9.シスタリナの病
その日は体調が良くなかった。起きた瞬間から寒気と気だるさが襲いきて、寝台に逆戻りした。でも今日は休むわけにはいかなくて、無理やり立ち上がって服を着替えて、禊に行った。禊の冷たい水に浸かると、余計に寒気が増した。濡れた髪を拭きながら面会に向かう。
(目が霞んできたな…)
教皇とすれ違ったらその時に治療をお願いできるのに、今日に限って会わない。
神官に付き添われて面会を始める。祝福を授けると言いながらも、殆ど授けられなかった。そもそも能力が発現しないという最悪の結果をもたらしていた。
首を傾げる神官がようやく体調が悪いことに気付いて、部屋に帰ることを許してくれた。この前コルトロメイと色々あってズル休みしたから、罰として食事を抜かれたのが意外と辛かった。短いスパンでまた休むとどうなるか…と思ったけれど、能力が出ないなら仕方ない。
聖女の居住区まで送ってもらい、部屋の前にたどり着くと視界がふらついた。ちょうどアンゼリカの部屋の扉が開いて、中からコルトロメイが出てきた。コルトロメイと視線が合ったような気がした。
「第2聖女様?」
意識が保てない。ふらりと身体が傾ぐ。そのまま床に体を投げ出す。冷たい床の感触が肌に突き刺さるようだった。
「し、シスタリナ!」
コルトロメイの必死な声が聞こえたのを最後に
意識がぶつりと途切れた。
「ん…」
「あ、」
冷たい布が額に乗せられたら感触で目が覚めた。目を開くとコルトロメイが私を覗き込んでいた。驚いたように目を開いて、コルトロメイは小さく声を漏らした。身体が怠くて、動けない。冷たい布が気持ち良い。
「ここは…」
私の部屋だ。部屋の前で倒れて、たぶんコルトロメイが部屋に運んでくれたのだろう。
「やっぱりアンゼリカの部屋の方が良かったか?」
「……何故?」
アンゼリカの部屋…つまり私の元々の部屋には、もう入りたくない。色々思い出したくないから。良い思い出もほとんどない。
「広いし、色々あるし…寝台ももっと柔らかくて、毛布の質も」
「それは、アンゼリカのものでしょう」
もう私のものではないのに使えない。
コルトロメイは気まずそうに目を逸らした。
「そ、そっか」
「どうしてここにいるのですか」
冷たく問いかけると、コルトロメイはぎゅっと眉を寄せた。
「俺が居たら駄目なのか」
「…禁じられているのでしょう」
「あ、おい、泣くな」
熱が上がって目が潤むのは仕方ないことだろう。またキスされたら今度こそ立ち直れないような気がしたから、私はそっと顔をコルトロメイから逸らした。
「……その、この前のことは本当に済まなかった」
「…はい」
コルトロメイが私が思っていることを察したのか、本当に済まなそうに謝った。謝られると余計に、辛い。何でもなかった、ただの手段だった、と改めて言われたように感じた。
「どうして私に構うの」
「…どうして、って、そんなの俺が聞きたい」
「…また忘れさせれば良いの?もっと強く洗脳したら、いいの?」
ぽた、と涙がこぼれた。構われると余計に辛くなる。嫌いになるようにしたのに、どうして普通に話しかけてくるの。これ以上の洗脳なんて、したくないのに。
「もう分かんないよ…」
「嫌だ」
コルトロメイははっきりと、意思の強い言葉で拒絶した。
「また奪われるのは耐えられない」
そのくせに、コルトロメイの瞳が弱気に揺れた。
…また?やはり、記憶が戻りかけているのだろうか。
「あんたを大切にしたいのは…山々なんだ。もう泣いてほしくないし、寂しい時は側に居たい。思い出せないけれど、あんたのことがとても大切だったのは…理解してる。もしも嫌ではないならば、側にいさせてほしい」
真摯な瞳でコルトロメイが私を見つめた。どきりと心臓が高鳴る。
「駄目、かな」
そんな風に言われたら、断れない…
「他の神官たちや、教皇に見つからないなら」
「分かった」
コルトロメイは嬉しそうに笑った。私は身体の怠さが限界に達して、そのまま眠りに落ちた。
熱が下がるまで、コルトロメイは側にいてくれた。神官たちは、コルトロメイがアンゼリカといると思っているらしい。コルトロメイとアンゼリカの関係が気にならないといえば嘘になるけれど、積極的に尋ねたいような事柄でもなかった。むしろ聞きたくないような…話せば話すほど、コルトロメイは形こそ変わったけれど、中身はさほど変わっていないことに気付いた。
言葉遣いは乱暴だけど、今でも純粋無垢だ。今でも腐敗には心を痛め、苦しむ信者には手を差し伸べたいと心から思っている。
私が能力開発を進めているのだと言うと、コルトロメイは自分もそうだと話した。
「強くならなきゃって」
「…何故?コルトロメイのことは教団が守ってくれるでしょ」
「誰かを守るのに強くならなきゃならないと思ってた。たぶん、あんたのことなんだろうな」
コルトロメイはそう言って嘆息した。
「何かあったんだよな。それで、守れなかったんだろ、俺。確かに意識的に能力開発するまでは制御できていない程に弱かったし、祈ってばかりで身体の力もほとんどなかった」
その質問には答えるのはやめておいた。コルトロメイは私を守ってくれた、守り抜いた、とはいえない。コルトロメイはそれを悔やみに悔やんで、記憶を抜かれても意志だけは持ち続け、結果自分の能力開発や体を鍛える方向に向いたらしい。
「法衣ってあんまり作ってもらえないから、もう腕のボタンも閉まらないし、首元も苦しい」
だから着崩していたらしい。筋肉がついたから、とてもじゃないけれど昔の薄い身体の時に作った法衣は綺麗に収まらないようだ。教団的にはコルトロメイが服を着崩すような堕落感を持っていた方が都合が良いのだろう。基本的にはゆったりしたデザインの法衣だが、手首や首元だけきゅっと締まるため、その辺りが太ると辛いことになる。
「あとは…腕っ節の強い人になりたい、ってずっと思ってた」
「ずっと?」
「といってもここ3年くらい、かな。筋肉つけないといけないって」
コルトロメイには私の言葉が呪いのように付きまとっていたのだろうか。だったら、申し訳ない。コルトロメイなら弱くても嫌いにはならなかっただろうけれど。私が守ってあげたのだろうけれど…
「祈ってもどうにもならないことっていうのが、分かったんだよな」
「意外と…洗脳しきれてなかったのね」
捻じ曲げ損ねた部分からコルトロメイは自分を取り戻しつつあるようだった。自分の能力には自信があったから、こういうことがあると凹む。はあ、と溜息を吐くとコルトロメイは慌てた。
「洗脳し直すなよ!」
「キスしなかったら洗脳しないよ」
「…もうしないし」
コルトロメイは頬を染めて目線を泳がせた。
うん、しないようにしてほしい。
「ほっとするなよ…確かに昔とは違うかもしれないけど、今の俺は嫌いかよ」
急にコルトロメイが傷付いたようにそう言ったので、思わず笑ってしまった。
確かにコルトロメイは昔とは違う。信仰から抑圧していた感情を、素直に出すようになった。でもそれだけで、根っこの部分は何1つ変わっていない。
「嫌いじゃないけど、強引すぎてどうしたらいいのかわかんないの」
「じゃ、じゃあ、優しくしたら、…優しくお願いしたら、していいのか?」
「さっきもうしないって言わなかった?」
「例えばの話だ!」
強引に迫られると、頷いてしまいそうになる。奪われたくなる。だから嫌だ。たぶん逃げきれないし、そのまま洗脳を解いてしまうかもしれない。私に主導権がない状態は危ない。冷静でいないとどんな洗脳をしてしまうことか。
「き、キスして、いい?」
コルトロメイがついに私に聞いた。私は笑顔で答える。
「だめ」
「…どうして?」
「洗脳したくなるから」
「どう洗脳するかによる」
「思い出して欲しくなるの」
「…思い出したいのだが」
「今はだめ」
今は駄目。全部終わってから。そうでないと、また引き離されてしまう。
「コルトロメイだって、私のこと薄っすら思い出したみたいだけど、それって別に好きとは違うでしょう?」
「……」
「懐かしいとか、あの頃好きだったって感情に振り回されているだけに見えるの」
「…やっぱり我慢するのやめた」
「え、なに、」
高説垂れてたはずなのにコルトロメイがじとっと私を見下ろして、ぎゅっと強く抱き締めた。息が思わず出るほどに強かった。苦しくは、ない。
「話してて思ったけど、俺あんたのこと好きだよ。暗示なんか忘れるくらい、話していたら普通に惹かれた。思い出したとかそういうの関係なく、ただ1人の男として惹かれた。それもだめ?」
ど、ど直球…
心臓が痛いくらい鼓動する。ドキドキが止まらない。どうしよう、普通にコルトロメイに恋してしまう。私だって、丁寧で優しいコルトロメイが好きだと思っていたけれど、今の強引で気の強いコルトロメイも…それはそれでアリだと思う…って何これ。
守ってあげなきゃ、って思っていたのに。守りたいって言われると、弱音を吐きたくなる。負けそうになる。頼ってしまう。
少し力が緩んで、コルトロメイが私の目を見つめた。縋るような目をされると、つい口から優しい言葉が滑り落ちる。
「わ、悪くは、ないけど」
…負けた。普通に負けた。当たり前のように負けた。白旗を上げてしまった。
「今すぐには無理だろうけれど、いつか今の俺のことも好きになって」
「…は、はい」
勝てるわけがなかった…耳元でそう言われると、顔を真っ赤にして頷くことしかできなかった。
(どうしよう、また、恋してしまう)
許されないのに。どうしようもなく惹かれてしまう。諦めたことはなかったけれど、2人で生きる未来を探してしまう。ここに救いがないことを、また自覚してしまう。早まってまたミスを犯してしまう。自制、しないと。
少なくとも今のコルトロメイは、アンゼリカのものなのだから。
私に惹かれるのは昔の記憶が蘇りつつあるからで、今のコルトロメイはアンゼリカが好き、なのだから。
「でも泣いたら問答無用でキスするからな」
「えっ」
なぜか泣きそうになったのを必死で堪えると、コルトロメイが気付いてそう警告した。
「…他に泣き止ませ方知らないから」
不器用か…!あの頃の、あわあわと慌てるだけであろうコルトロメイが懐かしい。こんなに心の余裕を奪いに来るとは思わなかった…洗脳したあの時は思わなかった…こんなことになるなんて予想もしていなかったのだもの。
アンゼリカのことさえ無ければ、素直に好きだって、言えていたかもしれない。