7.第2聖女シスタリナ
「シスタリナ様、その衣装は貧乏くさくて見苦しくてよ」
「ご忠告どうもありがとう、アンゼリカ様」
つん、と濃い桃色のウェーブがかかった髪をたなびかせて、美女が私に嫌味を言って横に並んだ。彼女はアンゼリカ。第1聖女の名を冠する、教団の新しい腐敗仲間だ。私と同じように洗脳能力を持つ。もっとも彼女は私のように記憶すら捻じ曲げるほどの能力は持っていない。感情を増幅して思考を転がす程度の可愛らしい能力だ。だけど、私が心から屈服していないし信用もできないと見ている教皇たちは、彼女のほうを重用している。だから私はわざわざ位を落とされ、第2聖女になった。
(別に、どうでもいいけど)
自分の位に拘りも、誇りもない。私はただの洗脳要員。贅沢させても意味がないと分かった教皇達からは、粗末なものしか与えられなくなったし。
あの日から、もう3年。
私は3年前のことを何1つとして忘れていない。コルトロメイと過ごした日々を。教皇が私にしたことを。
(貴女を愛していました)
コルトロメイの言葉は未だに耳に熱を持って蘇る。最後の最後まで言えなかった、返事も。愛してると返せばよかったけれど、きっと返したらもう、洗脳なんてできなかっただろう。
そしてそのコルトロメイは----今や立派な汚職神官だ。コルトロメイは異例のスピードで出世している。それはつまり、かなりの数の神罰を下して教団に貢献したということに他ならない。
世間の目に触れるほどの神罰があったのは、人伝に聞いた。大体的な神罰だったという。村1つを覆うくらいに、大きかったと。教団は神の怒りを報じ、民は恐れた。結果的に大量の信者を得られた。これはコルトロメイの仕業で間違いない。
「あ、コルトロメイだ!コルトロメイ!」
隣を歩くアンゼリカが千切れるほどに手を振った。遠くにコルトロメイがいるのが私の目にも見えた。コルトロメイは、アンゼリカを見て、それから隣の私に目線を移して----嫌な顔をした。法衣をだらしなく着崩したコルトロメイ目掛けてアンゼリカが走って行く。私は足を止めた。
アンゼリカが嬉しそうにコルトロメイに飛び付く。ああもう。…見ていられない。
自分でかけておいてアレだが、洗脳はかなり上手くできた。勿論あの場面でコルトロメイの心が弱っていた、というのもあるけれど、コルトロメイを上手く壊さず、人格を完璧に変えた。コルトロメイは、コルトロメイであってコルトロメイではない。私の知るコルトロメイは死んでしまって、今の汚いコルトロメイが生まれた。正確には私がそういう風に作り出した。コルトロメイは目覚めた時には当然私のことなんて何1つとして覚えていなかった。2人で苦しんだ記憶も、愛したことも。
コルトロメイは好戦的に、能力を使いたがるようになった。それから酒や賭け事に興じるようになった。多分アンゼリカがコルトロメイの恋人なのだろうから、そういった抵抗もきれいさっぱり消えたのだろう。はあ、胸が痛い。自業自得で作った傷ほど痛むものはない。
「頭、痛いな…」
私にもコルトロメイと同じ暗示がかけられれば、良かったのに。違う人間になるよう洗脳できれば良かったのに。コルトロメイのことをきれいに忘れられば、ここまで辛くはなかっただろうに。残念ながら自分の能力は自分には効かないのが基本だ。
コルトロメイがかつて私を毎日送ってくれていたあの部屋は、今はアンゼリカが使っている。私はもう少し離れたところにある、物置のような小部屋に押し込められた。食事は1日に2度、質素で味のほとんどないもの。衣装は山ほど持っていたけれど、ほとんどアンゼリカの部屋に置き去りだ。どうせ部屋に入らないから、持てない。必要最低限何枚かだけ。良い待遇とは言えないが、むしろそのほうが良かった。私の中の復讐心を消さずにいてくれる。アンゼリカを部屋まで送るコルトロメイの足音を聞いて苦しくなるのも、今の私にはある意味必要なものだった。
それに、私だってただ漫然と日々過ごしていたわけではない。信者の洗脳を解くのは、私の使命だと思っている。とにかく私はこの教団が憎い。自分が腐敗に取り込まれていた時はただ鬱陶しいと思っていただけなのだが、今ではコルトロメイを取られて、目標がはっきりとしたような。もうこれ以上恐れるものがないような。負けても失うものがないからこそ、冷静でいられるというか。
だから私は自分の能力開発に乗り出した。
意図的にこう進化させたいと思いながら能力を使っていると、進化する可能性が上がる。能力開発をするには年がいきすぎているが、不可能ではない。私は信者たちに真剣に洗脳を施した。
私が会得したのは、二重の洗脳だった。一度に2度、時間差で洗脳がかかる。1度目は寄付を募るいつもの内容、2度目は、1度目とは真逆のことを。言葉で1度目の洗脳を行い、心の中で念じた言葉で2度目の洗脳を行う。ただいつかかるのか、正確には分からない。何人かこれで正気に返って教団を抜けている、はず。だが簡単に暴動を起こすような攻撃性は出さない。信者の数がどうとか、寄付がどうという情報は私には入りにくいから、どこまで上手く行っているのか、なんともいえない。
----というか、3年前の私はお馬鹿だった。あまりにもお粗末だった。外の世界のことを何にも知らないのに、お金も持たずに身一つで出てどうやって生活するつもりだったのか。誰か後ろ盾を探さないといけない。それに、信者たちの暴動が起きるのを待つのは非効率的だ。いつかわからない暴動を待つだけではちゃんとした準備もできなかっただろうに。その辺りを深く反省して、今度は後ろ盾が見つかり次第暴動を誘発するつもりだ。
はあ、と溜息を吐き出す。
頭痛が治ってきたので、少し歩くことにした。外の空気を吸うと気分転換になるからだ。
庭までなら出ても咎められないので、最近は気晴らしに歩いたり、芝生に寝そべったりしている。小部屋を出て廊下を歩く。広いアンゼリカの部屋の前を横切って、庭へ。芝生の上に腰を下ろして、深呼吸。
アンゼリカとコルトロメイが一緒にいるのを見るのは辛い。でもこれだけ毎日見せられて、毎日涙が出るのは、いい加減心身に良くない。
「っ、」
ぼたりと顎を伝って涙が地面に落ちた。指で目を擦っても、涙は止まらなかった。
かさ、と草を踏みしめる音がした。私は思わず固まって、振り返る。背後の庭の入り口には腕にアンゼリカが纏わり付いたままのコルトロメイがいた。
「……」
「シスタリナ様?」
アンゼリカがぽかんと私を見つめ、それからコルトロメイを見つめた。コルトロメイは眉をぎゅっと寄せて私を睨む。…この泣き顔、2人のどちらにも見せたくなかったな。ぐず、と鼻をすすって立ち上がる。
「失礼しました」
声が震えていたけれど、聖女らしく綺麗に一礼した。早々に消えよう。まさか2人がこの中庭に来るとは思わなかったのだ。2人ならもっと広くて綺麗な庭園に行けるから。わざわざこの狭い庭に来るなんて。
頭を上げると、コルトロメイはアンゼリカを振り払った。振り払って大股で私に近寄り、びっくりする私の肩を両手で掴んだ。着崩した法衣が目につく。緩んだ首元や、袖を捲った腕が。…あ、3年前より筋肉ついている。鍛えているのかな。
コルトロメイは私の顔を覗き込んで、苦しげに顔を歪めた。
「泣くな」
優しく純粋だった、私が知るコルトロメイの言葉ではなかった。乱暴さが滲む言葉遣いなのに、それでも私には優しく聞こえた。丁寧に話されなくても、コルトロメイは…
「もう泣かないわ」
思わずそう答えて、意識的に呼吸した。なるべく平気に見えるように微笑む。最後の涙が頬を伝っていった。コルトロメイははっとして私から手を離す。
「ありがとうございます、神官さま」
お礼を言って、聖女らしく浅い礼をした。顔を上げるとコルトロメイは不思議そうに首を傾げていた。
コルトロメイは私のことを覚えていない。それなのに、私のことが嫌い。そういう洗脳だった。
「コルトロメイ」
コルトロメイの後ろにいたアンゼリカが、震える声で呼んだ。
「なに」
コルトロメイは慣れた様子で気怠げに答える。
「もう行きましょう。その人にはあまり関わるなって、言われたでしょう」
アンゼリカが青ざめた顔で言う。関わるな、か。確かに私の手が及ぶ範囲なら、洗脳されるかもしれないから、妥当な判断だ。今のコルトロメイには迷いがないだろうから、そう簡単には洗脳を受け付けるとは思わないけれど。…それでも私が本気を出せば、洗脳できてしまうのは事実だ。
「でも」
「コルトロメイ!」
「…わかったよ」
コルトロメイが何か言おうとして、アンゼリカが叫んだ。コルトロメイは諦めて、くるりと背を向ける。コルトロメイは去り際に私にひらりと手を振った。
「じゃあな」
「さようなら」
私は聖女らしく、晴れやかに笑って見送った。
コルトロメイとアンゼリカが立ち去って、私は膝から力が抜けてまた芝生にへなへなと座り込んだ。なんだったのだろう、今のは。3年ぶりにコルトロメイに話しかけられて、全然違う人間になっているのに、どきどきした。胸が苦しかった。泣くな、って言われた。嬉しかった。私はまだ、戦える。
「第2聖女様」
その日は神殿内を付き添いの神官無しで歩いていた。珍しく誰も付いてこなかった。多分前日に起こった神罰の影響で教えを乞う信者が沢山押し寄せて、神官の殆どが出払っているせいだろう。私がコルトロメイを盾に取られて動けないのもみんなよく解っていることだろうし、今更監視は必要ないと思われたのか。
歩いていると少し前からコルトロメイがやってきて、私の前に立ち塞がった。
「どうされましたか、神官さま」
硬い声で問うと、コルトロメイは一瞬表情を歪めた。
「この広い神殿の中でお一人では迷うでしょう」
「案内してくださるのですか」
「お望みであれば」
コルトロメイはそう言って一礼した。5歳からここにいるのだから、私が歩き回れる範囲で迷うわけはないけれど、コルトロメイにそう言われると断れなかった。
「でしたら、面会の時間まで庭に出たいと思います。連れて行って頂けますか」
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
コルトロメイは私の前を歩き始める。私はしずしずと、その後ろを付いて行った。コルトロメイは少し早足で、付いていくのは大変だった。
(綺麗な花畑…)
教団が神に捧げるために栽培している花畑にコルトロメイは連れてきてくれた。色とりどりの花が咲き誇る、一面花の光景は壮観で、大した広さではなかったけれど、いつもの狭い庭よりもずっと広くて感動した。狭い箱庭に閉じ込められていた私が見る景色では一番良いものだった。
コルトロメイと私は傍のベンチに座る。コルトロメイは不躾に私の顔を見つめた。
「私とは会わないように言いつけられているのでは」
コルトロメイがあまりにも黙り込むので、私から聞いた。アンゼリカがそう言っていたのだから間違いないはずで、神官か教皇に言われたならその命令は絶対遵守のはずだ。私が洗脳したのだから、間違いない。
「別に」
コルトロメイはふと、私を鋭く睨んだ。
「私のことがお嫌いでしょう」
「あんた俺に洗脳かけた?」
びくり、と思わず手が震えた。コルトロメイはその一瞬を見逃さなかったし、訝しげに細められた瞳はよけいに鋭くなった。
「じゃないと説明つかないもんな」
コルトロメイは嘆息した。私は、よく分からなくて視線を地面に投げかけた。
「あんた実は洗脳下手くそなんだな。俺がこのまま自力で洗脳を解いていったら、どうなんの?」
「下手くそ…?」
それは聞き捨てならない。私がコルトロメイを壊さぬよう、必死で手加減したのが仇となって半端に解けてしまったのだろうか。人格は完璧に変わっているけれど、記憶を取り戻しつつあるのだろうか…
「何もかもがちぐはぐなんだよ。人に対する感想とか。神官さまの言うことには間違いだと解っていても従わずにはいられない。好きでもないのに肉を見たら食べたくなる。酒も別に好みじゃないけど飲まなきゃならない。賭けなんか何が面白いのか分からないのに誘われればやらずにはいられない。あんたを見ると胸糞悪いのに、泣いてると放っておけないし、目で追ってしまう。なんかあったんだろ、俺たち。だから俺を洗脳したんだろ」
「…左様ですか」
「で、このまま洗脳を自力で解いても良いのだけど、時間がかかるだろ。ここまで気付いたならあとはもうどうだっていい。俺の暗示を解け」
吃驚した。洗脳に抗おうとしていることにもだけれど、洗脳に気付いていることに。
「できません」
少なくとも今は。今思い出しても、辛いだけ。何も状況は変わらない。
私が硬い声で突っぱねると、コルトロメイは不満そうに私を見下ろした。
「忘れておいたほうが良いこともあるでしょう」
「もっと強引にしたほうが好みか?」
「どういう意味でしょう…っ、あ!」
コルトロメイは私の顎を掴んで、顔をぐいと近付けた。息がかかるほど近い。冷たいコルトロメイの視線が突き刺さるよう。
「キスしたら洗脳かけられるんだろう?俺に思い出してほしくはない?」
「ちょ、」
ち、近い…!頭が真っ白になりそう…コルトロメイがますます顔を近付けた。
「……ぁ」
思わず声が漏れた。コルトロメイは動きを止めて、私の顔色を伺うようにじっと見つめた。紫の目が、3年前と同じように私を見ている。私に触れたコルトロメイの手は、人間らしい温かい温度をしていた。
(貴女を愛していました)
あの日と全く違う温度で、コルトロメイが、私に触れている。
「や、…やめ」
そう思うと背筋が凍った。か細い声で拒否を示すと、コルトロメイはすっと手を離した。コルトロメイが離れて、立ち上がる。急に両目からぼたりと涙が滑り落ちた。そんなつもりは、なかったのに。溢れる涙を袖で拭う。怖かったわけじゃない。驚いてはいるけれど、この程度で泣くような私じゃなかったはずだ。なのに、なのに。
止まらなくて、焦ってまた袖で涙を拭うと、コルトロメイが屈んでまた私に顔を近付けた。
「泣くな」
「…ん、…ふっ」
コルトロメイはそう言って、私に噛み付くようなキスをした。あぶない。思わず能力が出そうになる。能力を使わないように気を張っているつもりだったけれど、そこに集中すると身体の抵抗ができなかった。コルトロメイは私の頭を手のひらで抑えて、逃げられないようにしていた。
(いつか私を)
思い出してほしい、と思っていた。願っていた。いつか、いつかでいい。今じゃない。今思い出しても、また囚われるだけ。コルトロメイを愛している。だからこんなこと、したくない。私のことを好きじゃないコルトロメイとキスしたくない。なのに、コルトロメイに触れられると抵抗ができない。
(守りたいのに)
どうして守らせてくれないの。
「あ…」
唇が離れて、コルトロメイは赤い顔で私を見て…目を逸らした。私の涙は止まっていた。
「やば…」
コルトロメイはそう言って、唇についたどちらのものとも分からぬ唾液を袖で拭った。呆然とする私の唇も袖で拭って、また隣に腰掛ける。
「その、ごめん。勢いで…」
コルトロメイは目を逸らしたまま私に謝った。勢いで、か。…そっか。
胸が痛い。心が、張り裂けそう。近くにいるのにこんなにも遠い。私だけがこんなにも苦しんでいる。コルトロメイに知られたくない。今のコルトロメイには、特に…
「部屋に戻ります」
「お、送る」
「見張りなら結構です。逆らったりしません。面会は…今日は具合が悪いということにしておいてください。明日は頑張りますから」
「ま、」
コルトロメイが伸ばした手を振り払って、私は歩き始めた。止まっていた涙がまたぽたりと溢れた。
あれはコルトロメイじゃない。私が作った、偽物。コルトロメイはあんな人じゃない。嫌がる婦女に無理やりキスしたりしない。あんな乱暴な口付けはしない。コルトロメイは、コルトロメイは…!
葛藤しながら部屋に早足で入って、すとんと膝から力が抜けて床に座り込む。流れていた涙に嗚咽が混じり、呼吸が乱れる。
傷付いた。とても傷付いた。コルトロメイは私に口付けをした。それが嫌だったわけではない。
ただ、コルトロメイが私に口付けた理由が、私を誘惑して洗脳を解こうとしたから。私をただの手段で、道具として見做したから。私を私だと認めてくれなかったから。
「…ふっ、く、」
コルトロメイは、コルトロメイであって、コルトロメイではない。
今更そのことに傷付いて、大泣きした。枯れるほどに泣いたのは、その日が初めてだった。