1.序章
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この世界には、絶対神がいる。
絶対神は天地を創造し、生命をも生み出し、彼らの運命を定めた。
その運命に、人は逆らうことなどできないのだろう。いまだかつて、そうできた人はいないのだから。
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住みなれた家の、古びた床に広がる真っ赤な鮮血。少しずつ少しずつ、それは面積を広げる。
その血溜まりの中に、娘を抱きかかえる青年がいた。
娘は口尻から血を流しながらも、口元を綻ばせる。
「生きて」
血を流す臓器は、娘の声を弱く儚いものにした。
けれど青年は確かに聞き取り、それが娘の、心のそこからの願いだと理解する。
娘は、顔を歪め、死へと歩む自分よりも辛く苦しそうな青年に、目を細めた。
――彼女は、自分が死ぬことを知っていた。
その世界の住人は、何度も同じ時を繰り返しているのだ。そして、生まれ変わる度に同じ運命が待っている。
彼女らの一挙一動に制限はない。しかし、要所は定められ、抗えず。結局どう行動したところで、運命が覆ることはなかった。
――彼女が運命に逆らおうとしたこともある。今世ではない、もう憶えていないくらい前の人生で。
けれど、平凡な、ただの小娘にそんなことは不可能だった。だからこうして、何度も同じ運命を辿る。青年の腕の中で、息絶える運命を。
――でも、娘は知っている。自分の死には、意味があるのだと。
――自分の死をきっかけに、青年の運命が動き出すのだと。
――そのための犠牲が、自分なのだと。
娘には、夢があった。最初の人生を歩んだ時に、願った未来。それは今でも夢のまま。
それでも。
(何度死んで生まれ変わっても、私はまた、貴方に逢いたい)
例え、青年と出逢うがゆえに、若くして死ぬ未来が決まっていたとしても。
――そう願ってしまうのだから、仕方ない。運命を受け入れよう。
諦めにも似た執着。願い。
――なんでもよかった。彼に、また逢えるのならば。
――たとえ、死が待っていようとも。
――青年と過ごせる時がわずかだとしても。
――後悔するなど、ありはしない。
青年が頬にかかる娘の黒髪を梳きやり、次いで頬を手のひらで包む。抱き寄せるようにして、唇を寄せた。
最初で最期の口付け。
だが、繰り返す運命の中で、もう数え切れないほど”最初で最期”の口付けをしている。
だから娘は目を閉じた。
青年は啄ばむように口付ける。柔らかく温かい感触だった。
余韻に浸るようにゆっくりと離れた青年の唇。
娘が目を開け、青年の顔を見つめれば、唇には血の赤が移っていた。それが艶やかで、誰もが見惚れるほどの色気を放っている。
(私は、笑むの)
それが絶対神に定められた運命。
(そして、貴方は涙を流すの。顔をくしゃくしゃにさせて)
それが絶対神が定めた運命。
娘は運命の通りに微笑む。絶対神どうこうではなく、青年に自分が幸せなのだと伝えたかった。
おそらく、これまでの運命でも、その気持ちは伝わっていただろう。それでも、過去の青年は、いつだって別れに身を引き裂かれる想いを表情に浮かべていた。
だからきっと今度も――。
(……え?)
娘は瞠目する。
苦痛に顔を歪めるはずの、そう定められたはずの青年は、鮮やかな赤が映える唇に弧を描いていたから。
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