第6話 『舞踏会より導線確認』
王宮の門は、屋敷の門とは別物だった。
石の厚みが違う。
人の数が違う。
そして、視線の数が違う。
迎えの馬車が止まり、扉が開くと同時に、空気がひとつ切り替わった。湿った庭の匂いの代わりに、磨かれた石と香の匂い。規律ではなく格式で整えられた空間。そこに立っている衛兵の姿勢は美しいが、動きは遅い。見せるための秩序だ。
ミレイユはドレスの裾を踏まない歩幅を選び、馬車から降りた。
背後でリネが続く。彼女は緊張で顔が少し硬い。手に持つ小さな荷物が微かに震えていた。
「……深呼吸」
ミレイユが小さく言うと、リネは驚いた顔をして、すぐに息を吸った。
「はい……!」
ミレイユは頷き、門の内側を見た。
玄関までの距離。階段の段数。左右の回廊。警備兵の配置。入口は正面だけではない。荷の搬入口が別にある。馬車止めの外側には、別動線で入る召使いがいる。
導線が多いほど、混乱する時に人は死ぬ。
だから導線を把握しておく。
それが、王宮で生き残る最初の手順だった。
───
出迎えたのは、前に来た政務官アロイス・デルマンだった。
笑みは丁寧で、言葉は柔らかいが、目がよく動く。人の立場を瞬時に測る目だ。官僚の目。
「ミレイユ嬢。ようこそ王宮へ。お疲れでしょうが、まずは居室へご案内します」
「……お願いします」
返事は短い。
短くても失礼にならないよう、声の調子だけを少し柔らかくする。盾の扱い方。
リネが一歩後ろで頭を下げる。
アロイスはそれを当然のように受け流し、歩き出した。
王宮の廊下は長い。
長い上に、曲がる。曲がった先が見えない。見えない場所が多い。
軍なら角を曲がる前に必ず確認するが、ここではそれをやれば「落ち着きがない」と見られる。
ミレイユは視線だけで角の奥を拾い、足はゆっくり進めた。
数える。歩数。扉の数。窓の位置。階段の位置。
床の絨毯は厚いが、滑る種類ではない。逃げるなら走れる。
案内の途中、若い侍女が二人、こちらを見て小声で囁いた。
視線はミレイユよりリネに刺さる。田舎の侍女が王宮に来た、という評価だろう。リネの肩が僅かに強張る。
ミレイユは、歩幅をほんの少しだけリネに合わせた。
並走ではない。だが置き去りにも見えない距離。
それだけで、リネの呼吸が少し落ち着いた。
───
居室は、思ったより広かった。
寝室、書き物机、控えの間。窓は二つ。扉は一つ。
扉が一つなのは危険だ。逃げる導線が限られる。
だが窓が二つある。高さ、下の庭の位置、落下の危険。——確認する。
リネが荷を置こうとすると、ミレイユは柔らかく制した。
「……先に、位置を」
「え?」
「……火事の時。どう出るか」
リネの顔が真っ白になった。
王宮に来た初日に火事の話をする令嬢はいない。普通はいない。
ミレイユは言い直した。
「……もしもの話です。覚えておけば、安心」
リネは一拍遅れて頷き、窓の方へ行った。
二人で窓の留め具を確認し、カーテンの重さを見て、庭へ降りられる位置を測る。机の位置は邪魔になる。椅子は軽い。動かせる。
「リネ。もし人が押し寄せたら、扉じゃなくてこっち」
「……はい」
「叫ばない。荷は捨てていい。自分を守って」
リネの目に涙が浮かんだ。
怖いからではない。ミレイユが本気で自分を“人”として扱っているのが、彼女には分かるのだ。
「……お嬢様も」
「……一緒に」
短く言うと、リネは何度も頷いた。
そこへ、教育係が来た。
王宮付きの女官で、姿勢が硬い。声も硬い。
「ミレイユ・ヴァルディエール様。王宮での生活について、作法をお伝えいたします」
「……お願いします」
女官は、まず規則を列挙し始めた。
挨拶の角度。歩行の速度。扉の前で止まる位置。目線の置き方。王族の前での呼称。
ミレイユは、ひとつずつ頭に入れながら、同時に別のことを考えていた。
この規則は、戦闘ではない。
だが統制だ。統制は生存率を上げる。
なら、従う価値がある。
女官が一息ついたところで、ミレイユは静かに問うた。
「……避難経路は、どれですか」
女官の瞬きが止まった。
「……ひなん?」
「……火事、騒乱。王族の避難」
女官は一瞬言葉を失い、やがて咳払いをした。
「そのようなことは、必要になってからで結構です」
必要になってからでは遅い。
だが、ここで押すのは悪手だ。敵を作る。
ミレイユは引いた。
「……承知しました」
女官は安心したように規則へ戻った。
ミレイユは、その女官の目線が扉側へ寄る癖を観察した。
彼女自身も“何か”を怖がっている。なら、弱点はそこだ。
王宮は美しい。
だが、人はここで息が詰まる。息が詰まる場所は、事故が起きる。
ミレイユは、机の引き出しに小さな紙束を入れた。
自分用の記録帳だ。
(扉:一)
(窓:二)
(警備:交代は三刻ごと)
(回廊:曲がり角が多い)
(人の密度:夕刻に増える)
生存の手順を、形にして残す。
───
夕刻、初日の儀礼として小さな舞踏会が用意されていた。
「殿下がご同席なさいます。婚約者として、最低限の顔見せを」
女官の声は冷たい。
祝福ではなく監視に近い。
ミレイユは礼装を整え、リネに背を任せた。
髪飾りを付けられながら、ミレイユは鏡の中の自分を見た。
十三歳の令嬢。
淡い金髪。整った顔。揺れる宝飾。
外から見れば、期待される“役”は完璧だ。
中身は違う。
だが中身は見せない。必要な場では。
舞踏会の会場は広く、天井が高い。
楽団の音が反響し、笑い声が重なる。香水の匂いが濃い。
人が多い。動きが遅い。視界が遮られる。危険だ。
ミレイユが最初に見たのは、中央ではなく壁際だった。
扉は三つ。窓は二つ。柱の位置。厨房へ繋がる小扉。
逃げ道はある。だが、群衆が詰まれば塞がる。
ミレイユは会場の端、柱の陰になる位置に立った。
目立たない。けれど全体が見える。
隣でリネが小声で囁いた。
「お嬢様……もっと前へ……」
「……ここがいい」
「ですが、婚約者として……」
ミレイユは、声を落とした。
「……前は、詰まる。ここなら、守れる」
何を守るかは言わない。
言えば変だと笑われる。笑われても構わないが、リネが傷つく。
その時、空気が変わった。
人の波が左右に割れ、若い男が入ってきた。
身なりは華美ではないが、立ち姿に“王族”の癖がある。視線が高く、歩き方が自信に満ちている。周囲の呼吸が、彼に合わせて浅くなる。
第2王子だ。
ミレイユは礼をした。
角度、間、視線の落とし方。王宮の盾を、正確に使う。
王子はミレイユを見下ろし、微笑んだ。
「ミレイユ・ヴァルディエール。来てくれて嬉しい」
嬉しい、という言葉は軽い。
軽いが、この場では必要な単語だ。
ミレイユは柔らかく答えた。
「お招きいただき、光栄です」
王子の目が僅かに細くなる。
期待していた“頬を染めた令嬢”ではない。そういう反応だ。
王子は続けた。
「緊張している?」
「……いいえ」
「もっと笑っていい。君は、私の婚約者なのだから」
笑え、という命令に近い。
ミレイユは一拍置いて、口角をほんの少し上げた。
「……努力します」
努力する、という答えは正しい。
だがロマンチックではない。
王子は小さく息を吐いた。笑いではなく、落胆に近い。
「堅いな。まるで——」
言いかけて止めた。
“兵士みたいだ”とでも言いたかったのだろう。
ミレイユは、その止めた言葉の方を記録した。
王子は、こういう場で言葉を選び切れない。感情で動く。
後々、危険になるタイプだ。
王子が手を差し伸べる。
「一曲、踊ろう」
踊りはできる。
できるが、踊れば導線の把握が遅れる。
初日は把握が優先だ。
ミレイユは断る理由を選んだ。正面から拒否すれば角が立つ。
盾としての言葉を置く。
「……恐れ入ります。会場に慣れておらず、少しだけ落ち着いてから」
王子は眉を僅かに上げた。
会場に慣れる、という理由は理解できる。だが、普通は“怖いから”と言う。ミレイユはそう言わない。
王子は結局、笑みを保った。
「そうか。では後で」
王子が去ると、周囲の視線が一斉にミレイユへ刺さった。
評価が始まる。王子の顔色を読み、噂が走る。
ミレイユは噂の速度を見積もった。
早い。王宮は情報が早い。智の統制ではなく、感情の伝播で走る。
リネが小さく震える。
「お嬢様……いまの、まずかったでしょうか……」
「……まずくはない」
「でも……殿下が……」
ミレイユは、リネの手の甲にそっと指を置いた。
触れるのは得意ではない。だが、必要な時はする。
「……生き残る方が大事」
リネは涙を堪え、頷いた。
その直後、会場の端で小さな揉め事が起きた。
酒の匂い。声が少し大きい。若い貴族が侍女の肩に触れ、侍女が引き攣った笑みで逃げようとしている。周囲は見て見ぬふりをしている。
放置すれば侍女が壊れる。壊れれば騒ぎになる。騒ぎになれば人が集まる。人が集まれば導線が塞がる。
ミレイユは、柱の陰から一歩だけ出た。
声を張らず、柔らかく、短く。
「……そこ、通れません」
貴族が振り向いた。酔いで目が赤い。
「は?」
ミレイユは、目線を逸らさずに言った。
「……この先は、通路です。塞ぐと危険です」
危険、という単語は効く。
貴族は一瞬むっとしたが、周囲の目線を感じて体裁を整えた。
「……わかったよ。冗談だ」
退いた。侍女が素早く去る。
誰もミレイユに礼は言わない。むしろ、妙な空気だけが残る。
それでいい。
騒ぎが起きなければ目的は達成だ。
だがその瞬間から、ミレイユの印象はより固まっていく。
愛想がない。冷たい。空気を読まない。
そして、必要以上に落ち着いている。
舞踏会の終盤、王子が再び近づいてきた。
「さっき、何かあったのか」
「……小さな詰まりが」
「詰まり?」
「……人の流れが止まると、事故になります」
王子は、理解できないものを見る顔をした。
ここで彼が求めるのは“優しい令嬢”の言葉だ。ミレイユの言葉は“報告”だ。
王子は笑みを作ったまま言った。
「君は、本当に……変わっているな」
ミレイユは頷いた。
「……はい」
肯定してしまうあたりが、さらに変わっているのだろう。
王子は小さく首を振り、視線を逸らした。
「まあいい。踊ろう。今度は断らないでくれ」
断る理由はもう使った。
ここで断れば、王子の面子が潰れる。潰れれば敵が増える。
ミレイユは手を取り、踊った。
足運びは正確。姿勢も崩れない。
しかし、笑みは薄く、瞳は会場の端を拾い続ける。踊りながら扉の位置を再確認する。柱の陰の死角を記憶する。
舞踏が終わる頃には、王子の目が少し冷えていた。
彼は“姫”を求めている。
ミレイユは“任務”で動いている。
噛み合わない。
それでも、ミレイユは結論を焦らない。
焦れば失敗する。失敗すれば死ぬ。
夜、居室へ戻り、扉を閉めた瞬間に息を吐いた。
リネが泣きそうな顔で言う。
「お嬢様、皆さま……怖い目で……」
「……慣れる」
「慣れる、ですか……?」
「……王宮の空気に。視線に。導線に」
リネは言葉を失い、やがて小さく笑ってしまった。
笑いながら、涙が落ちる。
ミレイユは、机に向かい、記録帳を開いた。
(舞踏会:扉三、柱多、詰まり起きやすい)
(王子:感情優位、面子重視)
(女官:防御的、情報は出さない)
(噂:速度が早い。こちらの修正は難しい)
最後に一行。
——舞踏会より導線。
書き終え、ミレイユは蝋燭の灯を見つめた。
王宮生活は始まったばかりだ。
ここは戦場ではない。だが、人が死ぬ構造は戦場と同じだ。
生き残る手順を、ここでも積み上げる。
それだけが、彼女の揺るがない仕事だった。




