胸キュンイベントに倫理観が勝利したので乙女ゲームヒロインを辞退……するはずだったのに
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「駄目だわ――倫理観が勝利する!」
ローナ・ロット男爵令嬢は、思いのたけをぶちまけるとベンチに突っ伏した。
ことの始まりは、学園生活の初日。
貴族の子息令嬢が集う学園に入学し、夢と希望に満ち溢れて校門をくぐった瞬間にそれは訪れた。
天変地異かというほどに視界が回り、地面が揺らぎ。
そうして意識が飛んだ際に、夢を見た。
日本に生まれ育ち、大人になって働き始め、姪が生まれて可愛がっていた、ごく普通の人生。
気が付くと医務室のベッドに横になっていたローナは、深いため息をついた。
「これ……『胸キュン学園』の世界よね」
口に出すのも恥ずかしいこの名前は、別にローナが考えたものではない。
日本でプレイしたことのある乙女ゲームの名前であり……つまり、ローナは異世界に転生したということになる。
「しかも『ローナ』って、ヒロインじゃないの」
まだ少しふらつく体を起こしてベッドの横に立つと、窓ガラスに反射して映る自分の姿をまじまじと見つめた。
「華やかなピンク色の髪に、宝石という例えが事実でしかない水色の瞳。……どこが「地味で平凡なヒロイン」なのやら」
絶世の美少女かと問われれば違うけれど、間違いなく可愛らしい容姿だ。
これが平凡地味だなんて、一体この世界はどれだけ美に溢れているというのだろう。
「……そうか。ここが『胸キュン学園』で私がヒロインなら、攻略対象の美男子が盛りだくさんってことよね」
一通りの攻略は済んでいたし、プレイをやめてから配信された追加キャラ以外は、大体覚えている。
「これはもしかして、めくるめく恋の予感……!?」
日本での人生に唯一悔いがあるとすれば、それは恋人ができなかったこと。
学生時代は部活、社会人になってからは仕事に打ち込んでいたせいで、男性との出会いが皆無だったのだ。
とはいえ、甘い恋愛に興味はある。
日本では乙女ゲームで癒されていたが、今のローナなら実体験として恋をできるかもしれない。
それも、選りすぐりの攻略対象と。
わくわくと胸を躍らせて教室に戻ったローナは、沢山の美男子を見てときめき……。
そして――絶望した。
最初は公爵令息だった。
金髪碧眼の美少年は、乙女ゲームの攻略対象に相応しい非の打ちどころのない容姿。
これぞ眼福と喜んでいたローナに近付いて来た彼は、にこりと微笑んだ。
「ふうん。まあまあ可愛いじゃないか。俺のそばに置いてやってもいいぜ」
その一言に、ローナの脳内でアラームが鳴り響く。
厳密に言えば、元々のローナならキュンとしただろう。
美少年に可愛いと言われたら嬉しいし、ちょっと強引なところも男らしいし、もっとお話ししてみたい、と。
だがしかし、日本の記憶を取り戻したローナはときめくどころか引いていた。
他人の美醜を勝手に評価した挙句、本人にそれを悪気もなく宣言。
更に「そばにいたい」なんて一言も言っていないのに勝手に上から目線で許可を出してきた。
これはかなりのモラハラの気配がする。
そう結論付けたローナは「遠慮します」とだけ告げてさっさと立ち去った。
本当なら「私はそばにいたくない」と言ってやりたいが、身分の差もあるし下手に揉めたくないのでぐっと我慢する。
次に出会ったのは、男爵令息だ。
親同士で縁談が持ち上がっていたらしく、何故か既に婚約者気取りの彼はローナの手をぎゅっと握り締めた。
「どうせ結婚するんだし、先に相性を見ておくのも大切だと思わないか?」
つまり、婚前交渉をしようというお誘いだ。
貴族社会で未婚の令嬢の貞操は死守するのが当然。
それを婚約すら成立していない女性相手に無礼千万、セクハラ甚だしい。
実害を出す相手には容赦は不要。
ローナは絡めてきた彼の指を、反対方向に折り曲げた。
「思うわけがないでしょう。二度と近付かないで」
にこりと微笑みながら反撃すると、両親に訴えて縁談の芽を潰す。
どうやら各地で悪行を重ねていたらしく、口止め料を兼ねた幾ばくかの慰謝料も渡された。
次は騎士見習いだ。
子爵令息である彼は学園に通いながら騎士を目指しており、その剣の腕前から魔物の討伐にも同行するほどだという。
エンタメ感覚で遠くから稽古を見ていたら、何故か認知されていた。
「次の遠征は命に関わるかもしれない。たとえ肉体は滅んでも、魂は君のところに帰ってくるから」
突然そう告げられたローナは、人生で初めて目玉が飛び出そうという体験をした。
ローナの感覚としては、近所の中学生の部活を見守る通行人に近い。
そこに応援の気持ちはあっても、個人に対して恋慕など気配すらない。
あと、重い。
なんで恋人どころか友人ですらない相手の魂を受け取らなければいけないのだ。
責任を押しつけてくるのは、会社の無能上司だけでお腹いっぱいである。
「私は関係ないので、自宅に帰ってください」
がっくりと肩を落とす姿はちょっとかわいそうだったが、よく考えると辻斬りならぬ辻魂押しつけをされたローナの方がかわいそうだと思う。
次は、学園の講師だ。
歴史の授業を担当する彼は三十七歳らしい。
大人の余裕と知的な雰囲気で女生徒から絶大な人気を誇っていた。
いわゆるイケオジというやつかと感心していると、課題を提出した際に耳元で囁かれたのだ。
「いけないとわかっているけど、君だけが輝いて見えるんだ」
慌てて飛び退くと、彼は無駄に色気を放ちながら手招きしている。
二十歳の年の差に加え、この男は教職であり、ローナは生徒だ。
日本で可愛がっていた姪が十七歳になって三十七歳の男性教師にこんな風に手招きされていたらと思うと、おぞましくて怒りで震えがくる。
ローナは目にもとまらぬ高速で彼の手を叩き落とすと、そのまま教室を飛び出した。
「変態教師!」と罵りながら。
そして本日。
ローナの椅子に頬をこすりつけている同級生を見つけてそっと教室を離れ、中庭にやってきたのである。
「何が『胸キュン学園』よ。胸をキュンとさせてみなさいよ」
登場する男性の顔はいいものの、これでは『モヤモヤ学園』か『ドン引き学園』でしかない。
ベンチから体を起こして座り直すが、どうにも思い描いていた甘く華やかな乙女ゲームヒロインの生活ではない気がする。
四方八方から好意を向けられるのはさすがのヒロインパワーだが、全然嬉しくない。
今のところ全員を振っている形だが、これはローナの問題でもあった。
仮に日本の記憶を取り戻さなかったとしたら、恐らくはものの見え方がかなり違うのだろう。
公爵令息はちょっと強引な俺様系、子爵令息はお色気ありの大人恋愛、見習い騎士は献身的な愛、教師は禁断の関係を楽しめたのかもしれない。
……椅子に頬ずりだけは、どうあがいてもただの変態ではあるが。
「恋、してみたかったのにな……」
空に向けてひとり言を放つと、盛大なため息をつく。
だが、どうしても倫理観が勝利するのでときめききれない。
乙女ゲームのヒロインの年齢が若めに設定されているのは見た目の問題ではなく、「現実的に男性を見る目を養いきれていないからこそ、ときめきが発生する」という悲しい現実を反映しているのかもしれない。
「箸が転んでもおかしい年頃」という言葉があるが、そのノリで「目が合ったら惚れる年頃」くらいのポテンシャルが必要なのだ。
「……よし、もう諦めよう」
勢いをつけてベンチから立ち上がると、決意を込めて拳を高く掲げる。
「誰とも恋愛フラグを立てずにヒロインを辞退する。そしていずれ倫理観に抵触しない胸キュンの恋をするのよ!」
「ぷっ」
「誰!?」
笑い声のした方に顔を向けると、木陰から現れたのは一人の男子生徒だ。
黒髪に眼鏡をかけた少年は少し気まずそうに姿を現すと、ローナの前で立ち止まる。
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「それならいいわ。さようなら」
「え、ちょっと待って」
さっさと立ち去ろうとすると、何故か少年が慌てて止めてきた。
まさか、惚れた腫れたではあるまいな。
セクハラ野郎の前例もあるので少し距離を取ると、少年は困ったように笑う。
「そんなに警戒しないで。君の手伝いをしたいだけ」
「手伝い? 何をするの?」
「よくわからない言葉もあったけど、要は学園内で男性に好かれて困っているんだろう?」
一体どこから聞いていたのやら。
とりあえず間違いはないのでうなずくと、少年もまたうなずき返した。
「それなら手っ取り早く適当な男性に恋人を演じてもらえばいい。相手がいる女性に無理強いはしないだろうし、その矛先は男性に向くだろう」
「どうかしら。「俺に惚れないおまえが悪い」と言われたこともあるから。逆恨みで私を襲うかも」
クソofクソな理論だが、そういう人間もいることを知ってしまった以上、変に刺激する真似は控えたい。
「それならむしろ俺をそばに置いて護衛代わりにすればいいよ。俺、それなりに強いし」
「はあ。……で、あなたは誰?」
ローナのそばにいたいという趣旨ではあるが、その目的に下心が見えない。
パッと見で顔と家名が一致しないのだから、いわゆる上位貴族ではなさそうなのが救いではある。
何せ乙女ゲーム世界で身分が高いと、必然的に攻略対象の可能性が高まるからだ。
そういう意味では黒髪に眼鏡というあまり目立たないいでたちは好感が持てる。
よほど視力が悪いのか眼鏡のレンズがぶ厚いらしく、無駄に反射して顔がよく見えないあたりも、美貌を振り撒く攻略対象とは真逆でありがたい。
「ようやく名前を聞いてくれた。本当に俺に興味がないんだね。……レスター・ウィルソンだよ」
「ウィルソン伯爵家の方ですか」
身分は決して低くはない。
だが正直なところハイスペック上等の乙女ゲームでは、攻略対象にするには物足りない。
つまり比較的安全な人間と言えるだろう。
「それで、どうして私の護衛を買って出るのですか?」
「そりゃあ、君が各地で男性に迫られては逃げているのを見かけたから。さすがに学園中であの調子では心が休まらないだろう」
「同情ですか?」
「そうなるのかな。興味があるのは否めないけど」
表情を見る限りは嘘を言っていない気がする。
それに変に自分を飾りたてずに正直に話しているのは好印象だ。
とはいえ、軽率に恋人役など頼めるはずもない。
考え込むローナを見て、レスターは少し気まずそうに口を開く。
「実を言うと、俺がここにいたのは男子生徒が覗き見していたからだよ。ベンチに転がった君を見て駆け寄ろうとしたから、止めて。そいつが逃げた後も念のため少し様子を見ていたんだ」
さらりと説明されたが、それって結構なピンチだったのでは。
ここは学園内とはいえ人気のない裏庭だ。
もし押し倒されでもしたら、撃退できたとしてもそれを吹聴されれば人生終了。
転生した記憶がよみがえって成人女性の思考が混じっただけで、貴族令嬢として生きてきたローナの腕力などたかが知れている。
最悪の未来にぞっとして思わず身震いすると、レスターが申し訳なさそうに表情を曇らせた。
「怖がらせてごめん。でもこの国であんなに元気に叫ぶ貴族令嬢を見たのは初めてで、ちょっと癒されたから。君が嫌な思いをするのは、俺も嫌だと思ったんだ」
「あなたには何の利益もないのに、ですか?」
「そうだな。じゃあ、堅苦しい言葉遣いはなしにして。その方が恋人っぽいだろう?」
それはほぼ、無償労働だ。
優しさがありがたいと思うのに、「タダより高いものはない」という言葉が決断を鈍らせる。
こういうところが胸キュン恋愛に向いていないのだろう。
「……恋人ではなく、友人という形なら。……お願いします」
「俺の利益、忘れないで」
ふう、とため息をつくと、ローナはレスターを真正面から見据えた。
「……友達で、お願い」
「いいよ。契約成立だ」
差し出された手を、一拍置いて握り返す。
想定外とはいえ、協力者ができたことだし。
誰とも恋愛フラグを立てずにヒロインを辞退してみせる!
「ローナ・ロットさん、初めて見た時から……」
「あ、友人がいるので間に合ってます」
皆まで言わせないぞ、という鋭い眼光と共にそう告げると、学園の廊下という非常識な場で告白しようとしてきた男子生徒は言葉に詰まる。
ローナの横ではレスターがたたずんでいるが、眼鏡のせいで表情はよく見えない。
「いや、友人はどうでもよくて。俺はローナさんが……」
「私の友人をどうでもいいと言う人と話すことはありません。失礼します」
男子生徒の言葉にかぶせるようにそう言うと、そのまま廊下を進んでいく。
今のはもちろんわざと会話を遮ったのだが、どうもこの告白システムは納得がいかない。
「大勢が見ている前で告白って、ずるくない? 話を聞かずに無視したらこっちが悪者だし、何となく周囲は応援ムードになるし。私の時間を勝手に奪っておいて罪悪感まで抱かせるなんて卑怯だわ。告白は一発逆転の手段じゃなくて、好意の確認よ。まずは関係性を築くのが基本でしょうが。せめて名乗りなさいよ」
彼に悪気はないのかもしれないが、一方的にローナが損である。
呼び出されてまさかの告白というのは本来、乙女的にはドキドキイベントなのだろう。
だが、もうローナにそれにときめく心はない。
今週五回目のゲリラ告白に、むしろちょっとイラっとした。
「……ああ。やっぱり私にはこの学園で恋なんて無理よ。小さなときめきを抱えて恋を育む力がなさすぎる。もうお見合いでもして、正面から釣り書きで殴り合うしか道はないのかもしれない」
果たしてそれが夢に見た「恋」と呼べるのか、甚だ疑問ではあるが。
「ローナは変なことばかり言うから、見ていて飽きないなあ」
のんきな感想に、ローナは少しばかりムッとする。
「レスターはいいわよね。男性は婚期に余裕があるし、伯爵令息なら身分も悪くないし。きっといずれは素敵な女の子とときめく恋をするんでしょう? 羨ましいわ」
そう、何よりも問題なのが貴族社会の婚期だ。
日本での婚期は大体二十代から三十代であり、成人後に恋をする時間の余裕がある。
だが貴族社会では年端もいかぬ頃に婚約することも普通で、二十歳をこえてくるともはや売れ残りのいきおくれ扱いだ。
現在ローナは十七歳。
この学園を卒業する頃には十八歳なので、だいぶ婚期が迫っている。
出会いから始めて関係性を築き甘い恋を味わうとなると、時間の余裕はあまりない。
「ああ、恋してみたかった……」
未練を成仏させるためにそう呟くと、中庭のベンチに勢いよく腰を下ろす。
「初めて会った時にも言っていたね。普通の恋がしたい、って。君に好意を寄せる人間は大勢いるけど、その中に恋の相手がいる可能性はないのかな」
レスターは隣に座りながら、少しばかり耳が痛いことを言い出した。
確かに乙女ゲームのヒロインなのだから、好意を伝えてくれた人のルートを突き進めばきっとハッピーエンドが約束されているのだろう。
少なくともプレイした攻略対象とは、何だかんだで最終的に幸せになっていた。
「いるとは思う。でもね、私がそのスタートラインに立てないの」
完璧な人間などいないとわかっている。
だがモラハラにセクハラに犯罪としか認識できない言動の相手を受け入れることはできそうになかった。
「大体、名前も知らない人に突然「好きだ」と言われても怖いだけよ。最低限、人となりを知って信頼できる人でないと。ときめくものも、ときめかないわ」
「ふうん。じゃあ――俺と恋してみる?」
「……え?」
今、妙な幻聴が聞こえた気がする。
恐る恐る様子を窺うとレスターの視線が鋭くなり、サッと校舎の方に向けられた。
それを追って顔を動かすと、そこには金髪碧眼の美少年が立っている。
どこかで見たような、見ていないような。
「ローナ・ロット! この裏切り者め!」
俺様モラハラ公爵令息だと認識するよりも早く、少年はナイフを取り出してこちらに向かって走り出した。
裏切るも何も、一度話しただけなのに⁉
反射的に立ち上がったものの、混乱と恐怖でそれ以上体が動かない。
するとローナの前に、すっとレスターが体を滑り込ませた。
「レスター……!」
止めなければ、ローナの身代りになって刺されてしまう。
思わず手を伸ばした瞬間、レスターはあっという間に公爵令息の手首を捻り上げて引き倒すと、その顔を地面に押しつけた。
容赦ない力加減に公爵令息の頬は潰れ、ぐえっという濁った声が響く。
握りしめられていたはずのナイフは震える手からぽとりと落ち、日の光を浴びてきらりと刃がきらめいた。
レスターは驚くローナにちらりと目を向けるとにこりと微笑む。
その笑顔に、ローナはようやく緊張が解けてほっと息を吐いた。
ああ、良かった。
怪我はしていないみたいだ。
レスターは「それなりに強い」と自分で言っていたが、この身のこなしからして真実なのだろう。
「ローナが裏切り者とは、随分な言葉だね。彼女と君に接点なんかないのに」
「お、俺が声をかけてやったのに「遠慮する」と言ったんだぞ。そろそろ後悔して俺のそばに戻るべきだろう。それを別の男と一緒にいるなんて、裏切り以外の何だというんだ!」
険しい表情から放たれた声に圧に少し気圧されるが、その内容が脳に届くと疑問しか浮かばない。
もしかして、「遠慮する」という言葉の意味がわからないのだろうか。
一体何がどうなってそうなるのかまったく理解できないが、とにかく公爵令息にとってローナは「自分に恋焦がれる女の子」であるらしい。
「ローナ。話が通じない相手は、一度しっかりしつけた方がいいよ」
「放せ、無礼者が! いたたたた!!」
しゃべりながらレスターが腕を捻るものだから、公爵令息の叫びがうるさい。
ローナはため息をつくと、地面に落ちたナイフを拾い上げる。
「理由はともかく、あなたは私に凶器を向けました。レスターがいなければ死んでいたかもしれない。それとも殺すつもりだったのですか?」
「違う。痛い目を見れば自分の過ちに気付くだろうと思ったんだ! さっさと俺を好きだと言って縋りつけばいいんだよ!」
「なるほど。痛い目を見ると自分の過ちに気付くのですね。では……」
ローナは素早くナイフを逆手に持ち帰ると、そのまま勢いよく公爵令息の目の前の地面に突き刺した。
高速移動するナイフが起こした風が、一拍遅れて公爵令息の前髪を揺らす。
「ふぃいいい!」
更に一拍遅れて、少年の口から蚊が暴風に巻き込まれたかのような細い高音が漏れた。
「本来でしたら男爵令嬢如きが公爵令息に物申すなんておこがましいのですが。どうやらあなたは言葉の意味を理解することも、態度を察することもできないようですので。僭越ながら本音を伝えさせていただきます」
にこりと微笑むローナを見て、何を勘違いしたのか公爵令息の表情が緩んだ。
「顔と身分だけの男が、偉そうに。一度話をしただけ。それもモラハラ臭しかしない相手に好意なんて持つわけがないでしょう。「遠慮する」っていうのは、「絶対嫌だ。二度と関わるな」ってことですよ。わかります?」
懇切丁寧に解説する間に、みるみる公爵令息の顔が真っ赤に染まっていく。
これが恥辱ならまだ可愛げもあるが、険しい顔からして怒りなのだろう。
ただの事実なのに、それを受け入れる器もないあたりが救えない。
「よくもこの俺を侮辱してくれたな。父上に言って、おまえの家を潰してやる! その上で俺の奴隷にして可愛がってやるよ!」
結局親に頼るのだから情けないが、この貴族社会ではかなりの効果があるのは事実。
実際に家を潰すまではいかずとも、それに近い窮地に追い込むことは可能だろう。
ああ、面倒くさい。
恋はできないし、絡まれるし、脅されるし。
乙女ゲームのヒロインなんか、なるものじゃない。
「……レスター、放してあげて」
ため息と共にそう告げると、レスターの腕が緩み、公爵令息が忌々しそうに舌打ちしながら立ち上がる。
にやにやと舐めるようにローナを見るあたり、勝利を確信しているのだろう。
「やっと素直になったか。まあ、俺の女になるなら許してやってもいい」
「いえ、結構です。私が男爵令嬢の身分を捨てます。平民になって国を出ますので、どうぞお構いなく」
「……は?」
貴族にとって身分は絶対。
箱入りの貴族令嬢は、家という後ろ盾を失えば平民以下の暮らしすらままならない。
良くて裕福な家の妾、あるいは娼婦、最悪はそのまま売られるか野垂れ死ぬ可能性が高い。
だがローナには自立した成人女性として働いた経験がある。
幸いにもこの世界の最低限の常識と貴族令嬢としての知識もあることだし、仕事をして一人で慎ましく生きるくらいは何とかなるだろう。
「ふ、ふざけるな。貴族令嬢が生きていけるわけがない。俺の女になるだけで一生安泰なんだぞ!?」
「そっちこそふざけないで。一生地獄だとわかっているのに、あなたを選ぶわけがないじゃない」
「この……!」
声を荒げて拳を振り上げた公爵令息の手を、レスターがいとも簡単につかんで止める。
「取り込み中、失礼。確認したいんだが、ローナは家を……国を離れることに迷いはないの?」
「この! 放せよ!」
顔を歪めて身をよじる公爵令息に対して、レスターの手は微動だにしない。
公爵令息が非力なだけかもしれないが、何にせよ暴力行為を封じてくれているのはありがたい。
「家族や使用人皆で路頭に迷うくらいなら、私一人で生きた方がいいもの。言葉も通じるし、周辺の国なら問題ないわ」
「じゃあ、隣国……リンデン王国は?」
「そうね。お隣なら移動も比較的楽だし、気候風土も似ていると学んだわ。悪くないわね。いっそ新しい国で新しい恋を目指すのもありかも」
家族仲は悪くないが、ローナは兄弟が多い。
跡継ぎは心配ないし、末の弟はまだまだ手がかかる年頃。
家を傾けるくらいなら、ローナの旅立ちを受け入れてくれるだろう。
「そうか」
レスターはほっとした様子で息を吐くと、掴んでいた公爵令息の手をゴミのようにポイと放り投げた。
特に力が入っていたようには見えないが、その勢いで公爵令息はたたらを踏んで転びそうになっている。
「ローナ、それならリンデン王国に行かない?」
「おまえ! 俺に対する無礼、許されると思うなよ」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ公爵令息の発言が物騒だが、レスターは完全に無視している。
「……別にいいけど。もしかして知り合いがいる? 就職先を紹介してもらえると助かるんだけど」
職場を一から探すよりも早い上に、ある程度信頼できる相手というのはありがたい。
貴族令嬢の体なので体力は若干心配だが、慣れれば筋力もつくだろう。
「うん。とびきりの伝手があるよ。リンデン王国内での安全と衣食住は保障する。基本的には今の生活とあまり変わらないと思う」
ということは、貴族の邸に住み込みで働くメイドあたりか。
仕事の内容はだいたいわかるし、貴族令嬢としての人生も活かせそうで悪くない。
「じゃあ、お願いできるかしら」
「もちろん」
「おいこら、無視するな! おまえの家がどうなってもいいのか!」
公爵令息が叫びながらもレスターと一定の距離を保っているのは、近付いたらかなわないとわかっているからなのだろう。
そう考えると、大型犬を前にして怯えながらキャンキャン吠える小型犬にも見えてきた。
「どうって……どうするつもりだ?」
不思議そうにレスターに問われ、何故か公爵令息は得意げに胸を張る。
「そりゃあ、慰謝料を支払わせたり、社交界で圧力を掛けたり……とにかく、この国でまともに生活できないと思え!」
びしっと指差されたレスターはしかし、特に気にする様子もない。
「そうか。じゃあ、俺もリンデン王国に戻ることにしよう」
「は!? ふざけるなよ。ウィルソン伯爵家は外国にも縁があるとはいえ、公爵家と伯爵家の家格の差は覆せないぞ! 謝るなら今のうちだ!」
「君は随分と身分を持ち出してくるね。身分の差で物事を押し進めるのが好きなのかな。……それじゃあ、要望に応えてあげようか」
レスターはそういうと、自身の眼鏡に手をかける。
ゆっくりとそれを外してポケットに収めるが、まるでその動きを追うかのように輝きがこぼれて見えた。
「え?」
比喩ではなく、本当に謎のエフェクトが舞っている。
気のせいか、「キラキラ」という音さえ聞こえるような気がした。
幻覚だろうかと困惑する間にそれは消え、後に残ったのは黒髪に緑色の瞳の美少年だった。
そう、「美」少年だ。
絹のように艶やかな黒髪がさらさらと揺れ、瞳は新緑の木漏れ日を閉じ込めたような緑色。
顔立ちは整っているというレベルを超えて、もはや神々しいほど。
印象に残らない黒髪眼鏡のレスターの面影はなく、攻略対象であるはずの公爵令息すらも霞む美しい少年がそこにいた。
「レ、レスター、よね?」
その場から動いていないのだから当然という気持ちと、一体誰なのだという動揺がぶつかって声が微かに震える。
「そうだよ」
あっさり肯定され、そうだよなと納得しかけるが、目の前の麗しい少年の姿にやっぱり混乱してしまう。
「こんなこと言うのも失礼だけど。……顔、どうしたの?」
恐る恐る問いかけると、黒髪の美少年は少し困ったように首を傾げた。
「ローナはこの顔、好みじゃない?」
「綺麗だとは思うけど、別人みたいで。何というか……見慣れないし、眩しくて疲れる」
「疲れる」
ちょっとショックを受けたらしく、レスターの言葉が途切れる。
ローナはそこでようやく、公爵令息が静かになっていることに気が付いた。
先程までぎゃあぎゃあと身分を振りかざして叫んでいたのに、ようやく改心したのだろうか。
だが公爵令息はまるで何かに怯えるかのように、口を開けたまま小さく震えていた。
「おまえ、その顔は……まさか。「レスター」って、そういう……!?」
公爵令息は何やら呟きながら、じりじりと後退っていく。
「ああ、君は身分の差で物事を押し進められたいんだよね。慰謝料に社交界での圧力。それから国内でまともに生活ができない、だったか」
レスターが指を折って数えた途端、公爵令息がその場に膝をついた。
「どうか、お許しを! レスター・リンデン殿下!」
「――殿下!?」
ということは、レスターはリンデン王国の王族なのか。
公爵令息が顔を見て判断した上に、レスター自身も否定しないからには、恐らく真実なのだろう。
「そうだな。俺は君と違って身分を笠に着るのは好きではない。俺とローナに関わらず、他言しないというのなら、なかったことにしてもいい」
「あ、ありがとうございますっ!」
公爵令息は瞬時にそう答えると素早く立ち上がり、短距離走と見紛う速度で走り去った。
……いや、この状況でレスターと二人きりにしないでほしいのだが。
「ええと。それでは私も失礼いたしま……」
「ローナ」
愛想笑いを浮かべて立ち去ろうとするが、その一言に足が止まる。
隣国の王族だとわかってしまった以上、無視して逃げることもできない。
「言葉遣い。約束を忘れていない?」
「隣国の王族相手に敬語を使うなと仰るのですか」
たとえレスターが許可していても不敬だと罰されかねないし、何より心理的な負担が大きい。
するとローナの不満を察したらしく、レスターは申し訳なさそうに少し目を伏せた。
「騙すような形になって、ごめん。でもローナとは普通に話をしたいんだ」
寂しそうにそう言うと、ちらりとローナを見上げる。
同時に「キラリン」とか「シャラシャラ」とか謎の音と輝きが発生しているせいで、若干鬱陶しい。
おかげで美貌に惑わされずに済むのは、ありがたい。
「不敬罪を適用しないと約束してくださるのなら」
「もちろん」
言質を取ったので、一応は安心してもいいだろう。
流石に嘘をついてローナを罠に嵌めるような悪質な人間ではないことはわかっている。
「とりあえずは情報を整理させて。あなたは誰なの」
「レスター・リンデン。リンデン王国第三王子だよ。ウィルソン伯爵家は、祖母の実家だ」
がっつり、王族だ。
王太子でないことだけは救いだが、どちらにしてもこの学園内で恐らく一番身分が高い人間だろう。
「何で隠していたの? それに今までその眩しい顔じゃなかったわよね」
「王子として留学したら、至れり尽くせりのお客様扱いだろう? 俺は普通の学生として過ごしたかった。縁談狙いの令嬢に煩わされるのは、国内だけで十分。眼鏡は認識阻害の効果があるアイテムで、顔が印象に残らないようになっている」
そりゃあ、生きているだけでキラキラエフェクトを発するような麗しいお顔に加えて王子となれば、騒がれて当然だろう。
「だから、男子生徒に追い掛け回されるローナを見て放っておけなかった」
「私も助かったし、素性と素顔を考えれば隠して当然。事情は理解したわ。他言しないから安心して。今までありがとう」
「待って!」
疑問も解けてすっきり立ち去ろうとしたのに、その手を握られ止められる。
「何? 私が言いふらすとでも思ってる?」
「まさか。ローナはそんな人間じゃない。そうじゃなくて、リンデン王国に行くって話だけど」
「ああ」
そういえばそんな話をしていたような。
突然の美少年登場からの王子カミングアウトですっかり頭から抜けていた。
「でも、あの人はもう関わらないって約束してくれたし。無理に隣国に行かなくても」
「そうじゃなくて。ローナは言っていただろう? 「恋がしたい」って。その相手に俺を選んでくれないかな」
「……何で?」
首を傾げていると、レスターは意を決したようにまっすぐにローナを見つめた。
「――ローナが、好きだから」
「ええ⁉」
転生に気付いてから何十回も繰り返されたその言葉に、反射的に眉間に皺が寄った。
「……愛の告白でそんなに嫌そうな顔をされると思わなかったな」
「ああ、ごめん。レスターが嫌というよりも、「好き」って言葉が嫌なのよ。勝手に押しつけて、見返りを求められているみたいで」
別にレスターを非難するつもりはなかったのだか、さすがに態度が悪かった。
無自覚とはいえ、申し訳ない。
だがレスターは気分を害した様子もなく、それどころかうんうんとうなずいている。
「わかるよ。「だから何だ」と言いたいよね。聞いてもいないのに告げられて、間髪を開けずに返答を求めてくる。断るのもそれなりに苦痛なんだよな」
「そう、そうなの!」
思わず身を乗り出してうなずき、すぐに自分の非に気が付いてしまう。
「……だから恋ができないのよね、きっと。すぐにときめいて流されるくらいのチョロさが必要なんだわ」
「まあ、一理あるね。……ということで、「好き」以外でローナへの想いを伝えたいんだが。いいかな」
突然の告白は嫌だが、事前通告もちょっとあれだな。
とはいえ、お世話になった相手を無下にもできないし、まずは言い分を聞いてみてもいいかもしれない。
「わかったわ。じゃあ、何でそんな血迷ったことを言い出したのか。まずは原因を教えて」
「既にときめきもチョロさも期待できないけど……そういうところだろうな。散々好意を押しつけられ、女を前に出して擦り寄られ続けていたから。俺に興味がないのも、好意をすぐに受け入れてもらえないのも新鮮でドキドキする」
少し照れ臭そうに話す様はちょっと可愛いが、言っていることは「おもしれー女だな」である。
眼鏡キャラは外せば美形。
「おもしれー女」は逆に需要がある。
わかりきっていたことなのに、気付けなかった自分が悔しい。
「ローナの方はどう? 俺のことが嫌いなら仕方ないけど。恋してもいいと思う?」
「隣国は……別に行ってもいいけど。王子は……世継ぎでなければ、まあ貴族と同じようなものよね。顔は……正直、満点だと思う。性格は問題ないし、話も合うわね」
そこまで言うと、ハッとひらめいた。
性格良し、話が合う、眼福、男性除けにもなるし強い。
こんなに完璧な人はそうそういないだろう。
ローナはレスターの手をがしっと握り締めた。
「――レスター、親友になろう!」
「何でだよ!?」
間髪入れずに返ってきた叫びに、ちょっと驚いて手を放す。
「だって。レスターは唯一私に言い寄ってこなかった大切な人だもん。惚れた腫れたで距離が遠くなるの、もったいないじゃない」
男性は乙女ゲームヒロインに惚れてしまうし、女性は敵対心剥き出しか無関心。
たくさんの人に囲まれているのに、ローナは学園でひとりぼっちだ。
しょんぼりとうなだれると、レスターのため息が聞こえる。
「大切な人とか、軽々しく言わないで。勘違いするから」
「勘違いかぁ。いっそ思いっきり勘違いさせて、恋に落としてくれればいいのに」
仮にも乙女ゲームのヒロインなのだから、ときめきさえすればいい感じに恋愛ルートに進める……はずだ。
「じゃあ、これから卒業までの一年間、俺のことを見ていて。その間に好きになってもらえるように頑張るから」
「長期戦ね」
「そうなるね。短期決戦もいいけど……」
レスターはそういうと、ローナの顎に手をかけて顔を上に向かせた。
「――攫ってしまいたくなるから」
今までに聞いたことのないその声は、低く、甘く、ほのかに暗い。
美しい緑の瞳は吐息がかかるほどに近く、その輝きにどくんと鼓動が跳ねる。
その瞬間、ローナの脳内で「キュン」という鈴のような音が響いた。
「まあ、安心して。無理矢理行動してローナに嫌われたくないからね。気長に頑張るから大丈夫……」
すぐに手を放したレスターは笑いながらそう言いかけて、ぴたりと止まる。
理由なんて考えるまでもない。
ローナの顔が真っ赤だからだ。
顔に血が集まっているのがわかるし、熱い。
心臓がドキドキというよりもバクバクと動いていて、何だか息も苦しい。
自分でもどうしてこうなったのかわからなくて、とにかく冷まそうと頬を手で覆った。
「……あのさ。その反応だと、俺のことを少しは好きなのかなって勘違いするんだけど」
「仕方ないじゃない。私だってびっくりしてるのよ。今まで散々顔がいい男性に告白されたけど、何とも思わなかったのに。何で急に」
どうにか改善したくて頬をぺちぺちと叩くが、全然冷える気配がない。
「ローナは言っていたよね、「告白は一発逆転の手段じゃなくて、好意の確認。まずは関係性を築くのが基本」って」
確かに言ったし、今もその考えは変わっていない。
ローナがうなずくと、レスターの手がそっと頭を撫でた。
一体なんだろうとその様子を見ていると、何故か困ったように笑っている。
「俺が触れても警戒しない程度には信頼関係を築けた。その上で告白されて、初めて本当にときめいたんじゃないかな。恋の始まりってやつだよ、きっと」
「恋の、始まり……」
あらためて口にした途端、何だか急に恥ずかしくなってきた。
さっきまで整っていて綺麗だけど眩しいだけだったレスターの顔が、直視できないドキドキの塊に変貌しつつあるのが怖い。
「ちょっと待って。恋はしたかったけど、こんなの心臓がもたない」
再び熱を蓄え始めた頬を冷まそうとするが、それよりも早くレスターの両手がローナの頬を包み込んだ。
「ローナのためなら、いくらでも待つよ。でも――逃がさないから」
緑の瞳をきらめかせて微笑むレスターに、ローナの胸がキュンという音を奏でた。
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