第8話 『聖女と王子と、温度差』
王宮の噂は、朝より早い。
廊下を渡る女官の足音がいつもより軽く、声が弾んでいる。笑いの粒が増え、香の匂いも濃い。
何かが“起きた”空気だった。
ミレイユは鏡の前で髪を整えながら、リネの表情を観察した。
いつもなら緊張で硬いはずの彼女が、今日は逆に落ち着き切っている。落ち着き切っているのは、情報をもう掴んでいる時だ。
「……何があったの」
リネは一瞬だけ迷ってから、小声で言った。
「聖女様が……現れたそうです」
聖女。
その単語は、軍務の辞書にはない。だが政治の辞書にはある。
宗教的正統性、民心の掌握、王権の象徴強化——使い方次第で、国を動かす駒になる。
ミレイユは頷いた。
「……どこで」
「大神殿です。昨夜、神託があって……王宮へお呼びする、と」
神託。
それが本当かどうかは重要ではない。重要なのは、皆がそれを“信じる形”を取ることだ。
信じる形が政治になる。
ミレイユは小さく息を吐き、身支度の最後を整えた。
「……予定が変わる」
「はい。女官たちも、今日は落ち着きません。殿下も——」
リネが言いかけて止めた。
その止め方が、すでに答えだった。
殿下も、動く。
それも、感情で。
───
午前、指導役の女官がいつもより早く来た。
「ミレイユ様。至急ご準備を。大神殿へ」
「……大神殿へ?」
「はい。本日、聖女様が王宮へ御入されます。その儀礼に、殿下もご同席なさいます。婚約者として、貴女も」
儀礼。
公開の場。
人の密度が上がる。導線が詰まる。事故が起きやすい。
ミレイユは短く頷いた。
「……承知しました」
リネが慌てて礼装を用意し、髪を整える。女官が細かい注意を畳み掛ける。
「微笑みを。聖女様の前では、敬虔に。軽率な質問は控えて。神殿の方々は繊細です」
繊細。
つまり、怒らせると面倒だという意味だ。
ミレイユは一つずつを受け取りながら、頭の中で別の表を作っていた。
(新規要素:聖女)
(影響:王権・宗教・民心)
(危険:王子の感情の偏り、婚約の意味の変質)
すでに「冷たい」「悪役」として固まりつつある自分の評判の上に、さらに新しい対立軸が載る可能性がある。
それでも慌てない。慌てるのは最悪だ。最悪を避けるために準備する。
───
大神殿は、王宮とは違う圧を持っていた。
石の匂いが古い。香が重い。天井が高く、言葉が飲み込まれる。
兵の規律ではなく、信仰の規律が空間を支配している。
導線はさらに悪い。
柱が多い。人が集まる。儀礼の間、誰も動かない。動かない群衆は、崩れた時に一気に崩れる。
ミレイユは壁際の位置を選んだ。
女官は眉を寄せたが、婚約者としての配置はすでに決められているらしい。結局、王子の少し後ろ、しかし人波からは半歩引ける位置になった。
第2王子が来ると、空気がさらに変わった。
彼は今日、いつもより機嫌が良い。表情が浮き立ち、目が遠くを見ている。何かを待つ目だ。
ミレイユは挨拶をする。
「殿下」
王子は軽く頷くだけで、視線を前へ戻した。
返事の温度が薄い。
昨日まで“冷たい”と言っていた相手に対して、今日の彼は自分の方が冷たい。
そういうものだ、とミレイユは記録する。
感情で動く者は、感情で距離を変える。
鐘が鳴った。
神官たちが並び、祈りの言葉が流れる。
そして——扉が開いた。
入ってきた少女は、白い衣を纏っていた。
年はミレイユと同じか、少し下。顔立ちは素朴で、華美ではない。
だが、不思議と目を引く。光の当たり方が違うように見える。周囲の空気が彼女の周りだけ柔らかい。
それが“聖女”としての演出なのか、本当に何かがあるのかは分からない。
分からないなら、決めつけない。決めつけない代わりに、観察する。
聖女は、神官に導かれ、王子の前に跪いた。
王子が一歩進み、手を差し伸べる。
「聖女殿。よくぞ来てくれた」
声が違う。
ミレイユに向ける声より、明らかに甘い。
甘い声は、そのまま民衆向けの声でもある。
聖女は顔を上げ、王子を見た。
その瞬間、殿内の空気がさらにざわめく。誰もが“絵になる瞬間”として息を止めた。
聖女の瞳が濡れ、声が震える。
「殿下……私は……」
言葉が続かない。
続かないことが、逆に効果的だ。弱さは庇護欲を引き出す。王子のタイプがそこにあるなら、なおさら。
ミレイユは、その構造を冷静に見ていた。
敵意も嫉妬もない。
ただ、状況が変わったことだけが見える。
神官が儀礼を進め、聖女の“力”の披露が行われた。
水を清める。小さな傷を癒す。灯が強くなる。
どれも派手ではないが、群衆が求めるには十分だ。
そして王子が、目を輝かせる。
「素晴らしい……!」
その言葉は、感情のままの言葉だった。
ミレイユには見せなかった顔だ。
儀礼の後、王子は聖女の隣を歩き始めた。
自然に。護衛の配置など気にせず。
彼の視線はずっと聖女に向いている。
ミレイユは半歩後ろで歩きながら、導線を確認する。
王子が近づきすぎている。護衛の距離が崩れる。もし混乱が起きたら、真っ先に王子が危険に晒される。
ミレイユは一度だけ、声を落として言った。
「……殿下。人が多いです」
王子が振り向く。
その目に一瞬、苛立ちが浮かんだ。
「分かっている。大丈夫だ」
大丈夫、は根拠ではない。願望だ。
だがここで押せば、悪役の噂が強化される。
ミレイユは引いた。
「……承知しました」
聖女が不安そうにミレイユを見た。
その目が、ミレイユの心をざらつかせる。
怖がっている。
自分を、ではない。状況を、だ。
聖女は王子に小さく囁いた。
「殿下……ミレイユ様は……」
王子が笑った。
「気にしなくていい。彼女はいつも、そうだ」
いつも、そう。
その言い方は、切り捨てだ。婚約者を“役”として扱い、感情の対象から外す言葉。
ミレイユは、その言葉を受け止めた。
傷つかない。
ただ、婚約の意味が一段下がったことを理解する。
神殿から王宮へ戻る途中、王子は聖女の歩幅に合わせ続けた。
ミレイユは護衛の配置を崩さないため、わざと距離を取った。
距離を取ったことで、さらに“冷たい”と見られる。
だが、王子が危険に晒されるよりはましだ。
───
王宮へ戻ると、すぐに“歓迎”の空気が作られた。
聖女が王宮へ入る。
それは王家にとっての正統性の補強であり、民心へのアピールであり、対外的なカードでもある。
女官たちが聖女を囲み、優しい言葉を投げる。
さっきまでミレイユに向けていた棘が、今は聖女への花束に変わっている。
花束は美しいが、同時に“武器”でもある。囲い、染め上げ、操るための花束だ。
ミレイユはそこに介入しなかった。
介入すれば悪役が確定する。確定すれば逃げ道が減る。
逃げ道が減れば、生存率が落ちる。
夕刻、王子から呼び出しがあった。
部屋に入ると、王子は窓辺に立っていた。表情は高揚している。
いつもならアロイスがいるが、今日は居ない。私的な会話にしたいらしい。
王子は振り向き、唐突に言った。
「ミレイユ。君は、聖女殿をどう思う?」
どう思う。
感情を問う形をしているが、実際には“正解”を求めている。
王子の今の正解は、聖女を讃える言葉だ。
ミレイユは柔らかい声で答えた。
「……お力がある方です」
「それだけか?」
「……国にとって、重要な存在になります」
王子の眉がわずかに跳ねた。
重要、という言葉は正しいが、熱がない。
王子は熱を欲しがっている。熱は自分を肯定してくれるから。
「君は、冷たいな」
またその言葉。
今度は叱責に近い。
ミレイユは一拍置き、盾としての言葉を選ぶ。
「……失礼しました。殿下がお喜びなのは、よく分かります」
王子の表情が少し緩む。
“殿下の感情”を先に肯定したからだ。
それが必要な手順だと、彼女は理解していた。昨日決めた通り。
王子は満足したように言う。
「そうだ。私は嬉しい。国のためにもなる。……そして、彼女は——」
言葉が途切れた。
そこに、個人的な感情が混じる。
婚約者の前で言うべきではないのに、言いたくなる程度には、王子の心が傾いている。
ミレイユはその傾きを“危険”として記録した。
王子は、まるで言い訳のように続けた。
「君も、聖女殿と仲良くしてくれ。君が冷たい態度を取れば、彼女が傷つく」
王子は、ミレイユを守る言葉を一切使わない。
守る対象は聖女だ。
ミレイユは婚約者であり、役割であり、責任の受け皿になっている。
ミレイユは頷いた。
「……承知しました」
「よし。では明日、聖女殿と会う場を設ける。君は余計なことを言うな。笑って、優しくしてやれ」
命令。
命令が増えるほど、関係は壊れる。
だが今、反論しても状況は改善しない。むしろ悪化する。
ミレイユは、ただ礼をして部屋を出た。
───
廊下へ出た瞬間、リネが待っていた。
「お嬢様……殿下は……」
ミレイユは歩きながら答えた。
「……聖女に傾いた」
リネが息を呑む。
「そんな……」
「……想定内」
リネの顔が歪む。
想定内、という言葉が冷たいのではなく、悲しいのだ。
ミレイユは足を止め、リネを見た。
柔らかい声で、短く言う。
「……ここからは、静かに準備する」
「準備……?」
「……離されても、死なない準備」
王宮は、婚約が破棄された令嬢を優しく扱わない。
破棄は政治的な敗北であり、敗北者は餌になる。
なら、餌にならない構造を作る。
リネは涙を堪えながら頷いた。
「はい……お嬢様の盾になります」
盾。
その言葉が重なる。
社交は盾。剣は最後の盾。味方も盾。
そして、聖女という新しい駒が盤上に置かれた。
ミレイユは部屋に戻り、記録帳を開いた。
(聖女:若い、素朴、庇護欲を引き出す)
(王子:感情が完全に引かれている)
(王宮:聖女を囲い、武器として使う)
(自分:悪役の評判が強化される可能性)
最後に一行。
——婚約は、仕事ではなく“道具”になり始めた。
蝋燭の火が揺れる。
揺れに合わせて、王宮の空気も揺れている。
その揺れは、いずれ大きな断罪へ繋がる。
ミレイユは淡々と息を整えた。
感情を捨てるのではない。感情に飲まれない。
生き残るために、次の一手順を作る。
明日、聖女と会う。
そこが、王宮の戦場の本当の入口になる。




