【一章第一話】 繋がれ人、酔い痴れ人。
二〇一六年 一月 十七日 日曜日
年が明けてまだ十七日、だんだんと世間が新年モードから平日モードに変わり、寒さも恋人が好くような程よい寒さから本格的な身を突刺す寒さへと移行されていく。
冬休みが終わって日数上はまだそんなに日が経ってないが俺たち学生にとってはもう当の昔のように感じる。
そして今日は休日、日曜日だ。
人々が趣味に明け暮れ休養を取っ足り、買い物に行ったり、友達と過ごしたり、各々が自由に過ごす日。
昼近くに起きた俺は昼飯を自分で作り、食し、皿を洗い。いつもの本屋に漫画やラノベを買いに足を延ばした。
正しくいつも通りの休日の過ごし方だ。
その時の俺は、あんなことになるとは思いもしなかった。
もしあの時それを知っていても力の無い俺には何も出来なかったであろう。
俺はいつもの本屋に、あの三階建てのいつもの本屋で、いつも通り漫画コーナからラノベコーナに向かって今期の1話を見てよかったアニメの原作を探しながらだらだらと徘徊していた。
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――俺はオタクである。
オタクには、様々な種類のオタクがいるが、俺は二次元に関してはただ次から次へと本を読み倒したり、ゲームの周回に熱をいれ、ネットの強敵と剣を交えたりする典型的な虹オタだ。
そして忘れてはいけないのが俺が歴史オタクだということだ。まーグーグル先生が優しく教えてくれたお陰だが。
戦艦や城の模型を作ったりする創作系のオタクでもある。
賢者がより良い知識を求めて勉学に励むようにオタクもより良い知識を得るため日々、漫画やアニメやラノベに向かい合わねばならない。
これが、オタクの使命でありオタクの道を行く者の務めであるのだ。
そんな俺が漫画やラノベを本棚からとったり元の位置に戻したりしていると、周りが騒がしく何か慌てたように人々は皆階段に向かって小走りに駆けてゆく。
「なんだぁ?」
そんな店内の雰囲気なんて正直どうでもよかったが何か得体の知れぬ寒気が自らの身体を駆け抜けた。
何故だか咄嗟に周りをキョロキョロを見渡してしまっていた。
濁った、そして重苦しい空気感。
いつもより数倍周囲が薄暗く、心なしかそんな空気感が此方を悍まし気に取り込んでくる。曇りよりも淀んだ禍々しい暗さ、何か底知れぬ狂気を感じる。
ここの常連である俺からしても困惑の色を隠せない、いや本屋でこんなにも人々が慌てているのは異常でありはじめてだ。
俺も気になって階段のほうに足を向ける。
ここの本屋は三階建てになっており一階は小説や雑誌などが、二階には少しお高い文房具や雑貨など俺とは無縁なものが売っている。三階はもちろん我々オタクが好くようなものがたくさん置いてある。
俺は皆の流れに合わせて階段の方に向かって歩き始めた。
「通り魔でも出たのかな? それとも衝突事故かな?」
下で何か良からぬ事が起こっているということは大体察することが出来る。
階段には、学校の踊り場のような場所がありそこは外が見渡せるせるようガラス張りとなっているのだ。
その周辺に集まった人々は皆何か可笑しなものでも見たかのように口をあんぐりと開けて驚き返っている。
いつもの見える景色はただのよくある自動車が行き交うだけの大きな道路だ……。いつもならな。
階段の近くに来たが、やはり人だかりが出来ていて普通ではなかった。
ただ人が一部に集まり過ぎて全然外が見えない。
「嘘だろ……」
「おい、やべぇぞ」
「なんだよあれ……おい、なあ!」
狼狽えるような声、訳の分からないと言った声音。
怒号や罵声が飛び交う人だかりを押しのけ突破しガラス越しに外の景色を覗く……。
黒煙渦巻くどす黒い灰の世界。
それは正しく俺の知る日常の光景なんてものから一番遠いモノであった。
そこには驚きの自分の予想を遥かに上回る光景が広がり待ち構えていた。
昼間の明るいはずの空が赤黒く染まっており、地上では血のような色をした炎が家々包み込み破壊と焼却の限りを尽くしている。
――陣笠を被り鉄の胴鎧に身を包んだ足軽に似た格好をした兵士たちや、重厚な鎧兜で完全武装し荒ぶる黒馬のようなものにまたがり手には十文字槍を持った暗黒の騎馬武者……。
数はどれくらいか分からない。多くも感じるし少なくも感じる。少なくとも恐怖で怯えてしまった俺の眼には物凄い数の敵が塊となって蠢いている様に見える。
奴らは一体化しているのだ一つの目標のために。多数の命が一つのものとなり肉を裂き、血を浴び、紅蓮の死と狂気を振りまきながらただ殺戮を求めて突き進む。
初めて物理的な人間の死を見た。
初めて殺戮というものを体で感じた。
車で逃げようにも前が人で詰まって車が動かず慌てて車から飛び出て走る人だかりに加わる人、後ろを振り返りながら逃げ惑う人々、足がもつれ歩みを止める人、黒々とした軍勢に飲み込まれる人。
どう見てもドラマの撮影などういう生易しいものではない。
夢、一番これが手っ取り早く全てを説明できそれで尚且つ自分までも納得させられることが出来るであろう。
現実を見ろ俺……。これは非現実的な事だが現実なんだよ。
あの狂気の軍勢がまだここに到達するまでは距離があるが、いずれあの黒々した部隊はここに押し寄せて来る。
殺戮という名の災厄をもって。
破壊の限りを残虐の限りを尽くして、きっと自分の前に死を持ってくる。
化け物……。
遠くからで見え辛いがあの軍勢は人の様には見えないそう感じる。
何か別の、なんというか、ほら、妖怪やグール・アンデットとかその類のような感じがする。どうやら時を超えて日ノ本の軍勢が攻めて来たのでは無さそうだ。
ただそれより見るからにも質の悪そうな相手なのかもしれない。
愛読している漫画の描写が頭をよぎる。
天啓の如くそれは一瞬で全てを分からせてしまった。
主人公の最後の切り札、今まで取り込んできた命の全てを開放する。そう、まさに『零号開放』で開放されたグールたちが集まって出来た死の川が迫って来るようだった。
汗が頬を伝って地面に落ちてゆく。異様に汗の落ちるスピードが遅く感じる。
ここにいる一同は困惑しているのだ。もちろん俺も……。一つ行動を間違えれば死に直結する、それがまた人々の判断を遅らせた。
どうすればいいか分からない、どうしていいかすら分からない。
時間はゆっくりとそして足早に俺達を置いていく。
俺たちは彼奴らが何なのかすら分からない。
どうしてこんな事になったのかも、何もかもが分からないことだらけだ。
――それでも唯一分かることはある。
あの軍勢は俺たちを殺そうとしている。
あの戦乱の一文字を形にしたような集団は確実に人を殺して回っているのだ。
そして人々はそれから命の限り逃げ尽くしている。
そして俺たちはここから逃げねばならない。
そりゃあこの建物に籠城出来るならしたいに決まっている。だが守る武器も兵器も兵力も知識も裕樹も全てが俺達には無かった。
何処へ行けばいいかは分からない、ただ少なくともここからは離れなければならない。でないとと殺される。
分かっている。分かっているさ……。そうだよ……。でも……。
体がすくんで動かない。足に命令を下しても足が上がらない。
ガタガタと命令外の動きしか体が動かないのだ。
生きてきて初めて感じた明確な死、そして死への恐怖。
「逃げろ!ここにいると殺される」
誰かがそう叫んだ。それはかなり震えた声だった。
ただそれに反応するように人々は足を動かし、駆けるように階段を下り始める。
俺はこの階段を下る列の前方に位置することが出来た。さっきの誰かの「逃げ」くらいで弾かれたように足が動いたのだ。声を出してくれた人に感謝したいとこだが、今はそんな余裕もない。
一秒一秒が長く感じる。階段を下りるのですら何十分も掛かってるようなそんな錯覚に囚われる……。
周りの人の声がやけに遠く感じる……。
足を進めども前に進んでいる気がしない。
それでも足を止めてはならない。
怒涛の勢いで、前の人を踏み殺す勢いで階段を駆け下りる人々。
そうだ、俺も必死に醜く生にしがみ付いて走っているんだ。
階段を下りるとすぐに本能のままに出口に向かって突進する自分。
どうやら一階の人はもう逃げたらしい客も店員も皆。
そして俺もこの場を後にした。
出口を出るとなんだか凍てつくような冷たさが体を突刺する。時間帯的には一日で一番暖かいはずなのだが体が震えている。恐れと寒さが混じり合い未知なる感覚を作り出しているのだ。
それでも、恐怖に討ち負けていようが……。
——人々は、走った。
不規則な心臓の高鳴りが内側から聞こえてくる。耳からは、人々の騒めき、叫び、断末魔など頭で処理できないくらいの膨大な量の悲鳴に似た何かが聞こえてくる。狂気の軍隊の雄たけびや鬨の声をバックに。
――俺は、走った。
どこかの親友を救おうとする牧人の様に、沈んでいく太陽の十倍もの速さで走った。いや逃げた……。盛大に前を走る人を押しのけ逃げた。
自らの事しか考えずに皆の世界を駆け抜けた。
ただ死ぬのが怖かったから。
少しでも長く生きたかった。
自分の身が可愛かった。
どこに逃げていいかは分からない。
どうしていいかすら、検討すらつかない。
そうだ! 家にに行って、食料や生活に必要なものやラノベや漫画を数冊持って逃げることにしよう。
もうここからこの町から逃げよう。奴らがいない何処かへ、平和と安寧があるどこかへ。
やっとこのくそッタレな街から離れることが出来る。
もう、一宮は終わりだ……。この一宮市は終わりだ……。
あの平和な日々は、戻って来ないだろう。きっときっと終わりだ……。
後ろで叫び声が聞こえる……。
大きな大きな断末魔が鼓膜を貫いた。
表現しがたい金切り声に近い、しかしながらそれとは全く違う響きや意味合いを持っていた。
振り返ると敵はもう直ぐ傍まで迫ってきている。
間近でで見るとやはり奴らは人ではなかった。悪魔のような形相、頭から角のようなものが生えているものもいた。
奴らは、鬼だ……。
紛う事無き鬼だ。
武器を血に染め人を追い回し、人を次々に斬攪していく。欲望のままに人を殺し、血を浴び、そしてまた殺す。
道中に転がる生首や、人間の手足。
生きることを諦め槍の海に飛び込む少女、腕を斬られ嘆く男。
皆誰しもが泣いていた。
靄のかかった最悪の風景が双眸にしかと映し出される。
そんな光景を見て胸にムカつきや、吐き気を覚えた。
だがこんな時に吐いている分けにはいかない。
そんな余裕があるなら一歩でも多く、少しでも早く前に進まなければならない。
喉の下まで迫ってきた嘔吐物を無理やりにも飲み込み腹に収め。走った。もう後ろは、振り返らないようにしよう。あのグロテスクな光景を見ないようにしよう。
考えただけでまた吐き気がしてきた……。
視界に一本が狭い裏道へ続く交差点が映り込んできたため、ここで曲がり。大通りを避けて人気のない小道に向かって足を進めた。
ここら辺の地形は、熟知している……。だから俺は、誰もいなさそうな道を選びジグザグと交差点を曲がりながら目的地に向かって突き進んだ。
顔から雫が流れ落ちていく。そうか……。 泣いていたのか……。
いつから泣いていたのかは分からない。分かる筈もない。
もうあの時から頭がこの展開に追いついていない。
ただ予想以上に早いペースで雫が頬を伝い落ちてゆく。
顔をこすり、涙をふき取った俺はただ周りを警戒しながら怯えたように走った。
盛大に俺は逃げた。