購買で牛乳と総菜パンを買って、部室へ向かう。時々昼間から部員が何かやっている日もあるが、今日は誰もいなかった。ちなみに昨日繰り広げられた部員たちの論争は、夜中の二時頃、ゲーム作品の実写映画化の是非に関する議論の途中で止まっていた。皆今頃教室の机に突っ伏していることだろう。
今なら気兼ねなくリリアーヌさんの相手ができる。僕は席に座って、総菜パンの袋を開けつつ、スマホの『動物集めゲーム』を立ち上げた。素朴な民家の居間を背景に、動物たちと一緒にリリアーヌさんが寝ていた。夏休みの田舎のおばあちゃん家の午後の一時のようなのどかな風景だ……彼女の服装が豪奢な赤いドレスでなければ、だが。
「リリアーヌさん」
すぐに彼女は起き上がった。
「あら、あたし寝ちゃってた?」
僕はアプリを操作して、特選猫飯を餌場に置く。
「ありがとう」
リリアーヌさんは忍び寄る猫たちから距離を取りつつ、猫飯を食べ始めた。
「さて、リリアーヌさん」僕も総菜パンをかじる。「こっちの世界に来た理由について、もう一度整理しておきたいんだけど」
リリアーヌさんがこちらの世界に来る前に遭遇した事件、それにこちらの世界で彼女がすべきことについては、昨日の夜、就寝前に大体のことは聞いていたが、手伝うと明言した以上、必要な情報はしっかりと確認したかった。
「オデロンっていう悪い宰相に乗っ取られた王国を救うために、この世界にいるお兄さんを探しに来たんだよね?」
「ええそうよ、お兄様なら必ず、オデロンを倒せるわ」
リリアーヌさんの話では、お兄さんは次期国王にして、とても強力な魔術の力を有しているらしい。そのお兄さんを連れて帰り、反オデロン勢力と共に王国を取り戻す、という計画らしい。それにしても、この世界にリリアーヌさん以外にも異世界の人間が居るなんて話を聞くと、金星人や火星人が地球に紛れ込んでいる説がとても可愛く思えてくる。
「お兄さんの名前がミシェル=モンドール。僕とほぼ同い年で、丁度この世界で留学中、と……。お兄さんが何処にいるかは?」
リリアーヌさんは首を振った。
「わからない。でもお兄様のホームステイ先がこの近くにあるって、前にお父様から聞いたことがあるわ」
こちらの世界にも入界管理局と呼ばれる人々が居て、異世界からの訪問者の手助けをしているらしい。異世界の行き来は海外旅行みたいに簡単にできるものなのか……?
「ホームステイ先の住所、あるいはホストの名前は?」
「ごめんなさい、そこまでは知らないわ……。それに、お兄様、ホームステイを始めてからほとんど連絡をくれなくて、近況もよくわからないの。でもこっちの世界の学校には通ってると思う。一応、勉強目的だから」
「……なるほど」
確かに、僕と同い年で留学目的となれば十分可能性はある。さすがに異世界からの留学生だと公言はしないだろうから、海外出身だと偽っているかもしれない。そしてこのあたりで留学生の多い高校と言えば、僕も通う、ここ大星高校だ。何せ留学生が全校生徒の三割以上を占めているのだから。紛れるのにはピッタリだろう。
「……でも、ミシェル=モンドールなんて聞いたことないなあ」
とは言え、全ての留学生の顔と名前を憶えているわけではない。探してみる価値はあるだろう。
「ねえリリアーヌさん。もう少しお兄さんの情報はないかな、身体的特徴とか、性格とか」
「そうねえ」話しながらも猫飯を食べ終えたリリアーヌさんは、足元に群がる猫の背中を撫で始めた。「痩せてたけど背は結構高くて、顔も全体的に細いわ。髪もあたしと同じ金色よ。二年近く会っていないから細かい所は変わっちゃっているかもしれないけど、あたしが見れば絶対わかるわ」
「どうして?」
リリアーヌさんは即答した。「だって家族だもの」
僕だったら、茜がいつもと違う服装でサングラスでも身に着けていたら、家の外ですれ違っても気づけない自信はあるが、ここはモンドール兄妹の絆の強さを信じよう。リリアーヌさんにはできるだけ、街や学校の様子を見せて歩いた方が良いだろう。
「じゃあ、性格は?」
「とても大人びた印象ね。落ち着いてて、物静かで、何より思いやりがあって優しくて。将来の王様なのに、ちっとも威張り散らすことがないって、臣民たちからも人気があったわ。間違いなくお父様に似たのね」
じゃあリリアーヌさんは誰に似たのだろう? という疑問が一瞬脳裏をよぎったが、口にするのは控えた。
トントンと部室の扉をノックする音が聞こえてきた。
部員であればわざわざノックすることはしない。
「ちょっとごめん」
と、リリアーヌさんに伝えて、スマホをズボンのポケットにしまう。そして、扉に向かって、僕は警戒心を込めて「何?」と、答えた。
扉が開き中に入ってきたのは、生徒会副会長の鴻池エリカだった。すらりと長い手足、明るい茶色の長髪、カメラ映りの良さそうな小顔、雑誌のモデルだと言われたら信じてしまうだろう、……人を威嚇する戦闘的な目つきでなければ。
視線と同じくらい威圧的な態度で、彼女は言った。
「やっぱりここにいたか、横井翔」
「何か用ですか、鴻池さん?」
「会長がお呼びだ、すぐに来い」
予想通りの答えだ。鴻池さんが僕に会いに来る理由なんて、それ以外にはあり得ない。
「えっと……もし断ったら?」
鴻池さんは事務的な口調で言った。「今年度のゲーム研究部の予算がゼロになるだけだ」
是非もなし。僕は席から立ち上がり、大人しく彼女に従って生徒会長室へ向かった。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
鴻池エリカに連行される形で、生徒会長室にやって来た。
引き戸開けて中に入ると、そこは中央に小さな机があるだけの簡素な小部屋だ。生徒会長が鎮座まします執務室は、更にこの奥にある。
鴻池さんは人差し指で机をトントンと素早く叩いた。
「スマホはじめ、すべての電子機器をここに置きなさい」
「毎回言われなくても、わかってるって」
執務室への電子機器の持ち込みは禁止という、生徒会長指令が発せられているのだ。理由は機密情報の漏洩を防ぐため、らしい。
僕はズボンのポケットからスマホを取り出し、表示画面が下になるように置いた。鴻池さんにリリアーヌさんの姿を見られたら、大騒ぎになってしまう。
「これだけ?」
鴻池さんの尋問に、僕は頷いた。彼女は透視術を試みるかのように目を大きく見開いて、僕の頭から足元に向けて視線を移し、それから制服のポケットを何度もパンパンと叩いて中身を確かめる。
これから僕が謁見するのはどこぞの国家元首か? と思えるほどの厳密さだが、実際に会うのは所詮一高校の生徒会長に過ぎない。馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、生徒会室には生徒の個人情報も保管されているということで、昨今の事情を鑑みるに、教師も含め誰もこのやり方を批判できなかった。
ようやく鴻池検査官のチェックに合格した。僕は鴻池さんを前室に残し、一人で執務室に足を踏み入れた。鴻池さんも副会長なのだから、一緒に入れば良いと個人的には思うのだけど、これも生徒会長の方針で、機密の会話が漏れるのを防ぐため、面会は一対一でしか行わないとのことだ。執務室と前室を隔てる壁も当然完全防音。……徹底し過ぎだろ。
殺風景な前室とは異なり、壁側の本棚には沢山の本や書類が整然と並び、部屋の奥には、生徒会費の不正使用じゃないかと抗議したくなるような、立派な机とソファーが備え付けられていた。
部屋の奥、一際肉厚な椅子に腰掛けていた金髪男子が顔を上げた。彼こそ、留学生でありながら生徒会長まで上り詰めた、マイケル=ゴールドスミスだ。
「遅いぞ、横井翔」
と言って、マイケルは鋭い青い眼光をこちらへ向けてくる。
「前室の厳しいチェックがなければ、もっと早く会えたと思うけど?」
そう皮肉を言ってやったが、マイケルは海外メガバンクのCEOよろしく、両手を広げてみせただけだった。
「君を呼んだのは他でもない、昨日生徒会に提出されたゲーム研究部の予算申請書についてだ」
それくらいしか呼び出される理由がない、予想通りだ。
「何か問題でも?」
「問題だらけだ、この申請書は!」
と言って、マイケルは机にあった申請書を持ち上げた。
「具体的には?」
「この新規購入予定の欄。昨年度ゲーム研究部は何台新しいPCを買ったんだ? 今年もこんなに買う気なのか?」
「そりゃ毎年新しい機器がでるし。性能の良い方がいろいろ作業もはかどるから」
「作業……ね?」
マイケルは手に持った部活動の計画書をひらひらと揺らしてみせた。……なんと憎たらしい仕草か!
「君たちゲーム研究部は、一体何の作業をしているんだ?」
「だから、その書類にも書いた通り、イラスト作成とか、ゲーム制作とか、ゲームシナリオ調査とか、ゲーム研究に関することを色々と……」
「俺はそんなことを訊いているんじゃない。その目的だ! どうしてイラストを描く? ゲームを作る? プレイする? 何を目標としているんだ? コンクールに応募して賞を取ることか? それとも、どこかの即売会で売って利益を出すことか?」
「えっと……、ソンジュンは今度、eスポーツの大会に出る予定があるけど」
マイケルは大きく舌打ちした。「頭の悪い奴め。それはあくまで個人の目標だろ。部としての目標はなんだ、と俺は訊いているのだ」
「……」
僕は言葉に詰まってしまった。口は悪くとも生徒会長、一番弱い所を的確に突いてくる。
マイケルは数秒も待たず、続けて言った。「部活の予算も限られている。必然的に成果が期待されている部活を優先せざる得ないからな。だから、今のゲーム研究部の予算を承認することなどできない」
「それは……困る」
「なら、ゲーム研究部に何か成果はあるのか? もちろん、部活としての」
気づけば僕は、両手を強く握りしめ、歯ぎしりしていた。指摘するならするで、もう少し言い方というものがあるだろうに。マイケルは敢えて神経を逆なでさせるような態度と言い方で、こっちが困り苛立つ様を見て楽しんでいるのだ。なんて陰険で悪質な野郎だ。
しかも、内容は的外れでもないだけに、余計たちが悪い。
何も言えない僕に向かって、マイケルは申請書を投げつけてきた。
「来週までに再提出だ。話は以上」
マイケルは座ると、僕などもう存在しないかのように、机のPCのキーボードを叩き始めた。
僕は黙って書類を受け取り、前室へ続く扉へ向かう。
――マイケルめ、いつか天誅を喰らうがいい。
むしゃくしゃする気持ちをぐっと堪えながら扉を開けると、すぐ目の前に鴻池さんが立っていた。僕は驚いて一歩後ずさった。
「こ、鴻池さん……扉の前で何やっているんです?」
「別に……」鴻池さんはすぐに僕から距離を取った。「用が終わったならすぐに出ていきなさい」
「言われなくてもこんな所、一刻も早く出ていくよ」
置いた場所から一ミリもずれていないスマホを拾い上げ、生徒会室を出ようとしたところで、僕は振り返って鴻池さんに訊ねた。
「鴻池さん。この高校に、ミシェル=モンドールって名前の留学生は居る?」
部室で会った時よりも鋭い眼光を向ける鴻池さんの眉間に、皺が寄った。何故かとても機嫌が悪そうだ。
「ミシェル……? 二年生にミシェル=クラウンという留学生ならいるが、モンドールという姓は聞いたことがない。それがどうした?」
「いや、別に。気にしないで」
とだけ言って、僕は生徒会室を後にした。
廊下に出た直後、スマホからリリアーヌさんのおどろおどろしい声が聞こえてきた。
「あたしを独りで置いていったわね」
「し、仕方なかったんだよ、あそこはスマホを持って入っちゃいけないところなんだから」
「カケルがいない間に、あたしの身に何かあったら、どう責任を取るつもりだったの?」
「責任って……、大げさだな。大丈夫だよ、スマホの中にいる限り、誰も獲って食ったりはしないから」
スマホの中から出られないことは不幸なことだが、敵が現れようと手出ししようがないことは、逆に幸いと言える。
「まあそうでしょうけど……」
リリアーヌさんは口を尖らせた。まだ何か言いたげな様子だ。
「えっと……、もしかして寂しかった?」
「はあっ? 誰が独りで寂しいって?」
リリアーヌさんの目が吊り上がる。……さっきから女子に睨まれっぱなしだな、僕。
「違うわ。……さっきの所、ちょっと気味が悪かっただけよ」
「気味が悪い?」
それを寂しかったと言うのではないのか? という言葉が、喉から出かかったが我慢した。
「だってカケルが居ない間、ずっと、女の人がぼそぼそ呟いている声がしたんだもの」
「鴻池さんの声だよ。性格はきつい人だけど……、別に怖がる事じゃないよ」
「でも、ずっと同じこと呟いているのよ。会長愛してる、会長愛してる……って」
「な、なるほど……」
僕はごくりとつばを飲み込んだ。
マイケルの知的な雰囲気と常人離れしたルックスに、彼に好意を寄せる女生徒ファンは多い。鴻池さんもその一人だということは、彼女の様子を見ていれば想像がつくが、独りの時にそんな事まで呟いているのか、あの人は……。
「それに」リリアーヌさんは付け加えた。「横井め、どうして会長と二人きりで……、許せない……、とも言ってたわ」
「えっ?」
僕は立ち止まり、素早く後ろを振り返った。
間もなく午後の授業が始まる廊下には、誰もいなかった。
禍々しいオーラに満ちた視線を背後に感じた気もするが、勘違いだと思う……。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
午後の授業も滞りなく終了し、放課後、部活の時間がやって来た。
部室に行くと、既に幸司とソンジュンが居た。二人ともヘッドフォンを装着して、それぞれ、ネット小説とFPSゲームに夢中になっている様子で、部室に入ってきた僕に対して注意を向ける素振りは全くなかった。
僕も自分の席に座り、昼休みに生徒会から突き返された予算申請書を広げた。
やれやれ気が重い。どうしてあの時グーを出したのだろうと、再び悔やまれる。
申請書の承認を得るには、どこかの予算を削る必要があるだろう。かといって、削り過ぎると、後で自分たちの首を絞めることになる。さて、どうしたらよいものか……。
「カケル……カケル……」
リリアーヌさんの声がした。僕は机の隅に置いていたスマホの画面を覗き込んだ。『動物集めゲーム』内の居間に、リリアーヌさんが座っていた。
「ようやくお目覚め、眠り姫?」
リリアーヌさんは午後の授業の間もほぼ寝ていたのだ。授業は苦手な現代文だったせいで、僕も半分寝ていたが。
「何よ、そのいやらしい言い方。だって仕方ないでしょ、猫や犬と戯れるか、寝ることぐらいしかすることがないんですから」
彼女は顔をしかめつつ、首と肩を回し始めた。
「どうしたの?」
「畳って言ったかしら、この床。どうも硬くて、体が痛くなっちゃうのよね」
元の世界でリリアーヌさんは、それは王族に相応しい極上に柔らかいベッドを使っていたのだろう。日本の伝統文化はお気に召さないようだ。
「そう言われてもねえ、他に寝れそうな場所もないし、少し我慢してもらうしか……」
「……横井先輩」
突然、耳元で囁き声が聞こえ、僕は椅子から転げ落ちそうになった。咄嗟にスマホの画面を隠しつつ、後ろを振り返ると、結城さんが立っていた。
いつもはチャットかメッセンジャーでしか会話をしない彼女が、直接声をかけてくるとは珍しい。
「結城さん、いきなりどうしたの?」
「わたし、何度も声をかけたのに、先輩、さっきからずっとスマホに向かって喋ってて」
「ごめん気づかなかった、ちょっと電話をしてただけだよ。気にしないで」
リリアーヌさんの事を、部活のメンバーにも説明する気にはなれなかった。この不可思議怪奇な状況を、信じてもらえるかどうか疑問だ。自分が納得することと、他人に説明して納得させることは大きく異なる。
「それよりも結城さん、何か用事?」
結城さんは手に提げていた大きなビニル袋を持ち上げた。「今日発売の画集を買ってきました」
「えっ、画集?」
「はい、これです」
結城さんは、書店のロゴが入ったビニル袋から分厚いハードカバーの冊子を取り出してみせた。少し前に発売されてかなり話題になったRPGゲームに関するアートブックだ。
「えっと……、買って良いって許可は出したっけ?」
「はい、昨年度の末に。あの時は、好きにしていいって言ってくれました」
そう言われればそうだった。すっかり忘れていた。
「領収書を貰ってきましたので、お願いします」
と言って、結城さんは鞄から書籍の領収書を僕の方へ差し出してきた。
「あっ、うん……」僕は促されるまま、領収書を受け取った。「うわっ、高!」
値段を見て驚いた。五桁に達している!
「それだけの価値のある本だから」
結城さんの口調は当然だと言わんばかりだった。
――まずいぞ、まだ予算が承認されていないのに……。早く書類を作り直さないと!
僕と結城さんのやり取りが気になったのか、幸司とソンジュンも僕の席にやって来た。
「さっきから何やってんだ?」とソンジュン。
「あっ、それ」幸司の視線が結城さんの持つアートブックに向けられた。「そのゲームなら俺も知ってる。かなり話題になったよね」
「うん。わたしこの作品のビジュアルがとても好き」
結城さんがページをめくる。のどかな田園風景、重厚な石造りの城、陽の光も届かない深い谷底……、美術館に展示されていても違和感がないような美しいコンセプトアートが並んでいた。結城さんの話によると、その道ではかなり有名なアーティストが担当しているらしい。
「シナリオも、プレイヤーの意表を突くどんでん返しの連続で斬新だったって、話題になってたよね。今度俺もやってみようかなって思ってたところ」
幸司も興味深そうに絵を眺めていたが、ソンジュンだけは顔をしかめていた。
「そのゲームやたらムービーが多くて、操作も単調で、ゲームとしては酷いって、ネットショッピングのレビューに載ってたぜ」
「それは、些細なこと」結城さんがすぐさま異を唱えた。
「ムービーが観たけりゃ、映画館へ行けよ」言い返すソンジュン。
そして再び始まる、三人のゲーム論。
気づけば独り蚊帳の外に置かれた僕は、手持無沙汰を紛らわせようと、結城さんの手を離れテーブルに置かれたアートブックを引き寄せ、ページをめくった。絵心の無い僕から見ると、こんな絵が描けるなんてまるで魔法のようだ、と思う。
本の後半は、コンセプトを元に実際にゲームで使用された3DCGデータの作り方に関する解説が載っていた。城の造形から道端の石まで、非常に細かく作られているようだ。とてつもない手間と時間とお金がかかったのだろうと、曲がりなりにもゲームを作ったことのある僕には想像がついた。
ページをめくっていくと、ゲーム中に出てくる国王の寝室シーンの解説があった。ここでプレイヤーは国王に成りすましていた魔物と戦うらしい。偽国王は民衆に重税を課し贅沢三昧な生活を送っているという設定で、その寝室もとても絢爛豪華な内装だった。
――リリアーヌさんもきっとこんなベッドに寝ていたのかな。……重税は課していないと信じたいけど。
そして、最後のページまでめくると、付録のDVDが収められていた。なんと、実際にゲームで使われた3DCGデータの一部が記録されていて、商用・非商用問わず自由に改変して使用OKだという。……どおりで高いはずだ。
僕はスマホの画面を見た。リリアーヌさんは外で何が起こっているのかさっぱりわかっていない様子で、眠そうに欠伸をかみ殺していた。
「ねえ、結城さん、ちょっといい?」
僕は、何故か腕まくりしている部員たちの中にいる、結城さんへ声をかけた。
色白な細い手で拳を握る結城さんが振り返った。「何です、先輩? 今、手が離せないんですけど」
「うん、暴力はいけないな。どうしても白黒つけたかったら、部活らしくせめてゲームで決めてくれ」久しぶりに部長らしいことを言ったなと思いつつ、続けた。「そんな事より結城さん、少しの間この本を貸してくれないかな」
「えっ?」
結城さんの表情が露骨に歪む。一刻も早く自分が見たいのだろう。しかし、結城さんは頷いてくれた。
「わかりました、少しの間だけですよ」
「ありがとう」
お礼を言って、僕は本を自分の鞄にしまった。
本を見て閃いたことがある。これを利用すれば、リリアーヌさんの生活をもっと快適にできるかもしれない。
お読みいただきありがとうございます。
予定の1/4を過ぎたくらいですが、評価、感想、ご指摘、何なりと残していただけましたら幸いです。