6.ふたりの別れ
曖昧な意識の中で、靄がかかったようにくぐもった複数の男の声が聞こえた。それから、苦痛に泣き叫ぶコルトロメイの悲鳴が聞こえた。けたたましい鞭の唸り声が。シスタリナ、シスタリナ、と縋るようなコルトロメイのか細い声も聞こえたような気がした。嘲笑う声が続き、コルトロメイがゆっくりと言葉を失っていく。
「シスタリナ」
「…っぶ!ごふっ!」
バケツの水をかけられて目が覚めた。まともに鼻と器官に入り、咳き込む。息が、苦しい。喉が痛い。
私は先ほどまでの聖女らしい衣服ではなく、裁かれる罪人用の衣装を纏っていた。意味はわかる。私が罪を犯していることは、分かっている。
私の傍らには教皇が立っていた。教皇はいつもの口元だけの柔和な微笑みを浮かべたまま、見上げる私を冷たい目で見下ろした。
「シスタリナ、ついにやってしまったね」
「っ、」
教皇はやはり微笑んでいた。
「こうなることが、分かっていた、のでしょう」
喉が痛いけれど、喉から出た音は聖女らしい清らかなものだった。私が苦々しく見上げると、教皇は笑みを消した。
「分かっていたとも」
「っ、はあ」
息が、できない。恐ろしくて仕方ない。苦しい、苦しい…!ぜいぜいと荒い息を吐き出すと、教皇は言った。
「どんなに贅沢をさせて、待遇を良くしてもお前は従わない。コルトロメイはそもそも贅沢など望まない。だけどお前達2人はこの教団を支える2本の柱だ。だから2人ともこのまま上手く取り込むには、これが一番だろう?」
「ど、どういうこと、なの…」
教皇は今度は酷く恐ろしい、悪鬼のような笑みを浮かべて一歩私に近寄った。
「お前とコルトロメイを会わせれば、惹かれ合うと分かっていた。だからそれを利用した」
「っ、」
喉が詰まる。また息が、苦しい。
他に話し相手のいない私がコルトロメイに寄りかかるのも、汚れを知らないコルトロメイが聖女の私を好きになることも。全部、織り込み済みだった。分かっていた。仕組まれて、いた。
全く気付いていなかったわけではなかったのに、それでも惹かれた。どうしようもなく好きになった。どんな手を使っても2人で生きたいと、そう思ってしまった。その時点で私たちの浅はかな闘争は敗北していたというのに。
「さて」
ぱんぱん、と教皇が2度手を叩いた。ランプに火が灯され、その先に呻くコルトロメイが神官2人に腕を掴まれて座らされていた。コルトロメイの法衣は乱れ、あちこちに裂傷が走っている。それは鞭打ちの痕に見えた。
「コルトロメイ!」
コルトロメイは失血しすぎて真っ青になっていた。私の呼びかけに、弱々しく目を開ける。…意識はある。
「しす、たりな」
ゆっくり、小さくコルトロメイが私の名を呼んだ。
私の前に教皇が立ちふさがる。教皇は私とコルトロメイを見比べて、こう言った。
「君が眠っている間に少しお仕置きをしておいた。これで心が磨り減って弱ったことだろう。それからあの矢に塗り込んだ毒も完全に回っている。あと数刻、彼をこのままにしておけば死ぬ」
「死、ぬ」
「たとえ今すぐ彼を医務室へ運んでも、毒の治癒まではできないだろう。治せるのは私だけ」
教皇も、能力者だ。
教皇の能力は『人を癒すこと』。如何なる病も、傷も、毒でさえ、治療できる。だからこそ教皇。治癒能力は、能力者の中でも最高位の能力とされている。最も希少で、重要な能力だ。たしかにコルトロメイのこの傷は、教皇でなければ治せるものではないだろう。
「そんな、…そんな!」
そんなの嫌だ。私がどうなっても、それは自業自得だ。私は折檻も、死も覚悟の上で裏切った。コルトロメイは違う。コルトロメイは、私に巻き込まれただけ。コルトロメイは悪くない。
「コルトロメイを助けるなら道はたった1つ」
教皇はずい、と私に迫った。
「なあに、簡単だよ。君がいつもしていることさ。コルトロメイに祝福を与えてやれ」
祝福を。
私が呼吸を忘れて教皇を呆然と見つめると、教皇の笑みが邪悪に深まった。
でもそれでコルトロメイを助けてもらえるなら。
「コルトロメイは次に目を覚ました時にはすっかりシスタリナのことを忘れている。コルトロメイは聖女なんか嫌いだ。コルトロメイは神罰を当然の行いだと思っている。コルトロメイは神官の言うことを良く聞く。神官や教皇は絶対。それからコルトロメイは我々と同じように堕落する」
それが、目的か。腐敗に取り込もうとしたコルトロメイがあまりにも高潔すぎたから、私に洗脳させて汚そうとしている。
逆に私は反発心が強く、いつ裏切るか分からないから、コルトロメイという制御をつけた。こうしてコルトロメイが囚われてしまえば、コルトロメイを盾に取られれば私は言うことを聞くしかない。
こうすれば従順な奴隷を2人も手に入れることができる。心から腐敗に貢献する奴隷が2人も。
でも。
「…できないわ」
そんな暗示はかけられない。かけることは可能だ。だけど、それはコルトロメイをあまりにも捻じ曲げすぎる。
「そんなことをすれば、コルトロメイは…壊れてしまう」
「いいや、君にならできるさ。愛するコルトロメイを壊したりなど、しないだろう?」
「こんな心理状態で、まともに暗示がかけられるかも分からないのに!」
できない…!私にコルトロメイを壊すことは、できない。
「ならばコルトロメイには悪いが、死んでもらおう。なに、他にも氷の能力者は見つかる。別の柱を立てれば良いだけ」
「……っ」
「聞こえたか、コルトロメイ。シスタリナはお前を見捨てるそうだ。言っただろう?女なんて信頼するに値しないと。罪を持って生まれたお前に助けるような価値などない」
「やめて、やめて!」
見捨てたのではない。でも、私には、できないと、そう思っただけ。コルトロメイに、見捨てたなんて思われたくない。コルトロメイを見捨てる気はない。コルトロメイの瞳は濡れていた。コルトロメイは、泣いていた。静かに涙を流して、虚ろに私を見ていた。
「やめて…」
コルトロメイを壊したくない。だけど壊れてしまっても、いつか、治せるかもしれない。いつかまた、コルトロメイと逃げ出せるかもしれない。死んでしまえば何もかもがなくなる。全ての可能性を潰すよりは、ここで…
「するわ…彼を祝福する…だから、彼を治療して…お願いよ」
弱々しくそう言って、立ち上がる。一歩ずつコルトロメイに近寄り、コルトロメイの目の前にぺたりと座った。コルトロメイは涙に濡れた顔を弱々しく横に振った。
「シ、スタ…リナ、お願い、や、めて…私から、あなたを、奪わ、ないで」
コルトロメイは途切れ途切れにそう言ってまた頭を振った。
コルトロメイには私しかいなかった。気を許せるのも、心から信頼できるのも、私だけだった。コルトロメイの唯一だった。コルトロメイの心の拠り所だった。それを今から奪うと言うのだから、コルトロメイは心底恐ろしそうに抵抗した。
私はコルトロメイの紫の瞳を見つめながら、ゆっくりと言う。
「コルトロメイ、よく聞いてね。貴方はこの暗示が終われば眠るわ。眠って、起きた時には」
「シスタリナ、シスタリナ…」
「私のことなんてすっかり忘れているわ。それに貴方は、聖女が嫌いよ。だって聖女は嘘くさいもの。詐欺師だしね。顔も好みじゃないの。だから私のことは徹底的に避けてね」
「嫌、嫌だ、シスタリナ…」
「…貴方は、神罰を喜んで下すわ。能力で神殿を支えるの。それから、神官たちや教皇の言いつけは絶対よ」
「シスタリナ、シスタリナあ…」
ぼろぼろと涙を零して、コルトロメイは抵抗した。私はへらりと笑って、コルトロメイにまた語りかける。
「それから、俗人が好むようなことが大好きになるわ。酒や賭けごと、お金に贅沢。肉って美味しいのよ。私は牛が好き。コルトロメイもいろいろ食べてみてね。きっと気にいるから」
「シスタリナ…っ、わ、たし、は、貴女を…本当に…ほんと、に、忘れて、っ、しまうの、ですか…?」
「…忘れるわ。なにもかも。楽しかったことも、苦しかったことも、全て。貴方には何も残さないわ。新しい人生を生きるの。起きた時には全て終わっているから」
そう言うと、コルトロメイは涙を流しながら弱々しく、笑顔を作った。苦しげな笑顔だった。
「貴女を愛していました」
コルトロメイの顎を伝って落ちていった涙の粒が、氷となって床に落ち、その衝撃で脆く壊れた。それがあまりにも儚くて、あまりにも苦しくて、思わずコルトロメイの頬に触れた。泣かないで、コルトロメイ。これでしばらくのお別れよ。でもきっと助けるから。
ごめんね、コルトロメイ。私が間違ったばかりに。貴方を壊さぬよう、精一杯頑張るから。
「貴方に、祝福を」
私がそう言うと、コルトロメイは諦めたようにそっと目を閉じた。睫毛から涙が滴り、冷たい雫が掌を伝っていく。愛しい冷たさだった。コルトロメイの頬が、震えていた。触れた私の指先も同じように震えていた。お互いに、言い知れぬ苦しみと恐怖にひたすら堪えていた。コルトロメイはこれから襲い来る洗脳の衝撃に歯を食いしばって耐えようとしていた。きっと苦しいものになるだろう。簡単に終わるものでもないだろう。でも、そうしなければコルトロメイを救えない。
ゆるして、コルトロメイ。私はこの瞬間を決して忘れない。貴方の冷たさを。凍てつくような心の痛みを。貴方の代わりに覚えておく。
コルトロメイの唇に、ゆっくりと私の唇を重ねる。
生まれて初めてのキスは、冷たくて、涙のしょっぱい味がした。
(私も愛していたわ、コルトロメイ)
さようなら、コルトロメイ。さようなら、私の愛した人。…さようなら、私の大切な、コルトロメイ。
(いつか……私を、思い出してね)
脳が揺れ動くような、強い衝撃。優しく洗脳したかったけれど、不可能だ。コルトロメイを捻じ曲げるのはやはり重い仕事になる。コルトロメイはゆっくり意識を失っていった。同じように私も、倒れていくコルトロメイに覆いかぶさるように倒れこみ、意識を失った。