第4話 『淑女と兵士の間で』
ミレイユが「朝」を自分のものにしてから、屋敷の時間は少しだけ変わった。
まだ陽が昇り切る前の薄い光。庭に残る冷気。露で濡れた芝の匂い。
その時間に、彼女は必ず起きた。誰に言われたわけでもない。起きると決めたから起きる。
最初は六歳の身体だった。熱の後遺症でふらつき、走るどころか歩くだけで息が上がった。
だから、歩いた。呼吸を整え、姿勢を整え、同じ距離を、同じ速さで、毎日。
七歳になる頃には、歩く距離が伸びた。
八歳で軽く走れるようになり、九歳で転ばなくなった。
十歳の冬、雪の朝でも屋敷の廊下を静かに往復したとき、リネが思わず声を上げた。
寒さで頬を赤くしながら、上着を差し出してきたリネは、半分呆れたように、半分真剣に言った。お嬢様はどうしてそこまで、と。
ミレイユは息を整えたまま、短く答えた。
必要だから。
それ以上でもそれ以下でもない。
ヴァルターの稽古は、週に三度。
木刀から始まり、次に短剣、そして軽い模擬剣へ移った。
彼は言葉を飾らず、褒め言葉も必要最低限で、指示だけを置く。
足。距離。視線。呼吸。
打ったら終わりではなく、打った後に周囲を見る。
勝つためではなく、逃げるために斬る。
ミレイユがそれを飲み込む速度は早かった。
彼女は強くなりたいのではない。正確になりたかった。
強さは結果であって、目的ではない。
十歳のある日、ヴァルターは稽古の終わりに、珍しく短い笑いを漏らした。
刃を止める。
足を引く。
視線を上げて、次の危険を確認する。
その一連が、幼い身体の中でひとつの流れになった瞬間だった。
「——いい。今のは、“生き残る手順”だ」
ミレイユは頷いて、木刀を下ろした。
息は乱れていない。胸ではなく腹で呼吸ができている。
「……ありがとうございます」
礼の言葉だけは、少しずつ増えた。
増えたというより、必要なところに置けるようになった。
リネはそれを聞くたびに嬉しそうにして、逆にミレイユの方が居心地が悪くなることがあった。
その一方で、社交の時間は、毎年重くなっていった。
侯爵家の令嬢には、学ぶべきことが山ほどある。
礼儀作法、舞踏、音楽、刺繍、茶会の作法、言葉遣い、笑みの作り方。
それらは「できて当然」で、できないことは欠点として刻まれる。
ミレイユは、覚えた。
覚えたが、馴染まなかった。
礼はできる。会釈もできる。
歩き方も、ドレスの扱いも、舞踏の基本も身についた。
だが彼女は、そこに「心」を乗せることがなかった。
たとえば茶会。
十歳の春、同年代の令嬢たちが集まる小さな席に出たときのことだ。
花の香りが濃い部屋で、菓子が並び、皆が柔らかく笑い合う。
楽しげな会話が流れ、誰かが恋の噂を小声で混ぜた。
ミレイユも、椅子に座っていた。背筋は伸び、姿勢は完璧。
カップの持ち方も、美しい。
しかし彼女の視線は、花瓶でも菓子でもなく、扉と窓と侍女の動線に落ちていた。
扉は一つ。廊下は狭い。逃げるなら窓。窓まで五歩。ドレスでは七歩。
侍女が一人。相手側に二人。
もし火が出れば、出口が詰まる。
もし騒ぎになれば、ここは圧死が出る。
その瞬間、隣の令嬢が笑いながら声をかけた。
ミレイユは何を見ているの、と。
ミレイユは一拍置き、柔らかい声で答えた。
「……出口です」
部屋が、一瞬だけ静かになった。
誰も怒らない。誰も叱らない。
ただ、皆が同じように困った笑顔を作った。
「まあ、ミレイユ様ったら。冗談がお上手ね」
冗談ではないが、否定もしなかった。
否定すれば場が崩れる。崩れれば敵が増える。
場を崩さないことも、生存の手順だ。
だからミレイユは、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑っているように見える程度に。
その「笑い」が、逆に場を凍らせたのだと知るのは、後になってからだった。
彼女の笑みは、柔らかいのに温度がない。
怖い、という噂が生まれるには十分だった。
家では、兄がそれを面白がった。
廊下で会えば、わざと大きな声でからかう。
令嬢のくせに警備兵みたいだ、と。
ミレイユは反論しない。ただ、挨拶だけはするようになっていた。
「おはようございます」
兄は一瞬むっとして、それから鼻で笑う。
「挨拶だけは立派だな。……相変わらず変な奴」
変、という言葉はもう慣れた。
変だと言われるたびに、ミレイユは頭の中で確認する。
何が変なのか。
自分が危険を見ていることか。
人の気持ちより手順を優先することか。
言葉が少ないことか。
変だとして、何が困るのか。
困るのは、相手だ。
自分が困るのは、変であることではなく、変であるせいで必要な支援が得られないことだ。
だから彼女は、少しずつ「形」を整えていった。
礼を覚える。
言葉を短く丁寧にする。
必要なときだけ、笑う。
それでも決定的に噛み合わない瞬間がある。
十一歳の夏。
侯爵家の客として、地方の伯爵家が屋敷を訪れた。
同年代の令嬢と子息が連れてこられ、半ば「顔合わせ」のような席になった。
部屋は広い。人も多い。
会話の輪がいくつもできる。
ミレイユは端の席で、あえて目立たない位置に座った。
それを見た伯爵家の子息が、笑いながら言った。
どうしてそんなに端にいるのか、もっと中心へ来ればいいのに、と。
ミレイユは、柔らかい声で答えた。
「……端の方が、見えます」
「何が?」
「……全部」
子息は最初は笑ったが、次第に笑いが引きつった。
令嬢は普通、「全部が見える」などと言わない。
言うとしても、もっと可愛らしい言い方をする。
リネが後ろで小さく身を縮めるのが分かった。
夫人も、一瞬だけ目を閉じた。
ミレイユはそこでようやく、言葉の選び方がまずかったと理解した。
理解したが、取り繕う言葉はすぐに出ない。
出ないなら、別の手段を取るしかない。
ミレイユは少しだけ頭を下げた。
「……失礼しました」
それだけで、場は何とか流れた。
けれど、噂は残る。
「変わっている」
「少し怖い」
「どこか抜けているのに、妙に落ち着いている」
「侯爵家の悪役令嬢」
悪役、という言葉が屋敷の外からも入ってくるようになったのは、十二歳の頃だった。
理由は簡単だ。
周囲の期待する「令嬢の反応」を、彼女が返さないから。
喜ぶべき場で、喜ばない。
悲しむべき場で、泣かない。
嫉妬するべき場で、笑わない。
その代わりに、彼女は淡々と「必要なこと」をやる。
それが不気味に見える。
ミレイユは自分が誤解されていることを理解していた。
理解していて、訂正しようとしなかった。
訂正しても、相手の期待の形が変わらない限り、同じ場所に戻る。
それより、自分の足場を固めることが先だ。
足場は、剣と体力と、屋敷の味方だ。
味方の筆頭は、リネだった。
リネはずっと、変な子だと思いながらも、毎朝の上着を持ってきて、稽古の後の汗を拭き、怪我がないかを確認してくれた。
ある朝、稽古の後にミレイユが呼吸を整えていると、リネがふと真面目な顔で言った。
お嬢様は、怖くないのですか、と。
ミレイユは少しだけ考えた。
怖い、という感情を否定はしない。
ただ、その感情の扱い方が違う。
「……怖いです」
リネが驚いて目を丸くする。
「でも……怖く見えません」
「……怖いから、準備します」
その一言で、リネの表情が崩れた。泣く寸前の顔。
ミレイユは慌てて言葉を探したが、余計なことは言わない方がいい。
代わりに、短く付け足した。
「……リネも、無理はしないで」
リネは涙を堪えながら、何度も頷いた。
その日は、ヴァルターの稽古が少し厳しかった。
足が鈍ると、声が飛ぶ。
視線が落ちると、木刀が肩に軽く当たる。
ミレイユは痛みを顔に出さず、ただ息を整えて動きを修正した。
稽古の終わり、ヴァルターが言った。
「お前は、社交に向かない」
ミレイユは木刀を下ろし、頷いた。
「……はい」
「それでも、生き残るなら、社交も学べ」
「……はい」
「だが忘れるな。社交は盾だ。剣は最後の盾だ」
その言葉が、妙に胸に残った。
社交が盾なら、彼女は盾の扱いが下手だ。
下手なら、訓練するしかない。
十二歳の終わり頃、ミレイユはようやく「笑う練習」を始めた。
鏡の前で、口角だけを上げる。目を細めすぎない。顎を引きすぎない。
表情の筋肉を鍛えるように、毎日少しずつ。
リネがそれを見て、最初はぎょっとした。
次に吹き出して、最後は泣き笑いになった。
「お嬢様……! その、怖いです!」
ミレイユは真剣に頷いた。
「……直します」
そのやり取りが、妙に日常になっていく。
そして十三歳が近づいた頃、屋敷の空気が変わった。
父——侯爵が、久しぶりにミレイユを呼んだ。
書斎は静かで、紙と革の匂いが濃い。
彼は大きな机の向こうでミレイユを見下ろし、短く言った。
「ミレイユ。お前に話がある」
ミレイユは礼をし、椅子の前で止まった。
座れと言われるまで座らない。軍の癖がまだ残る。
侯爵は、その癖に気づいていないふりをした。
「王宮から、打診が来た」
打診。
その単語が、ミレイユの中で静かに警報を鳴らす。
政治の匂いがする。
「……内容は」
侯爵は一度だけ息を吐き、言葉を置いた。
「第2王子の婚約者候補として、お前の名が上がっている」
ミレイユは驚かなかった。
驚かなかったことに、自分で少しだけ驚いた。
怖いのではない。
これもまた、配置だ。
彼女は柔らかい声で、短く答えた。
「……承知しました」
侯爵が眉を僅かに動かす。
普通の令嬢なら、喜ぶか、震えるか、泣くか、どれかだろう。
ミレイユはどれもしない。
ただ、次の確認をした。
「……準備期間は、どれくらいですか」
その問いに、侯爵はしばらく黙った。
やがて、低い声で言う。
「お前は、本当に……変わっているな」
ミレイユは頷いた。
「……はい」
変わっている。
その言葉は、もう痛くない。
ミレイユの中で、社交と訓練のズレは埋まらないままだ。
けれど彼女は知っている。ズレは欠点ではない。使い方次第で武器になる。
社交が盾なら、盾の持ち方を学べばいい。
剣が最後の盾なら、最後の盾は折れないように鍛え続ける。
書斎を出るとき、廊下の窓から庭が見えた。
芝は冬の前の色をしていて、空は高い。
ミレイユは一度だけ深く息を吸う。
この屋敷の外へ、配置が動き始める。
それでも、彼女の朝は変わらない。
呼吸。姿勢。足。視線。
生き残る手順。
それだけは、どこへ行っても持っていく。




