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『追放された悪役侯爵令嬢ですが、元自衛官なので前線は職場です』 ――戦場で出会ったのは、剣よりも重い責任でした  作者: 月白ふゆ


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第3話 『剣は勝つためでなく、生きるため』

剣の教師が来る、という話は、その日のうちに屋敷中へ回ったらしい。


翌朝、ミレイユが庭へ出ようと廊下を歩いていると、すれ違った侍女が小声で囁き合うのが聞こえた。驚きと心配と、少しの興味が混じった声。六歳の令嬢が「護身のために剣の先生を」と言い出すのは、この屋敷では珍事なのだろう。


ミレイユは、その視線を気にしないことにした。気にすれば手が遅れる。手が遅れれば積み上がらない。積み上がらないものは、戦場では役に立たない。


庭の空気は、昨日より乾いていた。

雨の匂いが薄れ、草の青さが前へ出ている。呼吸が深くなる。胸が静かに落ち着く。


ミレイユは木陰の端に立ち、短く柔軟を済ませた。呼吸、肩、首、股関節。必要なところだけ。昨日より体が動く。回復しているのが分かる。


背後で足音がして、リネが上着を抱えて現れた。


「お嬢様、今日は外套を……それと、奥様が朝食後にお呼びです。剣の先生の件で」


「……わかりました」


返事は短い。言うことは決まっている。



───


侯爵夫人の部屋は、朝の光がよく入っていた。


窓辺の机には書類が並び、インクの匂いがする。貴族の奥方というより、実務を回している人の部屋だ。ミレイユはそこに、妙な安心を感じた。実務がある場所は、判断の基準が見えやすい。


「ミレイユ」


夫人は椅子から立ち上がり、少しだけ近づいてきた。昨日より顔色が良いのを確かめるように、目を細める。


「本当に剣の教師を?」


「……はい」


「護身のため、だったわね」


「……はい」


同じ返事が続く。夫人はそれを咎めず、むしろ慎重に言葉を選んだ。


「あなたが何かを怖がっているのなら、母として放ってはおけません。でも、あなたは……怖がっているように見えないの」


怖がっていない、わけではない。

恐怖はある。ただ、恐怖は判断の材料であって、行動の理由ではない。


ミレイユは一拍置いて答えた。


「……備えたいだけです」


夫人は、その言葉をゆっくり噛み締めた。

備える、という単語が、この家にとっては重いのだろう。侯爵家は王都にある。政治の中心に近い。備えは、常に必要だ。


夫人は机の端を指で軽く叩いた。


「あなたのお父上にも話しました。反対はされなかったわ。……ただし条件がある」


「……条件」


「体に無理をしないこと。訓練は遊びではないから、きちんと段階を踏むこと。——あなたの言う“段階”ね」


ミレイユは頷いた。


「……はい」


夫人は少し微笑み、それから真面目な顔に戻った。


「教師は今日、昼前に来ます。武門の家に縁のある方よ。礼儀と節度を重んじると聞いています。あなたも——」


「……失礼、しません」


ミレイユが先に言うと、夫人は少し驚いた顔をして、すぐに頷いた。


「ええ。あなたは失礼はしない。……ただ、言葉が少ないだけ」


「……必要なら、増やします」


その返事に、夫人は思わず笑った。

笑いの質が、昨日より柔らかい。娘を失いかけた恐怖が、少し薄れたのだろう。


「増やさなくていいわ。あなたは、あなたのままで。——でも、剣の場では“挨拶”は必要よ」


「……はい」


ミレイユは礼をして部屋を出た。

リネが廊下で待っていて、ほっとしたように胸を撫で下ろす。


「お嬢様、奥様は……?」


「……許可」


「よかった……! では、剣の先生は中庭に通されます。お嬢様もお昼前に」


「……わかりました」


リネの顔が、少しだけ明るくなる。

この侍女は、ミレイユの“変な提案”を怖がりながらも、否定はしない。支えるために動く。支える人間がいるのは、ありがたい。


ミレイユは、上着の袖を整えながら言った。


「……ありがとう」


リネはまた驚いて、それから小さく笑った。


「お嬢様は本当に、時々だけ……とても大人みたいなことを仰います」


大人みたい、ではない。

大人だ。中身は。


言わない。

言う必要がない。


ミレイユは、庭へ戻った。



───


昼前、中庭にはいつもより人がいた。


侯爵家の使用人が動線を確保し、リネが落ち着かない様子で何度も視線を行き来させている。侯爵夫人も、少し離れた位置で見守っていた。さらに、見慣れない男性が一人。背が高く、年齢は四十代半ばほど。長い外套の下に、鍛えた身体の輪郭が見える。


剣士だ。


腰には、細身の剣が下がっていた。装飾は少ない。持ち主の実務性がにじむ。


男は夫人に短く頭を下げ、次にミレイユへ視線を移した。視線が鋭い。だが刺すような鋭さではない。人を測る目だ。


「ミレイユ・ヴァルディエール嬢ですね」


声は低く、落ち着いている。

丁寧だが、媚びがない。


「はい」


ミレイユは小さく礼をした。昨日より、角度を深くした。リネが教えてくれた範囲で調整する。礼が決まると、相手の反応も変わる。礼は武器だ。


男は頷き、夫人へ視線を戻した。


「ヴァルディエール侯爵夫人。お話は伺いました。護身のための剣術、と」


「ええ。……本人の希望です。身体はまだ回復途上ですが、あの子はどうしても、というの」


男は一度だけ目を細めた。それからミレイユに戻る。


「希望は結構。しかし、護身の剣は“格好”ではない。痛みも恐怖も伴います。それでもよろしいですか」


ミレイユは頷いた。


「……はい」


「理由は?」


「……必要だから」


リネが小さく息を呑んだ。夫人も微妙に表情を変えた。

男は、ミレイユをじっと見た。沈黙が続く。大人相手なら圧のかかる沈黙だが、ミレイユは動じない。沈黙は情報を引き出す道具だ。慣れている。


男はやがて、短く言った。


「……よろしい」


そして自分の名を告げた。


「ヴァルター・グレイヴス。しばらくの間、あなたに剣を教えます。——ただし条件が一つ」


夫人が身構える。


「条件?」


ヴァルターは淡々と答えた。


「この子の剣は、“勝つ剣”ではなく“生き残る剣”になります。貴族の場で見栄えのする剣舞は教えません。相手の急所を狙う。逃げるために斬る。倒した後に周囲を見る。——そういう剣です。それでもよろしいですか」


夫人は言葉を失った。

武門ならともかく、侯爵家の令嬢に教える内容としては過激に聞こえたのだろう。


だが、ミレイユは一瞬も迷わなかった。


「……それで、いいです」


声は柔らかい。言葉は短い。

けれど、その言葉の芯は硬い。


ヴァルターは、ほんの少しだけ口角を上げた。

笑ったというより、納得した顔だ。


「なら、まずは立ち方から。剣を持つ前に、足です」



───


剣は、すぐには渡されなかった。


ヴァルターは木刀を持ってきてはいたが、それを地面に置き、ミレイユの前に立った。


「ここに立ってください。足は肩幅。つま先は少し外。膝は固めない。腰は落としすぎない」


ミレイユは指示通りに立った。

幼い身体でも、姿勢の作り方は分かる。体幹の感覚は、前世のままだ。


ヴァルターが眉を僅かに上げる。


「……誰かに教わったことがありますか」


「……ないです」


嘘ではない。剣の作法はない。

ただ、身体の使い方は知っている。


ヴァルターはミレイユの周りを歩き、肩と腰の位置を見た。指で軽く背中に触れ、重心を調整する。


「視線は遠く。——目先ではなく、全体を見る。呼吸は浅くしない。胸ではなく腹で吸う」


ミレイユは、言われた通りに呼吸を落とした。

腹の奥に空気が入る。心拍が少し下がる。


ヴァルターが低く言った。


「いい。……“落ち着く方法”を知っている」


ミレイユは答えない。

肯定も否定もしない。評価は相手がするものだ。


ヴァルターは木刀を拾い上げ、柄をこちらへ向けた。


「握ってみてください。ただし、握りつぶすな。落とさない程度に、軽く」


ミレイユは柄を受け取った。木の感触が手のひらに馴染む。幼い手では大きいが、持てる。持てないなら、持てる形にするだけだ。


ヴァルターが指示する。


「構え。——刃筋は今は気にしなくていい。まず距離。相手が一歩入ってきた時に、あなたが一歩退ける距離を保つ」


ミレイユは小さく頷き、一歩引いた。

その一歩が、自然すぎてヴァルターの視線が鋭くなる。


「……退き足が早い」


「……転びたくないので」


ミレイユがそう言うと、リネがまた息を呑んだ。夫人も戸惑う。

だがヴァルターは、静かに頷いた。


「転ぶ者は死ぬ。——その感覚は正しい」


ミレイユの木刀に、ヴァルターの木刀が軽く触れた。

乾いた音が中庭に響く。


「打ってみなさい。肩ではなく、腰と足で。——大きく振る必要はない。短く、確実に」


ミレイユは、息を吐きながら小さく打った。

木刀が空気を切る音は弱い。力も足りない。だが、軌道はぶれない。


ヴァルターが一言。


「……無駄が少ない」


ミレイユは一度だけ瞬きをした。

褒められた、というより、観測された感じがする。それが心地いい。軍での評価に似ている。感情で持ち上げられるのではなく、事実として認められる。


ヴァルターは、次の動作へ移った。


「次。打ったら終わりではない。——打った後、視線を上げろ。周囲を見る」


ミレイユは打った後に顔を上げ、中庭の端、夫人、リネ、使用人の位置を確認した。


ヴァルターはその瞬間、はっきりと言った。


「それだ」


夫人が思わず口を開く。


「先生……?」


ヴァルターは夫人に視線を向けず、ミレイユだけを見て続けた。


「この子は、斬るために剣を持つのではない。生き残るために持つ。——珍しい。だが、悪くない」


ミレイユは木刀を下ろし、短く礼をした。


「……お願いします」


ヴァルターは頷いた。


「よろしい。今日の稽古はここまで。身体を壊したら意味がない。あなたはまだ六歳だ。——だが、“六歳だから”と油断もしない。明日も同じ時間に」


「……はい」


稽古は短かった。

けれど、必要なものだけが詰まっていた。


終わり際、ヴァルターがふと、低い声で言った。


「ミレイユ嬢」


「……はい」


「あなたは、なぜそんなに“生き残ること”に執着する」


問いは鋭い。

だが責めではない。確認だ。答え方が必要になる。


ミレイユは少しだけ間を置き、柔らかい声で言った。


「……死ぬのは、簡単です」


ヴァルターの目が細くなる。


「……そうだな」


「……生きる方が、難しい」


それだけ言った。

それ以上は言わない。言えば伝わらない。伝わらない話は、今は重いだけだ。


ヴァルターは何も言わなかったが、短く頷いた。


「明日も来い。——あなたの剣は、きっと役に立つ」


役に立つ。

その言葉は、ミレイユの胸の奥にまっすぐ落ちた。


役に立つこと。

それは、生き残るための手段であり、居場所を作るための道具でもある。


剣術教師との出会いは、ただの習い事ではなかった。

ミレイユは、初めてこの世界で“訓練が訓練として通じた”感覚を得ていた。


中庭を出るとき、リネが小さな声で言った。


「お嬢様……本当に、剣を……」


ミレイユは頷く。


「……必要だから」


また同じ答え。

それでも今回は、リネの顔が少しだけ違った。不安だけではなく、どこか誇らしさのようなものが混じっている。


夫人も、離れた場所からミレイユを見ていた。

表情は複雑だが、否定はなかった。受け入れようとしている。


ミレイユは、木刀の感触を手のひらに残したまま、静かに息を吸った。


剣は、まだ重い。

身体も、まだ弱い。

だが、方向は定まった。


“生き残る剣”を、ここから作る。


それが、六歳の令嬢がこの屋敷で始めた最初の戦備だった。

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