第7話 『悪役令嬢、という便利な箱』
王宮の朝は、屋敷の朝より早く動き出す。
窓の外がまだ青い時間に、回廊の足音が増える。女官の囁きが走り、香の匂いが濃くなる。王宮は人の気配で目が覚める場所だ。静けさで起きる屋敷とは逆で、ここでは“騒がしさ”が時刻を告げる。
ミレイユは慣れた手順で起き、呼吸を整え、姿勢を整えた。
ただし、庭へ出ることは許されない日が増えた。婚約者としての生活は「見られる」生活であり、見られる場所で汗をかくのは好まれない。
代わりに、居室の中でできる範囲の基礎訓練を続ける。
静かに。音を立てず。息も荒げず。
リネは最初、落ち着かなかった。
王宮の女官たちは、地方の侍女を露骨に見下す者もいる。言葉の端、視線の角度、笑みの薄さで分かる。
それでもリネは崩れなかった。
ミレイユが窓の留め具を確認するのと同じ顔で、彼女も王宮の動線を覚え始めた。どの回廊が混みやすいか、どの女官が話を広げるか、誰が誰と繋がっているか。
ミレイユはそれを見て、少しだけ安心した。
人は、状況を理解すれば折れにくい。理解できないものが心を削る。
その日は、午前に女官教育、午後に第2王子との軽い面会、夕刻に王宮内の小さな茶会——予定が詰まっていた。
詰まっているものほど、事故が起きる。だから順序を作る。
女官教育は、相変わらず形式の束だった。
「殿下の前では、こう。視線はここ。笑みはこの程度。声の高さは——」
指導役の女官は機械のように繰り返す。
ミレイユは一つずつ覚えながら、同時にその規則の“意図”だけを拾っていた。
見せたいものは統制。
統制したいのは王家の権威。
権威が乱れると、政治が乱れる。
合理。理解できる。
ただ、理解できるからといって馴染むわけではない。
ミレイユの所作は完璧でも、その完璧さが“人形”に見える。王宮の人間が求めるのは、完璧な所作ではなく、完璧に見える「感情」だった。
指導役の女官が言う。
「ミレイユ様。殿下にお会いする時は、もう少し……喜びを」
ミレイユは一拍置いて頷いた。
「……努力します」
努力という言葉は便利だ。
やると約束し、やれなかった時は“努力不足”として処理できる。相手が求める「感情」を、こちらが約束しすぎないための盾でもある。
女官は、また僅かに眉を寄せた。
その眉の動きが、ミレイユには“苛立ち”に見えた。自分の指導で令嬢が可愛らしく変わらないことへの苛立ち。だが、苛立ちは相手の問題であり、ミレイユの目的ではない。
午後、王子との面会は書斎のような部屋で行われた。
護衛が控え、政務官アロイスも立っている。形式としては「婚約者の挨拶」だが、実態は評価の場だった。
王子は笑みを作りながら、ミレイユを見た。
「王宮の生活には慣れたか」
「……はい。動線は把握しました」
アロイスが、ほんの僅かに咳払いをした。
“動線”という語は、この場の会話としては異質だ。
王子は笑みを保つが、目の奥が冷える。
「動線……? まあいい。茶会も増える。女性たちと仲良くするように。君は少し……孤立しやすい」
孤立しやすい、は遠回しな命令だ。
“可愛げを見せろ”と同じ意味。
ミレイユは頷いた。
「……はい」
王子は続ける。
「そして、笑うこと。君は——冷たいと言われやすい」
冷たい。
その言葉は、ミレイユの胸を刺さなかった。傷つくべき言葉ではない。評価の一種だ。だが、評価は状況を動かす。状況が動けば、生存率が変わる。
ミレイユは、短く返した。
「……承知しました」
王子の眉がわずかに跳ねた。
“承知”という返事が、ますます事務的に聞こえたのだろう。
アロイスが助け舟を出すように言う。
「殿下。ミレイユ嬢は真面目な方です。すぐに慣れるでしょう」
王子は頷くが、満足していない。
満足していない者は、次に別の満足を探す。——それが、後に問題になる。
面会が終わり、ミレイユが部屋を出る直前、王子が最後に言った。
「今夜の茶会では、余計なことは言わないでくれ」
余計なこと。
ミレイユにとって余計ではないものを、王子は余計と呼ぶ。
そのズレは、埋まりそうになかった。
「……はい」
返事は短く、柔らかい。
だが、その柔らかさは王子に届かない。
───
夕刻の茶会は、婚約者としての初めての“女性の場”だった。
王宮付きの令嬢と若い貴婦人が十数名。
香りの強い花が飾られ、菓子が並び、笑い声が揺れる。誰もが柔らかい言葉を選び、誰もが人の顔色を読む。読む速度が速い。王宮は情報が速い。
ミレイユは席についた瞬間、まず扉の位置を確認した。
次に侍女の動線。次に給仕の流れ。
茶会とは、見た目以上に“人が動く場”だ。動く場は事故が起きる。
隣の令嬢が微笑む。
「ミレイユ様。王宮での生活は、きっと華やかで楽しいでしょう?」
ミレイユは一拍置き、答えた。
「……覚えることが多いです」
令嬢の笑みが、僅かに固まった。
“楽しい”に対して“覚える”は、温度が合わない。だが嘘はつけない。嘘をつけば、次に判断が鈍る。
別の令嬢が、軽い声で言葉を繋ぐ。
「殿下はお優しい方ですもの。きっと毎日が夢のように——」
夢、という単語は危険だ。
夢は現実を見えなくする。現実が見えない者は、王宮では潰れる。
ミレイユは微笑の形を作り、短く言った。
「……殿下は、お忙しいです」
また温度がずれる。
周囲の笑いが、ほんの少しだけ薄くなる。
茶が注がれ、会話が進む。
誰が誰を好み、誰が誰を嫌うか。誰が王子に近いか。誰が女官と繋がっているか。噂がどこから流れ、どこで止まるか。
ミレイユはそれを、戦場の地形のように把握していった。
ただし、把握していることは顔に出さない。出せば狙われる。
しかし、狙われるきっかけは別のところから来た。
茶会の中盤、給仕が菓子の皿を運ぶ時、テーブルの端で一瞬、人の流れが詰まった。
侍女が二人、同じタイミングで交差しようとしている。
ここで皿が落ちれば、床が濡れる。滑る。誰かが転ぶ。転べば笑い話では済まない。
ミレイユは立ち上がらず、声も張らず、淡々と告げた。
「……そこ、詰まっています」
侍女の動きが止まり、空間が一瞬静かになる。
侍女は慌てて順序を変え、事なきを得た。
それで終わるはずだった。
だが、終わらなかった。
向かいの貴婦人が、笑みを浮かべたまま言った。
「まあ。ミレイユ様は、随分と厳しいのですね。侍女に指示を出されるなんて」
厳しい、という評価が刺さる。
刺さるのは、痛いからではない。状況が悪くなるからだ。
ミレイユは一拍置き、穏やかに言った。
「……事故が起きると困ります」
「事故?」
貴婦人は不思議そうに首を傾げる。
困る、という言葉の中身が噛み合っていない。彼女にとっての困るは“汚れる”であり、ミレイユにとっての困るは“人が傷つく”だ。
別の令嬢が、少し尖った声で言った。
「茶会で事故なんて、滅多にありませんわ。そんなに心配なさるなんて……」
心配ではない。手順だ。
しかしその違いは説明しても伝わらない。伝わらない説明は、敵を増やすだけ。
ミレイユは引いた。
「……失礼しました」
その「失礼しました」が、さらに悪かった。
“悪意”がないのに謝る人間は、周囲に「裏がある」と思わせる。王宮では特にそうだ。謝罪は弱点として扱われる。
会話が再開され、笑い声が戻る。
だが、戻った笑い声の質が変わった。ミレイユの周囲だけ、温度が薄い。
やがて話題は自然に「殿下の趣味」へ移り、そこから「未来の王妃像」へ移る。
「殿下は、可憐で、優しくて、皆から愛される方を——」
言葉の端々に、ミレイユへの刺が混じる。
名指しはしない。だが、全員が同じ方向を見ている。
ミレイユは微笑の形を崩さず、黙って茶を飲んだ。
黙るのは防御だ。余計な発言は矛になる。矛は、今は不要だ。
だが、黙っていること自体が“攻撃”に見える場がある。
隣の令嬢が、優しいふりをして囁いた。
「ミレイユ様。もっと楽しそうにしてもよろしいのに。殿下の婚約者なのですから」
ミレイユは、柔らかく頷いた。
「……努力します」
また努力。
また事務的。
令嬢の瞳が細くなる。
その瞬間、周囲の誰かが小さく笑った。笑いは軽いのに、刃だけが残る笑い。
「可愛げがないわよね」
「冷たいのよ」
「侯爵家って、こういう方を育てるのかしら」
声は小さい。
だが王宮では、小さい声ほど遠くへ届く。噂は音量ではなく形で広がる。
ミレイユはそれを、聞こえないふりで受け流した。
怒れば負ける。泣けば負ける。反論すれば負ける。
何もしないのが最適——そう判断した。
茶会が終わり、退出する時、主催の貴婦人が最後に微笑みながら言った。
「ミレイユ様。今後も、殿下のために“正しく”振る舞ってくださいませね」
正しく。
その単語が、妙に重い。
正しさを盾にした言葉は、相手を縛る。
ミレイユは礼をし、短く返した。
「……はい」
───
居室へ戻る回廊で、リネの顔が青かった。
「お嬢様……皆さまが……」
ミレイユは足を止めず、淡々と返す。
「……噂は、広がる」
「でも……悪い噂です。怖いって……冷たいって……」
リネの声が震える。
ミレイユは立ち止まり、ほんの少しだけ声を落とした。
「……冷たいと言われるのは、想定内」
「想定内……?」
「……王宮は、感情を求める。私は、手順で動く。合わない」
合わない、と言った瞬間、リネの目に涙が浮かんだ。
自分の主人が「合わない」と割り切っていることが、悲しいのだ。
ミレイユは、言葉を足した。
「……でも、死なない方が大事」
それが本音だった。
それでもリネの涙は止まらない。止まらないなら、止まるまで待つしかない。
居室に入ると、リネは扉を閉めた途端、堪え切れずに言った。
「お嬢様は……優しいのに……」
優しい、という評価は意外だった。
ミレイユはしばらく黙り、やがて短く言った。
「……優しくない」
「優しいです! 侍女のことも、私のことも……!」
声が大きくなる。
大きい声は王宮では危険だ。壁は薄い。噂は速い。
ミレイユは静かに指を唇の前に置き、リネを落ち着かせた。
それから、机の引き出しから記録帳を出す。
(茶会:発言一つで評価が固定される)
(“事故回避”は美徳ではなく干渉と見られる)
(可憐さ=感情の演技が必要)
(敵:女性の場の方が先に増える)
書きながら、ミレイユは理解した。
王宮では、正しいことをするだけでは足りない。
正しいことを、正しく見せなければならない。
それは社交の訓練で分かっていたはずなのに、王宮は速度が違う。
一度の茶会で印象が固まる。固まった印象は、簡単には溶けない。
夜、王子から使いの者が来た。
内容は短い。
「今日の茶会の件で、妙な話が上がっている。余計なことはしないように」
余計なこと。
またそれだ。
ミレイユは使者に、丁寧に返した。
「……承知しました」
使者が去った後、リネが唇を噛む。
「お嬢様……殿下が……」
ミレイユは、蝋燭の火を見つめた。
王子は、噂を止めようとしていない。自分の面子が守られる方向へ流そうとしているだけだ。守られる方向が、ミレイユを孤立させる方向でも構わない。
噛み合わない。
噛み合わないなら、期待を捨てて手順に戻る。
ミレイユは立ち上がり、窓の留め具を確かめた。
次に扉の鍵。
次に机の位置。
最後に、リネへ視線を向ける。
「……明日から、言葉を少し変える」
リネが目を丸くする。
「どう、変えるんですか」
ミレイユは一拍置いて答えた。
「……正しいことを言う前に、相手の気分を守る言葉を置く」
それは、彼女にとって不快な手順だった。
だが不快でも必要ならやる。生き残るために。
リネは涙を拭き、震える声で言った。
「はい……お嬢様の盾になります」
盾。
その単語が、ミレイユの中で静かに重なる。
社交は盾だ。
剣は最後の盾だ。
そして、味方も盾になる。
ミレイユは短く頷いた。
「……一緒に、生き残る」
その夜、王宮のどこかで噂が形になる。
冷たい。
可愛げがない。
あの侯爵令嬢は、悪役だ。
ミレイユはその評価を、受け入れたわけではない。
ただ、記録した。
敵が増える。
なら、盾を増やす。
盾が足りなければ、構造を作る。
王宮の戦場は、静かに本番へ向かっていく。




