表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『追放された悪役侯爵令嬢ですが、元自衛官なので前線は職場です』 ――戦場で出会ったのは、剣よりも重い責任でした  作者: 月白ふゆ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/11

第4話 『淑女と兵士の間で』

ミレイユが「朝」を自分のものにしてから、屋敷の時間は少しだけ変わった。


まだ陽が昇り切る前の薄い光。庭に残る冷気。露で濡れた芝の匂い。

その時間に、彼女は必ず起きた。誰に言われたわけでもない。起きると決めたから起きる。


最初は六歳の身体だった。熱の後遺症でふらつき、走るどころか歩くだけで息が上がった。

だから、歩いた。呼吸を整え、姿勢を整え、同じ距離を、同じ速さで、毎日。


七歳になる頃には、歩く距離が伸びた。

八歳で軽く走れるようになり、九歳で転ばなくなった。

十歳の冬、雪の朝でも屋敷の廊下を静かに往復したとき、リネが思わず声を上げた。


寒さで頬を赤くしながら、上着を差し出してきたリネは、半分呆れたように、半分真剣に言った。お嬢様はどうしてそこまで、と。

ミレイユは息を整えたまま、短く答えた。


必要だから。


それ以上でもそれ以下でもない。


ヴァルターの稽古は、週に三度。

木刀から始まり、次に短剣、そして軽い模擬剣へ移った。

彼は言葉を飾らず、褒め言葉も必要最低限で、指示だけを置く。


足。距離。視線。呼吸。

打ったら終わりではなく、打った後に周囲を見る。

勝つためではなく、逃げるために斬る。


ミレイユがそれを飲み込む速度は早かった。

彼女は強くなりたいのではない。正確になりたかった。

強さは結果であって、目的ではない。


十歳のある日、ヴァルターは稽古の終わりに、珍しく短い笑いを漏らした。


刃を止める。

足を引く。

視線を上げて、次の危険を確認する。


その一連が、幼い身体の中でひとつの流れになった瞬間だった。


「——いい。今のは、“生き残る手順”だ」


ミレイユは頷いて、木刀を下ろした。

息は乱れていない。胸ではなく腹で呼吸ができている。


「……ありがとうございます」


礼の言葉だけは、少しずつ増えた。

増えたというより、必要なところに置けるようになった。

リネはそれを聞くたびに嬉しそうにして、逆にミレイユの方が居心地が悪くなることがあった。


その一方で、社交の時間は、毎年重くなっていった。


侯爵家の令嬢には、学ぶべきことが山ほどある。

礼儀作法、舞踏、音楽、刺繍、茶会の作法、言葉遣い、笑みの作り方。

それらは「できて当然」で、できないことは欠点として刻まれる。


ミレイユは、覚えた。

覚えたが、馴染まなかった。


礼はできる。会釈もできる。

歩き方も、ドレスの扱いも、舞踏の基本も身についた。

だが彼女は、そこに「心」を乗せることがなかった。


たとえば茶会。


十歳の春、同年代の令嬢たちが集まる小さな席に出たときのことだ。

花の香りが濃い部屋で、菓子が並び、皆が柔らかく笑い合う。

楽しげな会話が流れ、誰かが恋の噂を小声で混ぜた。


ミレイユも、椅子に座っていた。背筋は伸び、姿勢は完璧。

カップの持ち方も、美しい。

しかし彼女の視線は、花瓶でも菓子でもなく、扉と窓と侍女の動線に落ちていた。


扉は一つ。廊下は狭い。逃げるなら窓。窓まで五歩。ドレスでは七歩。

侍女が一人。相手側に二人。

もし火が出れば、出口が詰まる。

もし騒ぎになれば、ここは圧死が出る。


その瞬間、隣の令嬢が笑いながら声をかけた。


ミレイユは何を見ているの、と。


ミレイユは一拍置き、柔らかい声で答えた。


「……出口です」


部屋が、一瞬だけ静かになった。

誰も怒らない。誰も叱らない。

ただ、皆が同じように困った笑顔を作った。


「まあ、ミレイユ様ったら。冗談がお上手ね」


冗談ではないが、否定もしなかった。

否定すれば場が崩れる。崩れれば敵が増える。

場を崩さないことも、生存の手順だ。


だからミレイユは、ほんの少しだけ口角を上げた。

笑っているように見える程度に。


その「笑い」が、逆に場を凍らせたのだと知るのは、後になってからだった。

彼女の笑みは、柔らかいのに温度がない。

怖い、という噂が生まれるには十分だった。


家では、兄がそれを面白がった。


廊下で会えば、わざと大きな声でからかう。

令嬢のくせに警備兵みたいだ、と。

ミレイユは反論しない。ただ、挨拶だけはするようになっていた。


「おはようございます」


兄は一瞬むっとして、それから鼻で笑う。


「挨拶だけは立派だな。……相変わらず変な奴」


変、という言葉はもう慣れた。

変だと言われるたびに、ミレイユは頭の中で確認する。


何が変なのか。

自分が危険を見ていることか。

人の気持ちより手順を優先することか。

言葉が少ないことか。


変だとして、何が困るのか。


困るのは、相手だ。

自分が困るのは、変であることではなく、変であるせいで必要な支援が得られないことだ。

だから彼女は、少しずつ「形」を整えていった。


礼を覚える。

言葉を短く丁寧にする。

必要なときだけ、笑う。


それでも決定的に噛み合わない瞬間がある。


十一歳の夏。

侯爵家の客として、地方の伯爵家が屋敷を訪れた。

同年代の令嬢と子息が連れてこられ、半ば「顔合わせ」のような席になった。


部屋は広い。人も多い。

会話の輪がいくつもできる。

ミレイユは端の席で、あえて目立たない位置に座った。


それを見た伯爵家の子息が、笑いながら言った。


どうしてそんなに端にいるのか、もっと中心へ来ればいいのに、と。


ミレイユは、柔らかい声で答えた。


「……端の方が、見えます」


「何が?」


「……全部」


子息は最初は笑ったが、次第に笑いが引きつった。

令嬢は普通、「全部が見える」などと言わない。

言うとしても、もっと可愛らしい言い方をする。


リネが後ろで小さく身を縮めるのが分かった。

夫人も、一瞬だけ目を閉じた。


ミレイユはそこでようやく、言葉の選び方がまずかったと理解した。

理解したが、取り繕う言葉はすぐに出ない。

出ないなら、別の手段を取るしかない。


ミレイユは少しだけ頭を下げた。


「……失礼しました」


それだけで、場は何とか流れた。

けれど、噂は残る。


「変わっている」

「少し怖い」

「どこか抜けているのに、妙に落ち着いている」

「侯爵家の悪役令嬢」


悪役、という言葉が屋敷の外からも入ってくるようになったのは、十二歳の頃だった。

理由は簡単だ。

周囲の期待する「令嬢の反応」を、彼女が返さないから。


喜ぶべき場で、喜ばない。

悲しむべき場で、泣かない。

嫉妬するべき場で、笑わない。


その代わりに、彼女は淡々と「必要なこと」をやる。


それが不気味に見える。


ミレイユは自分が誤解されていることを理解していた。

理解していて、訂正しようとしなかった。

訂正しても、相手の期待の形が変わらない限り、同じ場所に戻る。

それより、自分の足場を固めることが先だ。


足場は、剣と体力と、屋敷の味方だ。


味方の筆頭は、リネだった。

リネはずっと、変な子だと思いながらも、毎朝の上着を持ってきて、稽古の後の汗を拭き、怪我がないかを確認してくれた。


ある朝、稽古の後にミレイユが呼吸を整えていると、リネがふと真面目な顔で言った。


お嬢様は、怖くないのですか、と。


ミレイユは少しだけ考えた。

怖い、という感情を否定はしない。

ただ、その感情の扱い方が違う。


「……怖いです」


リネが驚いて目を丸くする。


「でも……怖く見えません」


「……怖いから、準備します」


その一言で、リネの表情が崩れた。泣く寸前の顔。

ミレイユは慌てて言葉を探したが、余計なことは言わない方がいい。


代わりに、短く付け足した。


「……リネも、無理はしないで」


リネは涙を堪えながら、何度も頷いた。


その日は、ヴァルターの稽古が少し厳しかった。

足が鈍ると、声が飛ぶ。

視線が落ちると、木刀が肩に軽く当たる。

ミレイユは痛みを顔に出さず、ただ息を整えて動きを修正した。


稽古の終わり、ヴァルターが言った。


「お前は、社交に向かない」


ミレイユは木刀を下ろし、頷いた。


「……はい」


「それでも、生き残るなら、社交も学べ」


「……はい」


「だが忘れるな。社交は盾だ。剣は最後の盾だ」


その言葉が、妙に胸に残った。

社交が盾なら、彼女は盾の扱いが下手だ。

下手なら、訓練するしかない。


十二歳の終わり頃、ミレイユはようやく「笑う練習」を始めた。

鏡の前で、口角だけを上げる。目を細めすぎない。顎を引きすぎない。

表情の筋肉を鍛えるように、毎日少しずつ。


リネがそれを見て、最初はぎょっとした。

次に吹き出して、最後は泣き笑いになった。


「お嬢様……! その、怖いです!」


ミレイユは真剣に頷いた。


「……直します」


そのやり取りが、妙に日常になっていく。


そして十三歳が近づいた頃、屋敷の空気が変わった。


父——侯爵が、久しぶりにミレイユを呼んだ。

書斎は静かで、紙と革の匂いが濃い。

彼は大きな机の向こうでミレイユを見下ろし、短く言った。


「ミレイユ。お前に話がある」


ミレイユは礼をし、椅子の前で止まった。

座れと言われるまで座らない。軍の癖がまだ残る。


侯爵は、その癖に気づいていないふりをした。


「王宮から、打診が来た」


打診。

その単語が、ミレイユの中で静かに警報を鳴らす。

政治の匂いがする。


「……内容は」


侯爵は一度だけ息を吐き、言葉を置いた。


「第2王子の婚約者候補として、お前の名が上がっている」


ミレイユは驚かなかった。

驚かなかったことに、自分で少しだけ驚いた。


怖いのではない。

これもまた、配置だ。


彼女は柔らかい声で、短く答えた。


「……承知しました」


侯爵が眉を僅かに動かす。

普通の令嬢なら、喜ぶか、震えるか、泣くか、どれかだろう。

ミレイユはどれもしない。


ただ、次の確認をした。


「……準備期間は、どれくらいですか」


その問いに、侯爵はしばらく黙った。

やがて、低い声で言う。


「お前は、本当に……変わっているな」


ミレイユは頷いた。


「……はい」


変わっている。

その言葉は、もう痛くない。


ミレイユの中で、社交と訓練のズレは埋まらないままだ。

けれど彼女は知っている。ズレは欠点ではない。使い方次第で武器になる。


社交が盾なら、盾の持ち方を学べばいい。

剣が最後の盾なら、最後の盾は折れないように鍛え続ける。


書斎を出るとき、廊下の窓から庭が見えた。

芝は冬の前の色をしていて、空は高い。


ミレイユは一度だけ深く息を吸う。


この屋敷の外へ、配置が動き始める。

それでも、彼女の朝は変わらない。


呼吸。姿勢。足。視線。

生き残る手順。


それだけは、どこへ行っても持っていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ