第9話 『断罪=前線配置=死刑』
王宮での五年は、季節より噂の方が速く過ぎた。
聖女が入ってから、空気は一段明るくなった。祈りが増え、祭礼が増え、王子の笑顔が増えた。
そして同じ速度で、ミレイユの居場所は削れていった。
彼女は抵抗しなかった。抵抗しても勝てない構図は、最初から見えていた。
なら、勝つために動くのではなく、生き残るために動く。
やるべきことは、必要な情報を集め、手順を整え、逃げ道を用意することだけだった。
王子は、彼女に礼儀を要求し続けた。
聖女には優しさを注ぎ続けた。
ミレイユは、命令された通りに笑い、命令された通りに退いた。盾としての言葉を先に置き、相手の機嫌を守る言葉を添え、必要以上の発言をしない。
それでも“冷たい悪役令嬢”という札は、外れなかった。
むしろ便利な札として使われるようになった。
祭礼の場で聖女が疲れた顔をすれば、誰かが囁く。
あの侯爵令嬢が無理をさせたのだ、と。
王子が苛立てば、誰かが整える。
婚約者が殿下の心を乱したのだ、と。
ミレイユはそれを、予定された流れとして受け止めた。
予定されたなら、対処は手順になる。
だが、手順が機能しない日が来る。
その日の朝、リネの顔色が白かった。白いというより、青い。
「お嬢様……今日は……」
言葉が続かない。続かないのは、最悪の報告の前触れだ。
ミレイユは息を整え、短く言った。
「……来る」
「……はい。評議会です。殿下が……皆さまの前で……」
ミレイユは頷いた。
評議会。公の場。形式が整った断罪の舞台。
彼女は自分の手元を見た。指先は震えていない。
震えないのは怖くないからではない。怖いからこそ、身体を固めない訓練を積んできた。
「……リネ。声を大きくしないで」
「はい……!」
「……荷物は最小。身の回りと、記録帳」
リネが唇を噛み、必死に頷く。
ミレイユは、鏡の前で礼装を整えた。
十八歳の身体は、十三歳の頃よりしなやかになった。だが重いドレスは相変わらず動きを奪う。
今日は“見せるため”の服だ。戦うための服ではない。
戦う場所は、言葉の場だ。
───
評議会の広間は、天井が高かった。
高い天井は、声を反響させる。反響する声は、人の心を煽る。
王宮は、そういう建築を意図的に持っている。
貴族たちが並び、神官が並び、近衛が並ぶ。視線の数が多い。
誰もが結論を知っている顔をしている。
知っている結論に、形式を与えるために集まっている。
ミレイユは、決められた位置に立った。
王子の斜め前、聖女の向こう。距離がある。距離があるのに視線が刺さる位置。
王子が入ってくる。
彼の隣には聖女がいた。白い衣。少し怯えた顔。守られるべき存在として配置された表情。
その背後に、神官長。
完成された構図だった。
王子の声が広間に響く。
「本日の評議会は、王家の名誉と国の秩序のために開く」
言葉は整っている。
整っているが、芯は感情だ。彼は自分の正しさを証明したい。聖女を守りたい。
そのために、誰かを切る。
視線がミレイユに集まる。
王子が続けた。
「ミレイユ・ヴァルディエール。そなたは婚約者としての役目を果たさず、聖女殿を侮辱し、王太子府の秩序を乱した」
侮辱。
乱した。
どれも具体性がない。具体性がない告発は、反論が難しい。
だから政治で使われる。
聖女が涙を浮かべる。
泣くタイミングが完璧だった。
場が揺れる。揺れが“真実”の代わりになる。
貴族たちがざわめき、囁きが波になる。
ミレイユは、その波の方向だけを見た。誰が先に動いたか。誰が煽ったか。誰が沈黙したか。
味方はいない。
最初からいない。
王子が一段声を強める。
「よって、ここに婚約を破棄し、ヴァルディエール家は王家への不敬をもって処断されるべきだが——」
処断。
その単語が出る。ここで“慈悲”が来る。
「王家は慈悲を示す。ミレイユは追放とする」
追放。
場がひと息つく。処刑ではない、と誰もが思う。
処刑ではない言葉を置けば、人は安心して残酷になれる。
ミレイユは、そこでは終わらないことを知っていた。
追放には“行き先”がある。行き先が死刑になる。
王子が言った。
「ただし、国のために働く機会を与える。——前線へ赴け」
広間の空気が、わずかに温度を下げた。
前線。戦争。死ぬ場所。
王子は続ける。
「国境の騎士団へ。死力を尽くし、罪を償え」
罪を償う。
つまり、死んでこい、だ。
ミレイユは、その意図を正確に理解した。
王宮から消える。噂から消える。存在から消える。
“元婚約者”が生きていると、王子の正しさに影が残る。
だから消す。
消す方法として、前線は最適だ。
敵の矢が当たれば事故。病で死ねば不運。補給が遅れて死ねば戦争のせい。
誰も責任を取らない。王子の手も汚れない。
ミレイユは息を吸い、吐いた。
怒りは出ない。悲しみも出ない。
出るのは、確認事項だけだ。
彼女は礼の形を崩さないまま、柔らかい声で言った。
「……確認しても、よろしいでしょうか」
ざわめきが一瞬止まる。
断罪の場で確認を求める令嬢は少ない。
少ないから目立つ。目立つのは危険。だが、ここで確認しない方が危険だ。
王子が眉を寄せる。
「何だ」
ミレイユは短く、要点だけを置いた。
「赴任先の部隊名。
職務。
期限。
同行者の可否」
王子の表情が、困惑と苛立ちを混ぜたものになる。
彼が欲しかったのは泣き崩れる姿か、許しを乞う言葉だ。
これは“配属命令への応答”だ。
神官長が一歩前に出て、場を整えるように答えた。
「国境第二騎士団。職務は補助。期限は未定。同行者は一名まで許可する」
未定。
つまり、帰るつもりはない。
ミレイユは頷いた。
「……承知しました」
その静かさが、広間の人間に別の意味を与える。
可愛げがない。反省がない。冷たい。悪役だ。
札が、最後の釘で固定される。
王子が、勝利の表情で言った。
「では即日、王宮を去れ」
即日。
準備の時間を与えないのは、生存率を下げるためだ。
だが、ミレイユはもともと“いつでも動ける準備”をしていた。
彼女は礼をし、短く言った。
「……ありがとうございます」
その言葉は、王子を少しだけ揺らした。
感謝される構造ではない。
王子は一瞬だけ視線を泳がせ、すぐに聖女へ戻った。
聖女が、涙のまま小さく囁く。
「ミレイユ様……どうして……」
ミレイユは聖女を見た。
この少女が悪意を持っているのか、持っていないのかは分からない。
ただ、構造の中心に置かれているのは事実だ。
ミレイユは、盾としての言葉を置いた。
「……お幸せに」
それ以上は言わない。
言えば、刃になる。刃は、今は不要だ。
───
居室へ戻る道は、短く感じた。
王宮は長い廊下を持つのに、今日は短い。
短いのは、視線が背中を押すからだ。
早く出ていけ、という圧。
部屋に入ると、リネが扉を閉めた瞬間に崩れた。
声を殺し、肩を震わせる。
ミレイユは机の引き出しを開け、記録帳を取り出した。
紙束は薄いが、必要なものは入っている。
数年分の観測。王宮の地形。人の関係。王子の癖。女官の癖。
本当は、これを持って帰れば政争の材料になる。
だが持って帰る場所はない。家に残せば家が潰れる。
だから、持って行く。前線へ。
リネが涙で濡れた声で言った。
「お嬢様……前線なんて……死んでしまいます……」
ミレイユは頷いた。
「……その意図」
「……!」
リネの目が見開かれる。
理解した瞬間、人は余計に怖くなる。
ミレイユは、ゆっくり息を吐いて続けた。
「……だから、生きる」
言い方が淡々としているのは、彼女の癖だ。
癖は武器でもある。崩れないための武器。
「リネ。荷は最小。水。傷薬。替えの下着。丈夫な靴。あと、糸と針」
「え……糸と針……?」
「……破れたら死ぬ。縫える方が生きる」
リネは泣きながら頷き、手を動かし始めた。
この侍女は、泣いても働ける。働ける人間は強い。
ミレイユはドレスを脱ぎ、動ける服に替えた。
王宮の令嬢としての服ではなく、移動の服。
それだけで身体が軽くなる。
窓の留め具を最後に確認する。
扉の鍵も確認する。
習慣は裏切らない。
荷がまとまった頃、部屋の外で足音が止まった。
女官の声。
「ミレイユ様。馬車の用意ができました」
早い。
追い立てる意図がはっきりしている。
ミレイユは荷を持ち、リネに目で合図した。
「……行く」
廊下へ出ると、女官たちの視線が冷たい。
同情ではない。勝者の側の安心だ。
敗者が遠くへ行けば、自分が安全になる。
馬車は王宮の裏手に用意されていた。
目立たない導線。
舞台の裏から排出する導線。
ミレイユは馬車の踏み台に足をかける前、ほんの一瞬だけ王宮の建物を見上げた。
高い壁。高い窓。高い塔。
美しい構造。人が簡単に潰れる構造。
そして理解する。
ここは、自分の任務地ではなかった。
任務地に見せかけた、処刑場だった。
ミレイユは静かに馬車へ乗り込んだ。
リネが続く。扉が閉まる。
馬車が動き出すと、車輪の音が一定のリズムで続く。
一定のリズムは、思考を整理する。
ミレイユは記録帳を膝に置き、心の中で再確認した。
追放=前線送り=死刑。
意図は明確。
なら対策は、より明確になる。
前線に着いたら、まず地形と補給と人員を確認する。
味方を作る。盾を増やす。
最後の盾——剣を、忘れない。
リネが震える声で言った。
「お嬢様……怖くないんですか……?」
ミレイユは一拍置き、柔らかく答えた。
「……怖い」
リネの目がまた揺れる。
「でも……」
「……怖いから、手順で生きる」
それだけ言って、ミレイユは窓の外を見た。
王都の景色が遠ざかる。
代わりに、灰色の地平が近づく。
処刑場に送られた。
だからこそ、そこで生き残る。
そして彼女は、もう一つだけ確信していた。
王宮が捨てたのは“婚約者”ではない。
王宮が捨てたのは、戦場で生き残るための頭脳だ。
それを証明するのは、前線だ。




