第5話 『婚約=異動命令』
侯爵の書斎から戻った夜、ミレイユはいつも通り早く眠った。
眠れるうちに眠る。
体力がある者が勝つのではない。体力を残せる者が生き残る。前世の感覚が、ここでも変わらない。
翌朝も、薄明の庭へ出た。
吐く息が白い。地面は夜露で冷たく、芝は硬い。靴底の感覚を確かめるように足を置き、呼吸を整えて歩き始める。十三歳の身体は、六歳の頃とは別物になっていた。まだ線は細いが、足首が安定し、膝がぶれない。体幹が働く。歩幅が揃う。
リネは相変わらず上着を抱えて走ってきた。
小言を言うでもなく、ただ肩に掛けてくれる。その動作がもう習慣になっている。
「お嬢様、今日は冷えます」
「……ありがとう」
ミレイユは短く礼を言い、歩行を続けた。
頭の中では、昨日の書斎で聞いた言葉が、まだ温度を持たないまま並んでいる。
第2王子。
婚約者候補。
王宮の打診。
感情としては、何も湧かない。
湧かないのに、状況だけが重い。重いからこそ、手順で分解する必要がある。
(目的)
王家の婚約とは、何を意味するか。
(制約)
拒否できるのか。拒否した場合の損失は何か。
(優先)
家の安全。自分の生存。次に自由度。
歩き終えた頃、手袋の中の指先が温まっていた。呼吸も乱れていない。
ミレイユは庭の端で一度だけ軽い屈伸をしてから、屋敷へ戻った。
───
朝食の席は、昨日までとは違う空気だった。
夫人はいつも以上に背筋を伸ばし、机上の配置も乱れがない。侍女たちの動きも速い。屋敷全体が「正式な用件」を前にしたときの緊張をまとっている。
「ミレイユ」
夫人が静かに名を呼ぶ。
「今日、王宮から使者が来ます。お父上も同席される。あなたも——準備を」
「……はい」
短く返し、食事を取る。
パンとスープ。いつもより少し上等な香り。だが味は同じだ。食べるべき量を食べ、水分を取る。緊張で食が細くなるタイプではない。食べられる時に食べる。
夫人はミレイユの反応を見て、わずかに目を細めた。
「……怖くないの?」
ミレイユはスプーンを置き、考える間を一拍だけ作った。
怖い、と言えば母は楽になるかもしれない。だが、それは事実ではない。
「……怖い、より。確認したいです」
夫人の表情が、ほんの少し緩んだ。ミレイユが“感情”ではなく“手順”で動いていることを、もう母は知っている。
「そう。確認は、悪いことではないわ。……ただ、王宮の場では言葉を選んでね」
「……はい」
リネが横で小さく頷いた。
ミレイユの「はい」が、今日はいつもより丁寧に聞こえるように、声の高さを僅かに整えた。
食後、身支度が始まった。
ドレスは淡い色。刺繍は控えめだが、布が重い。貴族としての格式を見せるための重さ。背中を締める紐の圧が、身体の自由を奪う。軍服と似ている。動きは制限されるが、その分、形が整う。
鏡の前でリネが髪を整えながら、いつもより小さい声で言った。
「お嬢様……王宮へ行かれるのですか?」
「……可能性は高い」
「怖くないですか」
同じ問い。だが、リネの声は母のものとは違う。もっと個人的で、もっと近い距離の震えがある。
ミレイユは鏡越しに彼女を見て、柔らかく答えた。
「……準備します」
それが、彼女にできる最大の安心の渡し方だった。
リネは唇を噛み、やがて小さく頷いた。
「はい。……私も、準備します」
その言い方が、どこか決意に近かった。
───
使者が来たのは昼前だった。
中庭ではなく、応接間。正式な場だ。侯爵は礼装で待ち、夫人も座っている。ミレイユはその脇に控え、姿勢を整えて動かない。動かないことも訓練の一つだ。
扉が開き、男が二人入ってきた。
一人は年配で、服の仕立てが良い。宮廷官僚の匂い。もう一人は若く、剣を帯びている。護衛だろう。護衛の視線は部屋の角と扉、窓、侯爵家側の人数を瞬時に確認し、その上でミレイユの位置に一度だけ留まった。
敵ではない。
だが、油断する相手でもない。
年配の男が丁寧に頭を下げる。
「ヴァルディエール侯爵、侯爵夫人。ご機嫌麗しゅう。王宮より参りました。王太子府付き政務官、アロイス・デルマンと申します」
侯爵が答える。
「遠路ご苦労。用件は承っている」
アロイスは微笑み、文書の入った筒を差し出した。
侯爵が受け取り、封蝋を確認する。王家の紋章。ここからは形式の世界だ。
「第2王子殿下のご婚約について、正式な打診と——候補者の確認を。殿下は、ヴァルディエール家のミレイユ嬢を、婚約者として望んでおられます」
部屋が静かになる。
本来なら、この瞬間に“喜び”の演技が入るのだろう。侯爵夫人が目を潤ませ、侯爵が誇らしげに頷く。ミレイユが頬を赤らめ、控えめに視線を落とす。
だがミレイユは、視線を落としはしなかった。落とす必要がない。
落とすべきなのは、相手の言葉の裏にある条件だ。
アロイスが続ける。
「婚約の形式は、来月の評議会後に発表。ミレイユ嬢には先立って王宮へ入り、礼法と王太子府の作法、殿下の御側に仕える準備をしていただきます」
王宮に入る。
それは“家”から“組織”へ移ることを意味する。生活が変わる。守るべきものが増える。敵の数も増える。自由度は落ちるが、情報量は増える。
侯爵が問うた。
「候補者の確認、というのは」
アロイスは穏やかに答えた。
「殿下のご意向は強い。しかし形式上、本人の同意を得る必要がございます。——ミレイユ嬢、お気持ちを伺ってもよろしいでしょうか」
視線が集まる。
夫人の息が僅かに詰まる。リネは控えの位置で手を握り締めている。
ミレイユは立ち上がり、礼をした。
角度、間、視線。ここ数年で覚えた“盾”の使い方を、丁寧に当てはめる。
「お話、承りました」
まずは受領。
その上で確認。
「……確認しても、よろしいでしょうか」
アロイスが目を瞬かせる。
「もちろん」
ミレイユは柔らかい声で、短く要点を並べた。
「王宮に入る時期。
私に求められる役割。
家への影響」
言葉が少ないのに、問いが具体的だった。
アロイスは一瞬、表情を整え直し、笑みを崩さず答える。
「時期は来週。役割は、殿下の婚約者としての礼法と公務への同行。家への影響は——栄誉であり、責務でもあります。王宮への出仕が増え、侯爵家も王家との結びつきが強くなる」
栄誉と責務。
美しい言葉だが、実態は“拘束と利用”だ。
ミレイユは頷いた。
「……承知しました」
それから、ほんの少しだけ間を置いた。
ここで感情の言葉を入れるのが作法なのは分かっている。嬉しい、と言えば場は丸く収まる。だが、それは嘘になる。嘘をつけば、次の判断が鈍る。
嘘の代わりに、彼女は自分にとって最も自然な言葉を置いた。
「配置転換ですね」
空気が止まった。
夫人が一瞬、目を見開く。
侯爵が咳払いを飲み込みかける。
リネが小さく息を呑んで、肩が震えた。
アロイスだけが、数拍遅れて、その言葉を理解したらしい。
笑うべきか、叱るべきかを計り、結局は微笑みの形で落とし所を作った。
「……ええ。そう捉えていただいて差し支えありません。殿下の御側は、多忙な職場ですから」
職場。
その表現はミレイユにとって救いだった。恋や夢ではなく、任務に落とし込める。
ミレイユは改めて礼をし、結論を言った。
「承諾します」
夫人が息を吐いた。
侯爵は小さく頷き、アロイスは明るく言った。
「ありがとうございます。殿下もお喜びになられます。来週、王宮の迎えを差し向けますので——」
話は形式へ戻っていく。
日程、持参品、同行者、今後の手順。
ミレイユはそれを頭の中で箇条書きにしながら聞いた。
(移動:来週)
(迎え:王宮側)
(必要物資:衣類、礼装、私物)
(同行:侍女一名?)
(住居:王宮内の居室)
一通りの説明が終わり、使者たちが退出した後、応接間の空気はやっと解けた。
夫人が先に口を開く。
「ミレイユ……今の言い方は……」
叱責ではない。確認だ。
ミレイユは少しだけ頭を下げる。
「……失礼でしたか」
「失礼、というより……王宮の方々は驚くわ」
「……驚きは、想定内です」
侯爵が椅子に深く座り、低い声で言った。
「お前は、王宮で余計な目立ち方をするな。……政治の場だ」
「……はい」
返事は短い。だが内心では同意している。
目立つことは危険だ。危険なら抑える。必要な範囲で、盾を使う。
夫人が、少し強い声で言った。
「王宮へ行けば、あなたは“侯爵令嬢”ではなく“王子の婚約者”として見られる。求められる振る舞いは変わるわ」
ミレイユは頷いた。
「……役割が変わるなら、手順も変えます」
夫人はその言葉に、少しだけ笑った。
笑いながらも、目が濡れている。
「本当に……あなたらしいわね」
ミレイユは何も言わなかった。
母の感情に対して、どう返すのが最適かが分からない。分からないなら、余計なことは言わない。
その代わり、必要なことだけ確認する。
「……リネを、連れて行けますか」
夫人が驚いて、それから頷く。
「ええ。あなたが望むなら。リネはあなたに慣れているし、あなたも——」
夫人は言葉を切り、視線を逸らした。
“あなたも不器用だから”と言いかけたのが分かった。
ミレイユは淡々と頷いた。
「……必要です」
───
その日の夕方、剣の稽古はいつもより短かった。
ヴァルターはミレイユの動きを見て、すぐに分かったようだった。
「心が散っている」
「……王宮の件です」
「婚約か」
「……はい」
ヴァルターは木刀を下ろし、少しだけ眉を寄せた。
「お前は喜ばないのか」
ミレイユは迷わず答えた。
「……仕事です」
ヴァルターの目が細くなる。
それから、乾いた息を吐いた。
「そうか。——なら、なおさらだ」
彼は木刀で地面を軽く指した。
「王宮は戦場だ。剣の届かない距離で人が死ぬ。お前の“生き残る手順”が試される」
ミレイユは頷く。
「……はい」
ヴァルターは少しだけ声を落とした。
「王宮では剣を持てない場も多い。だが、お前の剣は最後の盾だ。最後の盾を忘れるな」
「……忘れません」
最後に、ヴァルターは珍しく言葉を足した。
「逃げるな。だが、逃げ道は必ず作れ」
それは、ミレイユの思想と完全に一致していた。
彼女は短く礼をする。
「……ありがとうございます」
稽古を終え、屋敷へ戻る道でリネが追いついてきた。
顔が赤い。走ってきたのだろう。
「お嬢様!」
「……どうしたの」
「王宮へ……私も……」
息が切れている。言葉が追いつかない。
ミレイユは一拍置き、柔らかく言った。
「……一緒に来て」
その短い一言で、リネの顔が崩れた。
泣く寸前の笑顔。
「はい……! はい、お嬢様……!」
ミレイユは、彼女の反応を見て、胸の奥が僅かに温かくなるのを感じた。
その温かさが何なのか、まだ正確に言語化できない。けれど、悪くない。
夜、荷造りの準備が始まった。
ミレイユは机に紙を置き、必要物資を列挙していく。
衣類、礼装、履物、体操用の軽い服、手袋、薬、記録用の紙、筆記具。
剣は持ち込めないかもしれないが、木刀程度なら“稽古用”として許される可能性がある。交渉してみる価値はある。
最後に一行、書き足した。
(王宮=新しい任務地)
(任務:生存と役割遂行)
(目標:自由度の確保)
書き終えた紙を見つめ、ミレイユは静かに息を吐いた。
配置転換。
その言葉は冷たいのではない。
自分が崩れないための、たった一つの枠だった。
王宮へ行く。
そこがどれほどの戦場でも、手順は同じ。
呼吸を整える。
姿勢を整える。
足場を作る。
逃げ道を確保する。
最後に、剣を忘れない。
そして——生き残る。




