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0 異世界からの逃亡

 王宮が敵の手に落ちようとしている。

 普段は静謐な城の中庭に、今は無数の松明が置かれ、城の白璧と夜空を赤く染めている。今朝、散歩で通った芝生は、分厚い鉄鎧に身を固めた殺気立つ傭兵たちによって無残に踏み荒らされ、午後、侍女たちとお茶を飲んだ東屋には、無機質な武具が乱雑に重ね置かれていた。そして、城のあちこちで、怒号と悲鳴が飛び交っている。


 そんな現実とは思えない光景を前にして、呆然と立ち尽くすリリアーヌの腕を、乳母のドロテが掴んだ。


「姫様、ここは危険です。お急ぎください」


 リリアーヌはようやく窓から離れた。それからドロテの先導で、城を占拠した傭兵たちの目をかいくぐり、なんとか城の奥にある小さな倉庫にたどり着いた。中に入り、粗末な閂で扉を塞いだ後、ドロテはリリアーヌに向かって尋ねた。

「お怪我はございませんか、姫様?」

「ええ、大丈夫。ばあやが居なかったら、今頃、どうなっていたことか。ありがとう」

「礼などいりません。姫様をお守りすることが、私奴の務めでございますから」

「でも、どうしてこんなことになってしまったの? ほんの一時間前までは、いつもと変わらない夜だったのに……」


 この日、リリアーヌは夕食を終えた後、独り自室で日課となっている読書をしていた。しばらくすると外が騒がしくなり、血相を変えたドロテがリリアーヌの部屋へ飛び込んできた。そして乳母は震える声で、「オデロンが謀反を起こした」と、王女に告げたのだ。

 オデロンは代々モンドール王家に仕える一族の出身で、彼も先代の地位を継ぎ、宰相の役職を担っていた。そのオデロンが突如大勢の傭兵を引き連れて王宮を包囲したのだ。宰相は既にリリアーヌの両親である国王と王妃を捕らえ、残りの王族、つまりリリアーヌを探しているという。彼女はすぐさまドロテに連れられ、王宮奥の倉庫まで逃げ出したのだった。


「でも、ばあやはいつかこうなるんじゃないかと思っていたのです」ドロテは口惜しそうに言った。「如何にもずる賢そうな顔じゃないですか、オデロンって男は。あいつだけは信用ならないと、私奴は国王様と王妃様に何度もご忠告申し上げたのですが……。お二人とも人を信用し過ぎです」

「ばあや、こんな時であっても、お父様の悪口は止めて」

 リリアーヌが嗜めると、ドロテはすぐに頭を下げた。

「口が過ぎました。申し訳ありません、姫様」

「ばあやがあたしたち家族のことを本当に心配してくれているのは嬉しいけど、言葉には気をつけてほしいわ。……それにしても、お父様とお母様は無事かしら?」

 ドロテは首を振った。「わかりません。ですが、いくらオデロンでも、一国の王をすぐに殺すことはできますまい」

 大義名分もなく王を殺して国を乗っ取ったとしても、臣民からそっぽを向かれるだろう、というのがドロテの考えだが、それを聞いてもリリアーヌは安心できなかった。

「お父様、お母様……」

 彼女の脳裏に、今日の夕食、他愛のない会話で笑っていた父親と母親の顔が浮かんだ。まだ数時間前の出来事だというのに、遠い昔の事のように思われた。


 幾つもの足音が、倉庫の前を通り過ぎていく。反逆者たちの魔の手はリリアーヌのすぐ近くまで迫っていた。


 リリアーヌは深呼吸すると、意を決して、ドロテに言った。

「ばあや、ずっとここで隠れているわけにはいかないわ。娘として、王族の一員として、反逆者と闘って、国王と王妃を救わないと」

 ドロテは目を丸くして、リリアーヌの腕を掴んだ。

「姫様、無茶です。お止め下さい。オデロンは大勢の戦士と魔術師を引き連れています。姫様お一人だけで勝てるわけないでしょう」

「でも、ここにいても、いずれは捕まってしまうわ。そうなるくらいなら、一か八かよ」

「いいえ、やけになってはいけません。闘うだけが道ではないのですから」

 と、リリアーヌが生まれた時からずっと側にいてくれた乳母は、諭すような口調で言った。

「じゃあ、他に手があるって言うの?」

「ここは、逃げ延びるのです」

 リリアーヌは耳を疑った。

「逃げる? 国を護ることを使命とした王族が、敵を前にして逃げるですって!」

「静かに、姫様」ドロテは落ち着いた声で言った。「オデロンはまだ王宮を制圧したに過ぎません。今は辺境の警備に当たっているグウェン将軍が今回の謀反の報を聞けば、必ずオデロン討伐の兵を挙げるはずです。将軍はオデロンと違って忠義に篤い方ですから。その時、錦の御旗となる方が必要です」

「それが、あたし、ということ?」

 ドロテは頷いた。「ええ、あるいは……次期国王であらせられるミシェル様が」

「お兄様! ……でもお兄様は今、留学中。それも行先は……」

「異世界です」ドロテは力強く言った。「ばあやが姫様をここにお連れした理由、判って頂けましたか?」


 リリアーヌは埃まみれの倉庫を見渡した。一見変哲の無い小さな物置部屋だが、実はここに、王族や一部の高級官僚のみしか知られていない隠し扉があり、その奥には異世界へ転移できる『トリイ』と呼ばれる装置があるのだ。


 ドロテは続けた。

「異世界へ逃げ込めば、オデロンもそう簡単に手出しはできません。そして、姫様は異世界でミシェル様を探し出し、この危機を伝えてほしいのです」

「でも待って、ばあや。アレを使って異世界に行くには非常に強い魔力が必要でしょ。ここにはお父様も一等魔術師もいないわよ」


 異世界転移装置を起動できるほどの魔力を持つ者は少ない。国と異世界転移装置の守護者たるモンドール王家は、代々強い魔力を持った者を輩出し、リリアーヌの父親も兄ミシェルも優秀な魔術の才を有しているが、一方でリリアーヌ自身はほとんど魔術を使えない。


「それは……」

 ドロテが口を開きかけたその時、ドンドンッと、倉庫の扉を激しく叩く音がした。兵士が中に入ろうとしているのだ。

「とにかく、姫様、急いでください」

 ドロテが奥へ行くよう促す。リリアーヌは小走りで倉庫の奥にある秘密の扉の前に向かった。そして、王族のみが知る秘密の暗号を使い、扉の鍵を開ける。


 隠し扉の先にある薄暗い部屋の中央に、リリアーヌの身長の二倍以上はあるだろう、ガラスの無い窓枠のようなものが、なんの支えもなく自立していた。これが異世界転移装置『トリイ』だ。二年前、留学先へ向かう兄をここで見送ったことを思い出す。この装置を今度は自分が使うことになるとは、リリアーヌは想像もしていなかった。


「どうするの、ばあや。これを動かす方法があるの?」

「しばらく、お待ちを」


 ドロテは装置の横に立つと、両手をかざし、ぶつぶつと小声で呪文のようなものを唱え始めた。すると、それまでただの古びた木枠に過ぎなかった『トリイ』が輝き始め、枠の中に光のカーテンのようなもやが現れた。


「ばあや、これはどういうこと?」


 ずっと身近にいたドロテが、父親や兄に匹敵する強力な魔力を持っている事実を初めて知って、リリアーヌは驚愕を隠せなかった。


「こう見えても若いころは、魔術の勉強をしていましてね。努力の甲斐もあって、一等魔術師の認定試験を受ける資格を得たこともあるのですよ」

「ドロテ、貴女は一体何者……」

 強い魔力に、緊急事態でも動じない冷静さ。リリアーヌは、ドロテが急に得体の知れない存在に変貌したかのように思えた。


 しかし、ドロテはいつもと変わらない、落ち着いた優しい声で答えた。

「ばあやはばあやです。昔も今も、姫様の安全と幸せを誰よりも願っております。さっ、姫様、時間がありません、早く『トリイ』を潜ってください」

「……わかったわ」

 今はドロテの言葉に従うしかない。

 どんな秘密があったとしても、リリアーヌにとって、誰より長く一緒に居てくれたドロテの言葉が一番信用できるからだ。


『トリイ』の前に立ち、リリアーヌは穏やかな視線を向けるドロテを見た。

「……ばあやはどうするの?」

「ここに残ります。今の私奴の魔力では一人転移させるのが精一杯ですから」

「そんな。ばあやを置いて一人で逃げるなんてできないわ」

「姫様……」ドロテは目を細めた。「ありがとうございます。でも私奴のことはご心配には及びません。オデロンもこんな口やかましいだけのおいぼれ婆さんに興味はないでしょうから」

「でも……」

「姫様、王族たるもの、ばあや一人のことよりも、王国全体を考えなければなりません。私奴はこちらで姫様がミシェル様を連れて帰ってくるのを待っております。姫様なら必ずできると信じております」

「ばあや……、わかった」リリアーヌは頰を拭くと、ドロテに向かって頷いてみせた。「必ず異世界でお兄様を見つけて、それから、この国を、お父様とお母様を救い出して見せる。ばあやもそれまでは生き延びて」


 リリアーヌは口を固く結び、『トリイ』を潜った。


ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー


 潜り抜けた先は、どうやら野外で、しかも夜のようだ。

 今リリアーヌが立っているところは、正方形の石畳で綺麗に舗装された道で、左右には道に沿って、薄ピンク色の花々を咲かせた木が等間隔に並び、枝に吊るされたランタンのようなもので照らされていた。その明かりのせいだろうか、空は曇っていないのに星は一つも見えない。


「ここが、お兄様のいる、異世界……」


 リリアーヌは石道に沿って歩き始めた。緑が多く、リリアーヌが暮らしていた王国とそれほど違うようには見えない。しかし、なんという空気の悪さだろう。息をするたび喉が痛い。それに、絶え間なく四方八方から不思議な力が伝わってくる。魔力をほとんど持たないリリアーヌでも感じられるほど、禍々しい力だ。兄ミシェルはこんな厳しい環境で暮らしているのかと思うと、ぞっとした。


 ――でも、国のため、お父様、お母様のため、ばあやのため、早くお兄様を探さないと。


 石道が途切れ、視界が開けた。

 そこから見た光景に、リリアーヌは驚愕した。天地がひっくり返ったのかと思えるほど、星々のような輝きに地面が覆われていたのだ。


 ――本当に、ここは異世界だ。


 眼下に広がる光景に目を奪われていたら、不意に、下から物音が聞こえた。どうやらここは高台で、道の先には下り階段が続いていた。その階段の途中に、リリアーヌより同い年かあるいは少し年上だと思われる一人の男の子が居た。ミシェルが留学するとき、リリアーヌも異世界の話を少しだけ聞いた記憶があるが、そこにもリリアーヌたちとほとんど変わらない人間が住んでいるという。彼は異世界の住人に違いない。

 少年は紺色の上下の服を着て、重そうな鞄を肩にかけている。王国では見慣れない格好だ。しかし、リリアーヌが一番奇妙に思ったのは、少年は小さな四角い鉄板のようなものを持ち上げて、リリアーヌの方へ向けていたのだ。

 この世界特有の儀式か何かだろうか? と思った時、少年と目が合った。


「あっ……」

 そう少年が呟いたように聞こえた。


 そして次の瞬間、鉄板から太陽のように眩しい光が発せられた。

 リリアーヌは視界が真っ白になるのと同時に、猛烈な力で体が引っ張られるのを感じた。

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